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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12537-12543:2024年4月19日(金)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12537. 自転車の日(Bicycle Day)の朝に

12538. 心の小さな成長を実感させる今朝方の夢

12539. 観想的な生活のために

12540. 大乗的な積極的な隠遁生活に向かって/今朝方の夢の続き

12541. 真理に近接していくための新たな習慣に向けて

12542. 諸縁を通じて時空を超えて届けられた『唯識論同学鈔』

12543. 『唯識論同学鈔』を通じた高田十郎氏との出会い


12537. 自転車の日(Bicycle Day)の朝に   


時刻は午前4時半を迎えた。今日は早朝から雨が降っていて、このまま雨が降り続けると、朝に小鳥の鳴き声があまり聞こえないかもしれない。小鳥たちは雨の中に木々にやって来て、鳴き声を上げてくれるだろうか。そのようなことを考える。


早朝からの雨のおかげか、昨日は朝の気温が2度だったが、今は7度ほどある。しかし今日の最高気温は昨日を下回り、9度までしか上がらない。日本の古書店から注文した書籍が近所の受取所に届けられたようなので、今日は午後にアクティブレストとしての散歩がてら書籍を受け取りに行こうと思う。気温の低さからマフラーと手袋をしていきたいと思う。受け取った書籍については、早速明日の朝から読み進めていく。注文した書籍のうち、およそ半分が届けられることになるので、読み応えのある唯識学の古書と共にもう半分の到着を待ちたい。


観想的な生活。まさに自分が心から望んでいた生活がここにある。とりわけ今の家に引っ越してからのこの4年間は、観想的な僧院生活と言ってもいいぐらいの静けさと落ち着きのある生活を営むことができている。こうした生活の在り方を残りの人生においても徹底すること。完全に夢から覚めるためにはそうした生活が必要であり、できる限り都市部には住まないこと。それが肝要である。都市部で生活しながらにして夢から覚められるほどに人は強くないし、賢くもない。賢者は静かに暮らすことを選ぶ。昔からきっとそうなのだろう。


今日は4/19ということで、「自転車の日(Bicycle Day)」である。自転車の日と言っても、それはスイスの化学者のアルバート・ホフマンがLSDの本格的な合成に成功した日を記念してこのように名付けられたのである。1943年にアルバート・ホフマンが研究室でLSDを自ら摂取し、自転車でフラフラになりながら自宅に帰ってその幻覚作用を確認した日である。サイケデリック関係者は今日を盛大に祝っていることだろう。明日の4/20は「国際カンナビスの日」ということで、これまたサイケデリック関係者たちが大いに祝福をするに違いない。2日続けてサイケデリクスに関する祝祭日がやって来るというのは興味深い。自分は特に何をするでもなしに、静かにこの2日を祝う。そして国際カンナビスの日の翌日に第31回のシロシビン・セッションを実施する。誰かが作った虚構の祝祭日への自覚を持ちながら、それに左右されることなく、自分はひたすらに夢から覚める道を歩んでいく。フローニンゲン:2024/4/19(金)04:54


12538. 心の小さな成長を実感させる今朝方の夢


時刻はまもなく午前5時を迎える。起床した時に降っていた強い雨から弱い雨に変わった。この調子だと、ひょっとしたらもう1時間したら小鳥たちがやって来て、鳴き声を上げてくれるのではないかという期待感が生まれる。こちらの都合で小鳥たちが鳴き声を届けてくれるわけではないが、静かに彼らの到来を待ち、彼らの鳴き声を楽しみにしておこう。それは朝の素敵な贈り物である。


