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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12521-12525:2024年4月16日(火)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12521. 心を深めることと出会い/永遠と無限に対して垂直に立つこと

12522. 今朝方の夢

12523. 真理の園に寛ぐこと/豆乳抹茶生活

12524. 仏道修行の一環としての仏教論理学の探究・修練

12525. 法悦に浸って/呼吸への改めての着目


12521. 心を深めることと出会い/永遠と無限に対して垂直に立つこと


時刻は間もなく午前4時を迎える。今日もまた小鳥たちよりも早く目覚め、太陽が昇るよりもずっと早く起床した。辺りは闇に包まれており、静寂さだけがここにある。昨日から気温が下がり、今の気温は6度と低い。ここからもう1度気温が下がって、午前10時ごろまではずっと6度のまま推移する。日中の最高気温はかろうじて10度に達する。ここから1週間はずっとそのような気温である。先日3日間だけ春らしさを感じることができたが、また冬に逆戻りといった形であり、まだまだマフラーと手袋が必要な気候である。4月はもう中旬を超えて下旬に差し掛かっている。


唯識学との出会いを改めて振り返ってみると、結局のところ言えるのは、本当に深い思想や書物に出会うためには、こちら側らの心を深めておかなければいけないということだ。そうでなければ、それらは目の前にやってきても私たちの手から簡単にこぼれ落ちてしまうのである。心をどこまでも深めること。それこそが深い思想や良書との出会いにとって最も大切なことなのである。唯識学との出会いまでに自分は自分なりに懸命に心を深めてきたのだろう。それが実りをもたらす形で唯識学との邂逅が果たせたのだ。きっとそうだろう。ここ最近は唯識学の研究に没頭し、日本の法相唯識教学の研究をライフワークに設定しつつも、さらに領域を広げて、仏教論理学にも関心を示している。いつか本場インドで仏教論理学を学びたいという思いがますます強まる中、まずは日本の因明学を学び、そこから出発して日本語文献や英語文献を通じて可能な限り今から少しずつ仏教論理学にも手を伸ばして研究してみようと思う。仏教論理学の数学的厳密さに美しさを感じ、その美が自分を仏教論理学の探究に惹きつけている。前々から数学の何かの分野に絞って研究したいと思っていたのだが、なかなかそこまで手が出せず、数学を学ぶ代わりにその厳密さと同等の仏教論理学の探究に乗り出したいと思った次第である。仏教論理学はそもそも自らの思想的立場を外道や他宗派から守るために生み出されたものであるため、議論に勝つためではなく、日頃の対話を深めるためという目的や論文執筆の論理力の強化などにも活かせるのではないかと考えている。そうした実利的な便益をもたらしてくれる可能性にも着目し、純粋に西洋の論理学とは幾分違う特質を持つ仏教論理学は大いに関心をそそる。6月か7月に書籍を一括注文する際には必ず仏教論理学の書籍を注文しよう。


仏教研究や仏道修行に三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)という永遠の時間かかったとしても、自分は永遠に対して垂直に立つ。仏教研究や仏道修行が無限の深みを持っていたとしても、自分は無限に対して垂直に立つ。永遠と無限に垂直に立ちながら一歩一歩の歩みを進める。研究や修行は完遂されなくていいのである。完成成就などしなくていいのである。ただそこに向かって歩き続けることだけが尊いのである。完成し得ないものに向かって垂直に立って歩き続けていく覚悟と決意。そして信仰。それらが自分を根底から支えている。力強く、内から湧き出るエネルギーに満ち満ちた朝を迎えることができて大変嬉しく思う。今日の探究活動もまた大きな意味のある一歩を踏み出すことになるだろう。フローニンゲン:2024/4/16(火)04:07


12522. 今朝方の夢


小鳥たちの鳴き声が聞こえてくるまでもう2時間弱あるだろうか。辺りが明るくなってくるまでもう2時間弱ある。そんな中、今朝方の夢について振り返っている。


昨日の朝の夢は母方の祖母のかつてのマンションが舞台となっていたが、今朝方の夢は父方の祖母の家が舞台になっていた。祖母の家で私は、今は亡き祖父と一緒に庭の畑で野菜の収穫をしていた。祖父は優しく自分に話しかけてくれていて、それが自分の心を深く穏やかなものにしていた。いつも父方の祖父母と話をするときには、自然とこちらの心が穏やかになるから不思議である。しばらく庭で野菜を収穫することに熱中していると、夕暮れ時がやって来て、収穫を終えて家の中に戻ることにした。収穫した野菜を祖母に渡し、祖母がこれから手料理を振る舞ってくれることになった。その間に、父も交えて祖父と3人で居間で話をすることにした。緑茶をすすりながら寛いだ形で3人で話をしていた。その時にも3人ともにとても穏やかな心持ちでいた。話をゆっくり楽しんでいると、キッチンから祖母が作る料理の良い香りが漂ってきて、間もなく夕食がやって来ると思うと嬉しくなった。そのような場面があった。


