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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12470-12476:2024年4月9日(火)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


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タイトル一覧

12470. パソコンのOSのアップグレードから学んだこと

12471. 今朝方の夢

12472. 無自覚的に従事していた様々な瑜伽行

12473. 言語的虚構世界からの脱却を実現する瑜伽行/言葉と真理に関する夢

12474. 読経行の方向転換

12475. 抹茶の味わいと新たな趣味

12476. 仏教と茶/各人様々な仏教との出会い


12470. パソコンのOSのアップグレードから学んだこと


時刻は午前5時を迎えた。今の気温は14度で、少し小雨が降っている。昨日までは本当に暖かい日が続いていて、昨日などはジムの帰りに半ズボンで帰れたほどである。翻って今日からはまた寒さが戻る。早朝のここから気温は下がっていき、日中の最高気温は13度ほどである。明日以降も最高気温は15度に到達せず、最低気温は10度以下となる。来週に関しては気温はさらに下がり、最高気温も10度ほどの日が続くようだ。この3日間は例外であり、フローニンゲンが陽気に包まれるのはまだ先のようである。


一昨日のシロシビン・セッションでは、パソコンの調子が悪いところから命をテーマにしたセッションとなった。結果的に、パソコンを縁としてセッションのテーマがもたらされたところに因果を見る。昨夜ふと、パソコンを購入して4年近く立とうとしているが、未だかつてMacのOSをアップグレードしていなかったように思ったのである。ひょっとしたらパソコンの不具合を起こしていたのは古いOSを使い続けていたことに起因にしているのではないかと思い、入浴後に思い立ったOSのアップグレードをしてみることにした。そうすると、今のところ調子が戻り、これでもう突然フリーズしたり、突然フッと電源が落ちることがなくなるのではないかと思った。そこから何を学んだかというと、これまで自分は自らの心の成長、すなわち内面のOSのアップグレードばかりに気を取られており、パソコンを含めたその他のアップグレードについては一切気にしていなかったということである。これは由々しき事態である。というのも唯識学の観点からすれば、パソコンもまた自分の心の表れであり、自分のパソコン即己の心なのであるから、パソコンのOSがアップグレードされていなかったということは、自分の心のOSもアップグレードされていなかったことを示唆するのではないかと思ったのである。そうした反省があった。ここからは定期的にパソコンのOSのアップグレードをしたいと思う。その際に、自分の心のOSもきちんとアップグレードされているのかの確認も行おう。逆に、自分の心のOSがアップグレードされたなと感じるタイミングでパソコンやその他のアップグレードが必要なものをアップグレードしていくということを意識したいと思う。全ては自分の心が映す映像なのであり、それがアップグレードされていないというのは自分の心がアップグレードされていないということなのだ。その点をこれから肝に銘じていきたいと思う。日常何気無く生きているつもりでも、本当に日々学びが多いものである。実りある学びが日々もたらされていることに深く感謝したい。フローニンゲン:2024/4/9(火)05:21


12471. 今朝方の夢


MacBook AirのOSを昨夜アップグレードしたことにより、パソコンの調子が戻ったようで何よりである。問題解決は意外とシンプルなところにあった。灯台下暗しとはこうしたことを言うのだろう。私たちには必ず認識上の盲点があり、問題と思っていることの解決策は意外と足元に転がっていたりする。そのようなことを改めて学んだ。


今朝方は1つ印象に残る夢を見ていた。夢の中で高校に入学し、最初の登校日を迎えた場面があった。今日から高校生ということで、高校がどのような場所なのかに対する関心はある一方で、高校に対してさほど期待はしていないという冷めた目も持っていた。高校に到着すると、廊下には各クラスの生徒の名簿が掲載されていて、自分がどのクラスなのかを探すところから高校生活が始まった。高校に大して期待はしていないと言いながらも、クラスメートにどのような人がいるのかは楽しみであった。自分の手には26の番号札があり、その番号が書かれたクラスに行く必要があった。廊下に貼られた名簿には名前ではなく、番号札の数字が書かれていたのである。26番をなかなか見つけることができずに苦戦していると、どこからともなく先輩が現れて、その先輩が26番のある教室を教えてくれた。どうやら教室は46番とのことで、自分の番号札にせよ、教室の番号にせよ、やたらと数字が大きいなと思った。なんとか無事に教室を見つけて教室の中に入ると、すでに生徒が何人もいた。自分の席と思われるところに腰掛けてすぐに担任の先生が教室に入ってきた。担任は中年の優しそうな女性の先生だった。先生はまずこの高校がどのような校風を持った高校なのかを説明し始めた。端的にはこの高校は自由を大切にしていて、自分でカリキュラムを作成することができるだけではなく、昼からはもう家に帰ってもいいなど、全ては生徒の主体性と責任に任せるというスタンスを取っているようだった。先生自身がアメリカで高校時代を過ごしているという帰国子女だったので、尚更自由を大切にする思想があるようだった。校風の話をした後になぜか先生は昔話を始めた。しかも話の内容がボットン便所の話で、今の世代の私たちはそのようなトイレがあったことを知らないだろうと述べたが、父方の祖父母の家もかつてはボットン便所であったし、地元の友人の家の便所もボットン便所だったので、私たちの世代ぐらいまではそのようなトイレがあったことを知っているはずだと思った。そこからもしばらく先生は雑談を続けた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/9(火)05:37