今朝方の夢の中で、唯識学の煩悩の分析で言うところの忿(ふん)と失念(しつねん)を持つ自分がいた。忿とは爆発的に怒る心であり、失念とは元々は仏教の真理や仏陀の教えを忘れてしまうということだが、大切なことを忘れてしまうという意味である。夢の中の私は、かつて通っていた中学校の教室にいた。最終学年の時の教室の中で、教壇の真ん前の最前列の席に座っていた。実際にお世話になっていた担任の先生ではなく、顔の見えない見知らぬ先生がやって来て、先日の試験の結果を一人一人の生徒に返してきた。その時にどういうわけか、先生がある友人の名前を成績表に記載するのを忘れていたらしく、私に尋ねてきた。尋ねてきた友人の名前を私が先生の代わりに記載して問題が解決したかと思いきや、なんと友人の彼の名前が間違っていることが発覚したのである。本当は「末」と書かなければいけないところを「未」と書いてしまったようで、私のミスのようだった。いや、私はきちんと正しい漢字を書いたはずで、先生が改めて間違った漢字にすぐさま書き換えてしまったようだった。自分の名前が間違っていることを友人は怒り、その怒りを私にぶつけてきた。私は正しく彼の名前を書いたという確信があり、犯人は先生であるにもかかわらず、彼から怒りをぶつけられるのが理不尽で仕方なかった。そして、彼が怒りの矛先を自分に向けて私を罵倒するような言葉を浴びせたことを持ってして、私もそれに反応してしまい、理性を忘れて彼に蹴りを入れそうになった。しかしその怒りの感情をなとか抑え、怒りを耐え忍んだ。そのような場面があり、そこで一瞬目を覚ました。


この夢から覚めた時に、すぐさまベッドの上で反省している自分がいた。まだ日付を跨ぐぐらいの時間であったから、少しベッドの上でこの夢を振り返り、再び眠りの世界に戻っていった。その時の振り返りとしては、まだまだ自分の中で怒る心があるということであり、とりわけ理不尽な怒りをぶつけられると、その怒りに対して怒りで返そうとしてしまう自分がいることに気づいた。夢の中の自分は、その瞬間には唯識学の大切な教えを失念してしまっているようだったが、改めて夢の中の自分の行動を振り返ると、結局友人を殴ることなく怒りを耐え忍んだので、それは善の心の働きである「不害」に該当するであろう。そして、怒りを露わにしそうになった瞬間に、唯識学で述べられる煩悩と善の心の働きについて思い出したこともあり、それそのものが「念」という善の心の働きの現れであった。このように夢の中の自分も着実に進歩しているようである。あとは根本のところで怒りを起こさないようになることである。そこに至るまでの道のりは長いであろうが、一歩一歩の歩みを進めていこう。フローニンゲン:2024/4/19(金)05:12


12539. 観想的な生活のために    


早朝の心配事とは裏腹に、1羽の小鳥がキッチン側の木にやって来て、そこで鳴き声を上げている。ちょうど午前5時半を迎えるぐらいから鳴き声が聞こえ始めた。どうやら今はもう雨が止んでいるようで、午前中一杯は雨が降らず、午後から少し小雨が降るようだ。そうなってくると、小鳥たちの鳴き声を朝の時間は楽しませてもらえそうである。


昨夜、以前ジークンドーのプライベートレッスンをしてくれていたロビンさんからテキストメッセージが届いた。約20年前に入れた背中の刺青の漢字の意味が知りたいとのことだった。すでにロビンさんはその意味についてほぼ知っていたのだが、その正確な意味とローマ字でなんと表記するのかを知りたいとのことだった。ロビンさんの背中に入っている刺青は「正心」というものだ。それについて意味とローマ字表記を伝えたという一幕があった。そのようなやり取りをしている時に、ロビンさんから夕食の誘いがあった。ロビンさんは昨年にフローニンゲンの北の小さな町からフローニンゲンに引っ越してきた。新居はFCフローニンゲンのスタジアムがすぐ近くにあるところらしく、ご近所と言えるような距離ではないが、同じフローニンゲン市民となった。夕食のお誘いはとても有り難いのだが、夜9時前には就寝をし、翌日からの探究活動に向けてしっかり休息することを大切にしているライフスタイルを送っていることもあり、夕食の誘いを断ることにした。夕食に付き合うとどうしても生活リズムが崩れてしまうので、とにかく余程のことがない限り誰からの夕食の誘いにも乗らないようにしたい。ランチであれば検討したいが、ランチもまた余程のことがない限りその誘いに乗らないようにする。それぐらいに自分の生活リズムを守ることが、観想的な生活を通じた何よりの自己涵養になる。


