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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12590-12593:2024年4月27日(土)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12590. 今朝方の目覚めと今年の夏へ馳せる思い

12591. 今朝方の夢

12592. 唯識学から見た「発達は必ずしも善ではない」という言葉について

12593. 第77回のゼミナールのクラスを振り返って


12590. 今朝方の目覚めと今年の夏へ馳せる思い


時刻は間もなく午前5時を迎える。昨日は、『「人の器」を測るとはどういうことか』の出版記念セミナーがあり、それはオランダ時間の午後に開催されたのだが、セミナー後、ご参加いただいた方々のために、セミナーの内容を振り返る音声ファイルや事前にいただいていた質問に答える音声ファイルを作成していた。普段は夕食後には完全にリラックスしているのだが、昨日は久しぶりのセミナーをさせていただいたという特別な日という位置付けで、夕食後にも引き続き音声ファイルを作成していた。すると気づけば、いつも入浴を始める時間になっていて、切りが良いところで音声ファイルの作成を終えた。音声ファイルの作成は脳を活性化させる働きがあるので、夜に音声ファイルを作成すると脳が活性化されてしまい、寝つきが悪くなるのは承知であったし、実際に昨日の就寝の際にはまだ興奮状態が続いていたが、鉄は熱いうちに打ちたいという思いがあったので、音声ファイルを夜に作成したことに何の後悔もない。とにかく気持ちや考えが新鮮なうちに伝えるべきことがあるのだ。もちろんそれらを熟成させてから伝えることが望ましい場合もあるだろう。昨日に関しては新鮮さが命のように思われたので、入眠を妨げる可能性があったとしても音声ファイルを作成した次第だ。今朝方は午前4時半に目覚め、目覚めの様子を見ている限りだとシャキッと目覚めたので、入眠の悪さとは裏腹に、質の高い睡眠が取れていたようである。


間もなく5月を迎えようとしているが、ここ最近はまた寒さが戻っていた。ところが今日からは気温が上がり、今の気温は6度しかないが、日中は16度に達する。明後日からは最低気温も10度を超え、来週の月曜日からは最高気温が20度を超える日が3日間ほど続く。そしてそこからまた最高気温が10度後半ぐらいの日々が続くようだ。昨年の夏はとても涼しく、フローニンゲンで過ごす夏はとても過ごしやすかったのを覚えている。今年の夏はどうだろうか。今年もまた涼しい夏を期待したい。昨年に限って見れば、30度を超すような真夏日だと思ったのは数日ほどしかなかったように思う。今年もそうした夏を期待したい。涼しい環境の中で唯識学の研究に思う存分打ち込みたいのだ。そんな思いがまだ当分やって来ないであろう夏に対してもたらされる朝だ。フローニンゲン:2024/4/27(土)05:09


12591. 今朝方の夢


時刻は午前5時を迎えて少し経ったところで、1羽の小鳥が小さく鳴き声を上げ始めた。その第一声はどこか静かで、優しいものだった。控え目に鳴き声を上げ始めた小鳥に続く形で、ここからまた数羽の小鳥たちがやって来て、美しい鳴き声を響かせてくれるに違いない。


昨夜の入眠がセミナー後の音声ファイルの作成によって脳が活性化された状態に影響を受けたものだったことに関係してか、今朝方はさほど印象に残る夢を見ていなかったように思う。今、記憶の断片をたどりながら、今朝方の夢を再構築しようとしている。


夢の中で私は、熱く情熱を傾けられる探究対象を見つけ、その探究に心底打ち込んでいた。自分はもはや情熱によって自己の存在が溶けてしまうかのようだった。その時にふと、「自分という存在は炎そのものである。その炎は揺らぐことはあっても、炎そのものは揺らがない。炎そのものとしての自分は常にここにいる」という考えが芽生えた。炎は確かに風によって揺らぐ。しかし、炎そのものは揺らがずにそこにあり続けている。そうした表面的には揺らいでいながらも、本質的には不動である自己を感じていた。これはおそらく仮我の揺らぎと真我の存在を示唆していると言えるだろうか。仏教では自我を実体化させることを強く戒める。ここで述べている真我というのもヴェーダンタ学派が述べるアートマンのようなものでは決してない。炎はどこか自己を貫いている真理を指し示しているように思える。自分は真理という炎なのだ。そんな確信めいた気づきがやって来た時に場面が変わった。


その他に覚えている夢の場面として、外国の町にいるものがあった。そこで私は夢の参画者ではなく、夢の観察者だった。何を観察していたかというと、道ゆく若者たちがそれぞれに輝くものを持っていて、その輝きを見つめていたのである。若者一人一人が輝くものを持っていて、同時に一人一人に固有の生きる物語があった。私は彼らの固有の物語を読み取り、彼らの内側から外側に放射している命の輝きとでも形容できるものをただただ感動の眼差しで見つめていた。そのような場面があったのを覚えている。