12472. 無自覚的に従事していた様々な瑜伽行      


天使の口笛。今朝の世界に鳴り響いている小鳥たちの鳴き声はそのように自分には聞こえる。聖なる口笛を天使である小鳥たちが奏でてくれていることに深く感謝したい。それは本当に自分の心の襞奥にまで染み渡っていく。


先ほどいつものように早朝の創作実践に取り掛かっていた。ここのところは英文詩をまた即興的に書き始めた。それもまた頭で思考を巡らせるようなものでは決してなく、その瞬間の自分の心にやって来た言葉をサッと掴んで言語造形的に言葉の形に残すという表現活動の一環である。その前にデジタル絵画の作成と即興作曲実践を行ったのだが、それらもまた即興的であり、何も思考を媒介させていない。少なくとも言語は一切媒介していない。これこそが瑜伽行なのだと思った。瑜伽行は何も坐禅や内観的な技法だけではなく、言語を媒介させない形で精神集中をしていればどのようなものも本質的な瑜伽行になり得ると思ったのである。日常私たちは多分に言語的思考を頭の中で働かせているだろう。というよりもそれは休みなく働いていて、多くの人にとってみれば言語的思考から離れるというのは体感的にどのようなことを指すのかわからない状況なのかもしれない。現代人が心の成長を一向遂げない理由の1つはそうしたところにあるだろう。彼らは結局言語的思考に埋没し、言語が生み出す虚構の映像世界の中で絶えず生きているのである。唯識学が目指すべきことは、言語の虚構性に気づき、言語が生み出す虚構の映像世界から脱却することである。そのために精神を統一し、心を清らかにしていく必要があるのだが、それを担うのが瑜伽行なのである。元来の瑜伽行は、坐禅的な形で静かに座って精神を統一することを指していた。静かに座りながら行う観法としては細かく分けると膨大な方法があるようだが、基本的には心の内側で生じる諸々の現象を静かに観察していくことが基本であり、最終的には言語的な思考を手放す必要がある。隔週で実践しているシロシビン・セッションは、有無を言わせない形で言語的な思考を手放すことを要求してくることから、自分の中で最良の瑜伽行の実践だと位置付けている。しかし日常毎日何気なく継続している創作活動が自分にとっての瑜伽行になっているとは今日まで気づかなかったのである。デジタル絵画の創作と即興作曲実践の2つは自然言語を媒介させない形で、その時の自分の身体エネルギーとまるでダンスを踊るかのようにそれに全てを委ねて絵や音楽の形が生まれてくる。先日から再開した英文詩の創作は、確かに自然言語が媒介するが、創作過程においては言葉を生み出すことに頭を捻ったりすることはなく、その瞬間に流れているエネルギーにやはり身を任せる形で、言語阿頼耶識からの表出を素直に英文で表現するようにしている。そのようなことを考えてみると、心を覆う煩悩や思考を振り払う瑜伽行の実践を豊富に行っている自分がいることに気づき、それらの実践を今後は瑜伽行だと明確に位置付けて大切にしていきたい。フローニンゲン:2024/4/9(火)06:30


12473. 言語的虚構世界からの脱却を実現する瑜伽行/言葉と真理に関する夢


即興的な創作活動を通じて言語的虚構世界からの脱却を図っていくという瑜伽行の実践。それは私たちが遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)を本質に持つ言葉への囚われ脱却することを手助けしてくれる。そうした即興的な創作活動を瑜伽行として取り入れない理由がもはや見当たらない。言葉の虚像と言語由来の煩悩の伏滅において創作活動という瑜伽行は本当に大事である。