次に覚えている場面として、イギリス人の2人のチューターに数学を教えている場面があった。彼らはイギリスの大学入学試験に相当する全国一斉のテストの数学の科目の対策をプロとして教えていたのだが、そんなプロでも解けない問題がいくつかあり、それを私に尋ねていた。何やら今年の問題の中で1問特に難しい問題が出題されたらしく、それについて解説をこちらからしていた。2人は違う予備校のライバルのようだったので、同じ場所で別々に教えることになった。その場所はサッカー観戦ができるバーのような場所で、サッカー好きのイギリス人らしい場所が用意されているなと思った。その瞬間にもプレミアリーグの試合が放映されていて、バーの客たちは大盛り上がりで試合を観戦していた。そんな中、私は渡された数学の問題に取り掛かり、解答まで辿り着いた。確かにそれはとっつきにくい問題ではあったが、数式操作の工夫をすればさほど難しい問題ではなく、解答とそこに至るまでのプロセスをまずは片方のチューターに教えた。それを終え、もう片方のお洒落なスーツを着こなしているチューターに教え始めた時、背後からガタイの良い男性が声をかけてきた。何やらイギリスの大学入試の不正を取り締まることに特化した警官らしく、彼はチューターの男性が私に問題を解かせていることが不正だと指摘し、私たち2人を逮捕しようとした。変なことに巻き込まれたなと思った私は、手錠をかけられる前に瞬間移動をしてその場から脱出した。危うく捕まるところだったとヒヤヒヤした気持ちになったところで夢から覚めた。祖父母に対する思い出とイギリスに訪れた時の記憶やイギリスへの想いから生み出されたであろう夢を今もまだ回想している。フローニンゲン:2024/4/16(火)04:21


12523. 真理の園に寛ぐこと/豆乳抹茶生活


時刻はちょうど午前5時を迎えた。朝日は当然の如く昇っておらず、小鳥たちもまだ鳴き声を上げず眠っている。そんな中、自分は嬉々として今日の活動に取り掛かっている。今一緒に動いている唯一の友は自動で入っている暖房だけである。


究極的な真理は絶えず私たちの言葉を超えたものであり、私たちから言葉を奪う。言葉の園の外側に私たちを引っ張り出してくれるのが真理との接触なのだ。その園の深淵なること極まりない姿に驚きを隠せない。できることならば絶えず真理の園に寛ぎたいとさえ思う。実は真理の園は絶えず言葉の背後に沃野として広がっているのだから、言葉を使ういついかなる時にもその園に安住したいと思う。真理を絶えず求め、その接触体験を積めば積むだけに、自分はきっと真理を通じて生きることができるようになるだろう。そんな確信がある。

明後日は家のオーナーのペイトラさんが誕生日なので、誕生日プレゼントとしてまだ未開封のコーヒー豆をプレゼントしようかと思う。オーナーの家にコーヒーミルがあるかを確認しなければならないが、仮にそれがあれば、プレゼントしてコーヒー豆を渡すことができたら、コーヒーを飲むことを完全にやめて抹茶への移行を行える。胃腸の感覚に微細に意識を向けてみれば、コーヒーよりも抹茶の方が胃腸に優しいのは歴然としている。思考実験としても、体調の悪いときにコーヒーと抹茶のどちらを選ぶかと言えば必ず抹茶であろうし、抹茶よりも水を選ぶことを考えてみると、体に優しい飲み物が本当は何なのかが自ずから見えてくる。普段体に優しい飲み物を選べないというのは端的には、マーケティングの刷り込みによってそのように習慣付けられているだけなのである。第六識による正常な判断が下せず、飲料ビジネスによって薫習された悪しき習慣を客体化せず、単に惰性で生きているだけなのである。鈍った判断を取り戻す上で唯識学はここでも重要な役割を果たすことに気付かされる。


先日両親とZoomで話をしたときに、父が買ってきた大豆から豆乳を手作りしていることを聞いて興味深く思った。作り方はとても簡単のようだったので、自分でも試してみようと思い、昨日ジムからの帰り道にオーガニックスーパーで500gほどの小さな大豆を購入してきた。コーヒーを飲みことを完全にやめた場合にコーヒーミルとフレンチプレスをどうしようかと思っていたところ、大豆を挽くのにコーヒーミルを活用することができると思った。大豆は日本人に古より親しまれており、「畑の肉」と呼ばれるほど良質なタンパク質を豊富に含む。いつも昼食のオートミールをふやかすときに豆乳を加えていて、豆乳にはこれまでずっとお世話になっていた。ヴィーガンの自分にとって豆乳、納豆、豆腐は毎日の重要なタンパク質源である。いずれも豆であることが興味深く、豆は1粒1粒が生命の塊であるから、毎日多くの生命の塊をいただいていることに気付かされる。それが自分の日々の命を支えている。小さな1粒にタンパク質のみならず、ビタミンやミネラルが豊富に含まれている大豆を利用して、それをコーヒーミルで細かく粉状にし、朝1杯の抹茶に溶かして味わいたいと思う。昼食時に市販の豆乳をオートミールに和えることもあり、午後の仮眠後はシンプルに抹茶だけを楽しみたいと思う。コーヒーから脱却し、豆乳抹茶とシンプルな抹茶生活を始めてみよう。この新たな食習慣でまた自分の心身がどのように良い方向に変化するか楽しみだ。フローニンゲン:2024/4/16(火)05:12