昨日は、家のオーナーのペイトラさんの誕生日だった。ペイトラさんはコーヒーを愛飲していることもあり、そして自分がもう完全にコーヒーを断とうしていることもあり、未開封のオーガニックのコーヒー豆のパックを誕生日プレゼントして贈ることにした。ジムから帰ってきてオーナーの家に行き、するとそこにはフレディさんもいたので中に入れてもらう形で3人で少し話をしていた。同じ敷地内の別の家に住むインド人のサハル一家がこの6月に引っ越すことになり、サハルが住んでいた家を借りる新しい人が見つかったとのことだった。ペイトラさんに写真を見せてもらうと、そこにはオランダ人の人の良さそうな2人のカップルが写っていて、その2人が引っ越してくるようだ。女性の方の名前は発音が難しくて失念してしまったが、男性の方はゴヤと言うらしい。スペインの巨匠の画家のゴヤと同じ名前とのことだ。2人が6月から正式に新居に引っ越してくると、引越し祝いをペイトラさんであれば企画してくれそうだが、その時も夕食を伴うものであれば丁重にお断りさせてもらおうと思う。しかしオーナー夫妻と新しく引っ越してくる2人には挨拶をしたいので、挨拶だけする形で夕食には付き合わずおいとましようと思う。そうすれば、コミュニティの関係性を良好なものに維持する形で静かな生活を送ることができるであろう。フローニンゲン:2024/4/19(金)06:04


12540. 大乗的な積極的な隠遁生活に向かって/今朝方の夢の続き  


時刻は午前6時半を迎え、辺りは随分と明るくなった。キッチン側だけではなく、庭側でも小鳥たちが清澄な鳴き声を上げ始めた。こうした平穏な観想生活を送りながらも、自分の環境世界をさらに押し広げてみると、この瞬間にイスラエル側がイランに報復攻撃を仕掛けようとしている国際情勢が窺える。本当に人間はどうしようもないほどに未熟な生き物である。エゴの塊であり、どうしようもないほどに知性が低く、慈悲心の欠如した存在なのだということがわかる。同時に人間は適切に努力さえしていけば、知性も慈悲心も涵養していくことができるのだ。どうやら現代社会の多くの人たちはその道を歩むことを放棄してしまっているらしい。そもそも彼らにとっては、そのような道があるということさえ気づいていないのだろう。そのような道があるということを示すこと。自らの名前に平和の「平」が入っていることを思い出さなければならない。そして人間の自我執着心である末那識は、修行を通じて「平等性智(びょうどうしょうち)」という智慧に転換し、その名前にも自らの名前に付された「平」の文字が入っていることを自分は決して忘れてはならない。こうして未だ戦争を行なっている人間の現実的有り様を見ずして人間の可能性だけに注目するのは頓馬であり、逆に人間に対して絶望するだけもまた頓馬である。双方の頓馬性を乗り越える形で、自らの名前に付された平和の実現に向けて、平等性智の開拓が急がれる。それを通じた取り組みを始めていかなければならないほどに、文明は崩壊の方向に着実に歩みを進めている。観想的な生活とは、自らの個人的な生活を大切にして、ひとり静かに暮らすことを意味しない。そうした生活はあくまでも他者が同様の生活を営めるようにすることに眼差しが絶えず向けられているのであり、自らが観想的な生活を送りながら、他者が幸福な観想的な生活を実現できるように世界に関与していくことなのだ。隠遁生活とはそのような積極的な意味を持たなければ、単なる小乗的な生活の有り様に留まる。自分は大乗的な隠遁生活をここからさらにより一層強めていく。そんな誓いが芽生える。


そのようなことを考えながら、今朝方の夢の続きを思い出した。夢の中で私は、サッカー日本代表のワールドカップ前の最後の合宿の様子を眺める者としてそこにいた。監督は日本人で、その監督が選手選考の際に苦渋の決断をし、それまでチームを引っ張ってきたエースをメンバーから外す意思決定をした。その時の様子がまるで映像として流れるかのように知覚され、監督が涙ぐみながら決断している姿が脳裏に映し出された。そんな監督が練習場にやって来て、笛を小刻みに「ピ、ピ、ピー」と鳴らして選手たちに合図をした。最初は短い距離でのパス練習から始まり、選手たちはいよいよ目前に控えたワールドカップに向けてとても集中していた。そのような場面があったことを思い出す。


それに加えて、英語でものを考え、英語とで独り言をやたらと呟いている自分がいる夢を見ていたことを思い出す。何について英語で考え、英語で独り言を呟いていたのかは定かではないが、自分にとって大切なことを英語を通して表現しようとしている自分がいたことは確かである。ひょっとしたらそれもやはり唯識学と何か関係していたのではないかと思う。いつか必ず英語を通して唯識学の叡智を世界に共有する日が来るだろう。それは上述の平和の実現と密接に繋がっている。フローニンゲン:2024/4/19(金)06:45