早朝に引き続き、辺りがうっすらと明るくなり始めた午前7時の今現在においても小鳥たちが天使の鳴き声を上げている。どこか天界に自分が生きているかのような気さえする恵まれた環境世界の中に自分がいる。自分が天界にいるという感覚を持つということは、自分の心が天界の性質を持っているということに他ならないことが唯識学の観点から見えてくる。自分の心が天界の性質を体現しているがゆえに、今自己を取り巻いている環境世界が天界に思えるのである。自然という器世間を生み出すのは阿頼耶識であると唯識学では考える。そうなってくると、自分の阿頼耶識には天界を映し出す種子がたくさん詰まっているのだろう。それをもたらしてくれた諸縁に感謝したい。


そう言えば今朝方は夢の中で、唯識学について思わぬ発見をする場面があったことを思い出した。「知識」と「智慧」について何か大切なことに気づく瞬間があったのである。確か知識というのは「識」という言葉に言偏が付されているように、依然として言葉を媒介にしたものだが、智慧からは言偏が消え、言葉を離れたものに転換されるという気づきだったように思う。真如や真理というのは最初のうちは言葉を媒介する形で発見し、それを伝えていくことになるだろうが、最終的にはそれらは言葉を離れたものであるという明確な認識がもたらされた。そもそも発券の当初も多分に非言語的な可能性がある。真如や真理に触れる際に、すでに離言的な働きがそこにあって、ひとたび真如や真理に触れて一体となった後にそれらを言葉で表現するに過ぎないのかもしれない。いずれにせよ、言葉と真理との関係性は非常に重要なテーマとして自分の内側に存在しているので、引き続きこのテーマについて考察していきたいと思う。今朝方の夢のように夢の力を活用できたら幸いである。フローニンゲン:2024/4/9(火)07:04


12474. 読経行の方向転換       


自分が唯識学の研究分野に対して果たす役割は、日本の法相唯識教学の文化・宗教遺産を広く世界に宣揚することである。とりわけ欧米社会にそれを宣揚することを第一義とし、その実現のための学術研究は漢文や古文の文献による。最終的な研究成果は英語での論文や書籍の執筆の形にしていきたいが、とにかく今は漢文や古文の文献読解力に磨きをかける時期だと思った。そこから、これまで継続していた読経行としての音読を英訳書ではなく、漢訳と訓読文を音読していくことにした。具体的には、『唯識三十頌』の漢訳と書き下し文、さらには尊敬してやまない鎌倉時代の学僧良遍の『観心覚夢鈔』の書き下し文をこれから毎朝、そして午後の仮眠後に30分ほど音読していくことにした。この音読行を通じて、自然と漢文読解と書き下し文の読解力の素養が養われるはずである。ここでも自然体を意識し、赤子が母国語を自然と身につけてしまうかのように、毎日自分の心を潤し、心を震わせてくれる上記2冊の書物の音読を習慣化させていく。それが阿頼耶識に種子として薫習され、どのような現行が今後現れてくるかは過度な期待をせずに楽しみに待つ。


上記の日記を執筆して少し時間を空け、今午後からの探究活動を再開させた。昨夜パソコンのOSをアップデートしたことが功を奏したようで、今日は午前中にパソコンがフリーズするようなことは一切なかった。やはり定期的にOSをアップデートするようにしよう。それと心のOSのアップデートとの繋がりについては早朝の日記に書き留めた通りである。

仮眠後、早速『唯識三十頌』の漢訳と書き下し文と『観心覚夢鈔』の書き下し文を音読していった。これを良き習慣にこれからしていきたい。それが習慣化されれば、数日前に注文した奈良時代から昭和初期に日本で執筆された文献を自由自在に読解していくための素養を身につけることがきっとできるだろう。日本語で書かれた古文書を自由自在に読み解くことができるようになってくれば、唯識学の研究に対してきっとユニークな観点で貢献できるに違いない。これまで自分は様々な学問分野を渡り歩き、ようやく唯識学というものに出会った。これまでの学びと諸縁が相まって唯識学に辿り着いたことにはきっと意味があるのだろうし、そこで見出された使命を全うするために自分にできることはなんでもしていきたいと思う次第だ。今日はこれから散髪に出かけるのだが、それまでの時間もまた文献読解に楽しみながら従事したい。フローニンゲン:2024/4/9(火)12:52