12524. 仏道修行の一環としての仏教論理学の探究・修練


普段の自分の思考法とインド人の思考法とは大変馴染みが良い。仏教を含めたインドの思想を理解する際に、インド人が生み出した論理学の伝統を見過ごすことはできず、彼らが発展させた論理学から学ばされることが非常に多いと感じる。とりわけインドの論理学の特徴は、観察から出発をして法則を導く帰納的な発想にある。それはアリストテレスが生み出した演繹法的な論理学とは異なる特性があり、注目に値する。日々観法行を行い、隔週でシロシビン・セッションという瑜伽行を課している自分にとって、観察から法則性を見出す思考法を非常に大切にしていることもあり、インド人が生み出した帰納法的な論理学に強く関心を惹かれている。現代の論理学は西洋を起点に持つもので、それはコンピュータサイエンスにも多大な影響を与えている。仮にAIが演繹法的な論理学ではなく、インドが生み出した帰納法的な論理学をより組み込むようになったらどのように発展していくのかという現代的な興味も持ちながらインドの論理学の探究を小さく進めていこうと思う。それと並行して、インドの論理学から派生した日中の因明学という仏教論理学も独自に探究していこうと思う。自分にとっては仏教論理学の探究もまた仏道修行そのものに他ならならい。その楽しさに日々包まれている。


ここでも重要なことは、仏教論理学を論理学としてお勉強するのではなく、自らの言語使用によって発生する虚妄性を打ち破るという実践的な徳目をこそ大切にしたいということである。観察とそれに紐付く論理学の方法によって、自らの言語使用によって不可避に発生してしまう各種の幻想と言葉への囚われを打ち破りたいのだ。こうした実践をとにかく大切にしながら地に足のついた形で仏教論理学を自らの精神修練の一環として修めていく。繰り返し繰り返し述べておかなければいけないのは、それを研究室や書斎に籠ったお勉強に閉じないことである。自分はとにかく学問が完成しない未熟な有学者なのであって、無学者に向かうためには実践を積み重ねていかなければならない。永遠の学者かつ実践者として、仏教論理学と日々の観法を統合させていく道を模索していく。フローニンゲン:2024/4/16(火)07:54


12525. 法悦に浸って/呼吸への改めての着目


今日はとても穏やかな1日だ。昨日は午後に強風を伴う雨が降った。それ嘘のように夕方には晴れ渡る空が広がったのを覚えている。それを引き継ぐ形で今日は穏やかさが始終世界を満たしている。


仏法を学ぶ喜び、それは法悦に他ならない。そのようなことを感じさせてくれるかのような形で今日の唯識学の研究が続いていた。それはすこぶる順調な歩みを見せている。早く進むことも遠くへ行くことも意識せず、ただ純粋に呼吸を味わうかのようにして研究に勤しんでいる。きっとその在り方が良いのだろう。それが長い目で見れば一番健全かつ賢明な探究姿勢なのだと思われる。呼吸を意識しないで行うのと同じぐらいに唯識学の研究を日々の習慣にしていけば、いつか思わぬ深淵に辿り着けるだろう。


呼吸ということで言えば、自らがヨーガインストラクターかつ瑜伽行唯識学徒であるがゆえに、呼吸の制御は非常に重要であることを改めて思った。意識の集中状態を錬成するに際して呼吸が鍵を握ることに改めて気づいたのである。その気づきをもとに、読書中絶えず深くゆったりとした呼吸を行うことを意識している。そしてそれが無意識的に行えるようにさらに修練を重ねているところだ。呼吸は最も意識されない形で行われるものでありながら、生命活動の維持や心身の健康においても、そして高度な集中力の錬成においても非常に重要な役割を果たす。そんな呼吸に改めて注目した次第である。やはり唯識学とは単なる学問仏教なのではなく、私たち凡夫の日常と密接に関わったものなのである。呼吸の役割と呼吸をさらにより良いものにしていくための気づきを与えてくれたのも唯識学なのである。その点に大いに感謝せねばなるまい。


それでは今から、1ヶ月後の5月中旬からゼミナールで扱う唯識学の講座に向けたPPTスライドの順番を整理し、PDF化した形で受講生にシェアできるようにしておきたいと思う。今後も日々の探究を通じてスライドの枚数は増えていくだろうが、今のところ80枚ほどになっている。スライドの枚数が少しずつ増えていくに応じて、唯識学の理解が一歩一歩深まっていくであろう。その深まりを楽しみながら、深くゆったりとした呼吸を共として緩やかに歩みを進めていこう。フローニンゲン:2024/4/16(火)15:05

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