12541. 真理に近接していくための新たな習慣に向けて


時刻はゆっくりと午前10時半に近づいている。今のところ小雨は降っておらず、早朝に引き続き小鳥たちが鳴き声を上げている。そんな穏やかな朝の世界の中で、唯識学研究に打ち込んでいる。先ほど、今日からの習慣として、これまで作成した唯識学の講義資料であるPPTスライドを最初からまた説明を加えていくということを行い始めた。仮に同じスライドについて説明を毎日施していっても、日々自分は変化しているのであるし、その瞬間に生起している諸縁も違うのであるから、説明も自ずから新たなものになるはずである。それを検証する意味でも、ここから日々少しずつすでに作成した唯識学の講義用のPPTスライドに対して説明を加えていこうと思う。毎回の説明の変化を楽しみたい。そして、こうして毎日唯識学について短く講義をしていくことが智慧の共有としての法施に他ならず、何よりも唯識学を通じた実践的生き方に他ならないと弁えておきたい。


説明を磨いていくことは理解を磨いていくことであり、説明を練っていくことは理解を練っていくことである。同じ対象について何度も自分の言葉を通じて説明していくことを通じて、より深い理解に到達したい。それは真理に向かう道を歩む実践に他ならない。


自分の性格として、最初から実践量を一気に上げてしまう特徴があるので、無理をするのではなく、習慣化させることが何よりも大事なので、毎日2枚か3枚のスライドに限定して説明をしていくことにした。実際にそれをやってみると、すでに80枚のスライドについてはこれまで2回ほど説明をしていて、今日から3回目の説明となったのだが、付与される説明がより分厚くなっていることを実感した。人間発達とは内的な意味の展開過程でもあるため、自らが変化・発達を遂げていけば、同じ対象であってもより豊かな意味を紐解くことができるのである。まさにそうした発達の原理を実感することができた瞬間であった。こうしたところに学問研究と実践の妙味がある。そもそもそうした発達の原理は、発達理論を学ばなければなかなかな気づかない。そしてそれを実感するには実践をしなければならないのだ。学習と実践の双方がどれだけ重要かがそこからも窺える。また、学習と実践の双方に従事すると、そのような果実を得られるという喜びに浸ることができる。今日からた始まったこの実践は、決して無理することなく、それでいて毎日決められた少量をこなしていく形で確実に習慣化させていきたい。この習慣は、真理に近接していくために不可欠のものになるだろう。フローニンゲン:2024/4/19(金)10:27


12542. 諸縁を通じて時空を超えて届けられた『唯識論同学鈔』


諸縁。諸縁。諸縁。何か念仏を思わず念じるかのようにして先ほど帰路についた。どこに出かけていたかというと、日本の古書店に注文していた唯識学の貴重な古書が日本から近所の保管所に届けられたので、それを受け取りに行っていたのである。近所のショッピングモールの雑貨屋とスーパーの2箇所に届けられていたので、アクティブレストの散歩がてら両方の場所に訪れた。1店目で受け取った書籍は軽く、それはリュックサックに入った。しかし2店目で受け取ったのは10kg近くあり、ダンボールを両手に抱える形で帰ってきた。昨日もジムで上腕三頭筋のみならず、上腕二頭筋もかなり追い込んで鍛えていたので、アクティブレストというよりも10kgのダンベルを上腕二頭筋のトレーニングの際と全く同じポジションでホールドしながら20分弱歩いて自宅に帰ってきた。その時に思っていたのは玄奘三蔵である。玄奘三蔵はもっと苦労してインドに行き、もっと苦労してインドから無数の経典を中国に持ち帰ってきたのである。それを思うとき、不思議と自分の内側から力が湧いてきて、上腕二頭筋のこの疲労などは取るに足らないものだと思った。玄奘三蔵は確信があったのだろう。インドに行って、『瑜伽師地論』の原典を読むことによって真理が分かり、それを中国に持ち帰ることによって母国に貢献できるだろうという確信があったはずである。自分も全く同じ気持ちである。今こうして瑜伽行唯識学をひとりオランダで探究しながら、誰にも相手にされなくても、これが真理に到達する殊勝の道であり、母国や世界の人々の幸福の実現にきっと貢献するはずだという確信があるのだ。きっとこの思いは誰にも理解されないだろう。それでいいのである。自分の今の気持ちを誰かに理解してもらうかどうかなど全く問題ではなく、この世界の誰かが唯識学を通じて少しでも幸福になってくれればそれでいいのである。