前者の夢も印象的だが、後者の夢もまた非常に印象的である。情熱や命の輝きというのは、今の自分にとってとても大切なテーマであるし、振り返っていれば、幼少期から今にかけてずっと大事なテーマだったように思う。それは自分の実存と深く関係するものであり、情熱と命の輝きの中にこそ人間性というものが見出せるような気さえしている。そんなことを思わせる夢を受けて、今日もまた自らのライフワークに対して情熱の炎を燃やし、命を輝かせながらそれに取り組みたいと思う。フローニンゲン:2024/4/27(土)05:25


12592. 唯識学から見た「発達は必ずしも善ではない」という言葉について  

   

時刻は午前7時半を迎えようとしている。今、優しい朝日が地上に降り注いでいる。小鳥たちの鳴き声は静かになった。彼らも気持ち良く優しい朝日を浴びているのかもしれない。

昨夜は入浴前までセミナーを受けての音声ファイルを作成していて、睡眠の質は問題なかったが、脳が興奮して寝つきが悪かったこともあって、続きの音声ファイルを朝から作成することにした。まず取り掛かったのは、昨日のセミナーを終えてのアンケートを拝読し、アンケートに記載してもらったコメントに対してコメントする形で音声ファイルを作成していった。気がつけば45分近く1人語りをしていて、切りが良いところで話を終えることにした。この日記を書き留めたら、成人発達理論と唯識学を絡めた話をまた音声ファイルの作成を通じてできたらと思う。


昨日のセミナーでも取り上げられた「発達は必ずしも善ではない」という言葉について唯識学の観点から考え事をしている自分がいた。どうもその言葉を受け売りをして述べる人が増えている印象をこの数年間受ける。確かに高度な発達は常に善なるものとは限らないが、しかしながら健全な高度な発達は常に善なるものだという認識が日増しに強くなる。そうした思いにさせてくれたのは唯識学のおかげである。唯識学においては、兎にも角にも心の成長を奨励する。そこで述べられている成長は、煩悩を伏し、不善の種子を断じ、種子の残り香としての習気を滅していく形での成長である。さらには成長の目的として、智慧と慈悲を生きとし生けるものに授け、全ての存在者から苦悩を取り除くことを目指すという高邁な目標が掲げられる。そして仏教は宗教思想であり、倫理的な側面についての思想や実践方法の示唆が豊富であるから、尚更健全な成長が実現されていく土台が整っていると言える。一方、成人発達理論そのものは科学に立脚するものであり、規範的側面が希薄であるという盲点を抱えている。ゆえに、「発達は必ずしも善ではない」という言葉を通じて、発達を強要する動きや無理な発達を促す動きに牽制をかけるということは大事だろう。しかしながら、そのような牽制だけで留まっている限り、個人も社会も真の意味での健全な発達など実現されないのである。「発達は必ずしも善ではない」という言葉を聞き齧って受け売りするのではなく、その言葉の深層的な意味を考察し、仏教が説くような善なる成長というものがあるという目覚めを通じて、それを実現していく実践に従事することが今こそ重要な時代はないかもしれない。そうした善なる発達への道程と方法が唯識学では説かれている。フローニンゲン:2024/4/27(土)07:32


12593. 第77回のゼミナールのクラスを振り返って


時刻は午後3時半を迎えた。今、夕方に向かう晴れた空をぼんやりと眺めている。今日は午後の第77回のゼミナールのクラスがあった。今日のクラスを通じて出た話題の中で、「発酵」というものがあった。そのテーマはとても印象的で、糠床のメタファーを使いながら、私たちの学習と実践を絡めて重い思いに発行について語り合っていった。今自分の中で発酵に向かっているものは唯識学の探究だろうか。もちろんそれは糠床に漬けた段階だが、これからじっくりと時間をかけて探究を進めていくことによって、きっと素晴らしい糠漬けができるに違いない。その糠漬けをできるだけ多くの人に届けたいという思いがある。昨日の出版記念セミナーで扱った成人発達理論は自分にとって、非常に熟したものになっているだろう。もちろんここからさらに発酵させていくことを通じてさらに良いものが生まれるかもしれない。成人発達理論また糠床に漬け、唯識学という具材をそこに注入しながら混ぜる作業を行なっていきたい。唯識学という新たな糠床に対しては成人発達理論を注入して、さらにもっと広く雑多ものを取り入れていきながら、唯識学の糠床に漬けた多様なものが思わぬ形で発酵していくことをこれから見届けていきたいと思う。


現在ゼミナールでは神道思想を扱っている。それも残すところあと2回となった。偶然にも切り良く第80回のクラスからはいよいよ唯識学を扱っていく。振り返ってみると、毎週末のゼミナールを通じて、これまでの80週間は探索期間だったのだなと思う。その期間は実り大きものであり、80週間かけた探索期間を経て、満を持して80回目から唯識学を受講生の皆さんと一緒に学べることの有り難さと幸せを噛み締めている。探索を終えたところで、ここからは唯識学への深い関与の時期に入ることになる。ここからまた新たなご縁がたくさん生まれるに違いない。そうした良縁に感謝しながら、自分固有の糠床を大切にして、そこで作られた糠漬けを多くの方達に届けられる日を楽しみにしたい。フローニンゲン:2024/4/27(土)15:44

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