そのような思いを持って自宅に戻ってきて、まずリュックサックにしまった書籍を取り出してみて驚いた。梱包から顔を覗かせたのは、古びてヤケがかかった2冊の重厚な書物だった。それは待ち望んでいた『唯識論同学鈔』だった。早速期待を膨らませて中を開いたところ、そこにはびっしりと訓読文が記されていて、容易に解読できるものではなかったが、2冊合計1400ページを超すこの2冊に心を奪われた。大袈裟でもなんでもなく、日本の唯識学の至宝とされる『唯識論同学鈔』の到着に思わず感極まって涙ぐみそうになった。本書は、平安時代より鎌倉時代に至る唯識教学の論叢千百篇余りを収録しており、それらの論議は蔵俊や貞慶といった自分が注目する学僧によるものも収められており、彼らの弟子の良算や興玄たちが編纂したとされる叡智の結晶である。そんな書物が時空を超えて、こうして諸縁に支えられて自分の手元に届けられたことに感動を感じざるを得ない。本当に感謝の気持ちで一杯である。本書は最初から最後まで和文が一切なく、全てが訓読文のため読解は難儀であるが、じっくりと焦らず読み進めていこう。内から湧き上がるこの感謝の念と力があれば、本書の読解もきっと着実に進んでいくはずだ。フローニンゲン:2024/4/19(金)16:26 


12543. 『唯識論同学鈔』を通じた高田十郎氏との出会い


秋田県の藍書店Indigo Booksさんから届けられた鎌倉時代に編纂された『唯識論同学鈔』にはまだ続きの話がある。今手元にある『唯識論同学鈔』は、大正3年(1914年)に出版されたものなのだが、その2冊の書籍の最後のページに持ち主の名前が刻印されていた。本書が出版された同じ年にその人は本書を受け取ったようで、受け取った日付と合わせて達筆な字で「高田十郎」と記されていた。誰だろうと思って調べてみたところ、民俗学者・随筆家として活躍された高田十郎(1881-1952)という方であることを知って驚いたのである。高田氏は「奈良」研究の第一人者として知られる人で、本当に何かの縁か、この秋に一時帰国するのは奈良を訪れるためだったので驚きを隠せなかった。先ほど本書の梱包を解いて初めて高田氏のことを知ったので、ここからまたさらに氏の仕事について調べてみたい。さらには、奈良に訪れた時に氏の功績に触れることも多分にあるのではないかと思う。本当に何かの巡り合わせ、何かの導きによるものとしか思えないような出来事だった。


自分が唯識学に関心を持ってそれを研究を進めて誰からも相手にされなくても全く関係ないのだ。唯識学を切り開いていった先人たちだけが自分の道に光を灯してくれている。自分はその光を辿って脇目も振らずに歩き続けていけばいいのである。本日受け取った貴重な古書はいずれも光り輝いている。先哲たちの叡智の結晶として本当にそれらは無限に放射する光を放っている。心眼でそれをありありと知覚することができる。あぁ、やはり叡智の光というのは本当に存在しているのである。私たちの内側にそれは存在し、内側でそれをありありと知覚することができるのだ。であれば自分はそれを受け取らせていただき、それを体現し、同様の光を他者に送り届けていこう。誰からも相手にされず、その道の途上で多くの人から誤解され、罵詈雑言や誹謗中傷を浴びせられたとしても、気骨さと気概を持って前進していくのみである。叡智の光は裏切らず、それは必ず自他から苦悩を取り除き、幸福の実現に寄与してくれるのだから。自分は叡智と真理のみを頼りにしてこれからの人生を生きていく。その過程で少しずつ慈悲心が自分の内側に醸成されていくことを望む。絶えず真理に触れ、真理と交流しながら、慈悲と智慧を多くの人たちに共有できるような人間になりたい。そうした願いが込み上げてくる。フローニンゲン:2024/4/19(金)16:43

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