12475. 抹茶の味わいと新たな趣味        


時刻は午後4時を迎えようとしている。今、先ほどオーガニック製品専門店で購入した抹茶を飲んで一息ついている。午後の一息に抹茶を飲むのはいいものだ。先日のシロシビン・セッションを受けて、今使っているコーヒー豆を最後に、金輪際コーヒーを飲むことをやめると誓った。実際に先ほど親友かつかかりつけの理髪師のメルヴィンの店に行った時にも、いつも出してもらっているダブルエスプレッソをもらうことなくコップ1杯の水だけをもらった。今あるコーヒー豆を無駄にしないためにも、そしてその命とそれが手元に運ばれてきた縁起を尊重するためにも、手持ちのコーヒー豆は無くなるまで朝だけ飲むが、午後には抹茶を1杯いただくようにする。お茶を飲んだのは本当に久しぶりでいつ以来だろうか。純粋なお茶を飲んだおのはおそらく2年前に一時帰国した時以来のことではないかと思う。抹茶はとても美味で、日本を思い出させてくれる。精神衛生的にもコーヒーよりも抹茶の方が自分にとって好ましい。抹茶への関心を受けて、新たな趣味としてお茶の勉強をしてみたいとすら思う。そう言えば、フローニンゲン大学に在籍中に知り合ったピーターという友人は、お茶のソムリエとしてオランダでチャンピオンになっており、彼の家で一度お茶を振る舞ってもらったことがある。ピーターは卒業後にアムステルダムに引っ越してしまったので、卒業以降は彼と会っていないが、今こうして抹茶を飲みながらピーターのことを思い出した。こうした点にも、一杯のお茶の何とも言えない魅力がある。専門的な器具を使って抹茶を点てることはしておらず、購入したパウダーをお湯に溶かしているだけなのだが、今後は本格的に抹茶を点てることも検討したい。どれだけ味が変わるのかは定かではないが、そうした勉強も視野に入れ、今度日本のアマゾンから唯識学の専門書を注文する際に、併せて茶の歴史や茶の世界に関する書籍も購入したいと思う。お茶は自分の新たな趣味になり得る可能性がある。そこに今関心を持っている仏教と絡め、仏教と茶の世界を架橋する探究もしてみたいと思う次第だ。


親友のメルヴィンも今日話を聞いた限りだと新たな趣味を始めたようで、歌を習い始めたとのことである。メルヴィンは以前よりラップからフリースタイルの歌に移行していくことを長らく述べていたのだが、友人を経由して歌の先生を紹介してもらったらしく、そのご縁を受けて歌を習い始めたとのことである。まだ1度しかプライベートレッスンを受けていないとのことだが、ここから継続して隔週でレッスンを積んでいくとのことだった。発声練習を含めて、メルヴィンが初回のレッスンで行った内容について色々と教えてもらい、改めて歌も良い趣味だなと思った次第である。声には相手を癒したり活力を与える力があり、声を通じて絵画的なイメージを相手に伝えることもできるという話をメルヴィンとしていた。今の自分は唯識学と新たな趣味になり得るお茶に関心があるため歌を習い始めることは今のところないが、今後もメルヴィンの歌の進捗度合いに関する話を聞いてみたいと思う。フローニンゲン:2024/4/9(火)16:12


12476. 仏教と茶/各人様々な仏教との出会い


今し方、仏教と茶の関係性について言及した書籍を探してみたところ、2冊ほど興味深い書籍を見つけた。どうやら茶を即座に禅と結びつけるのは歴史認識として誤りのようであり、広く様々な仏教の宗派が茶を愛飲していたようであることがわかったのと、他の宗教と茶との関係もどうやらあるようで、そのテーマに関する書籍を今度日本から書籍を注文する際に購入してみようと思った。今のところは仏教の観点から茶を探究してみたいという思いだけがあり、茶の図鑑や茶の歴史全般に関する書籍を購入することはとりあえず見送ることにした。自分で茶を点てたいと思ったり、歴史についてさらに深く知りたいという関心が芽生えた時にそれらの書籍を購入すればいい。先ほど作った抹茶をゆっくりと味わいながら、今後は今使っているコーヒー豆を全て消費したら、朝に200mlぐらいの抹茶を飲み、午後の早い時間にまた同量の抹茶を飲もうと思う。抹茶にもカフェインが入っているので夕方以降は飲まないようにし、カテキンの持続効果からこまめに摂取するのが望ましいとのことなので、朝と午後の2回に抹茶を楽しむ生活を今後送っていきたいと思う。


今日の午後に髪を切りにフローニンゲンの街を歩いている時にふと、毎朝ずっと聴いている“Wisdom Publications”という仏教書専門の出版社のポッドキャストの内容を回想し、毎回のゲストスピーカーたちの仏教との出会いが多種多様であることに気づき、感銘を受けた。それは当たり前と言えば当たり前のことなのかもしれないが、一人一人の仏教学者と実践者の仏教との出会いは本当に十人十色で、彼らの話を聞いていると本当に面白い。色々と紆余曲折があったり、何かの縁で仏教と出会った彼らのエピソードはそこに固有性があるがゆえに引き込まれるようにして話に夢中になる。きっと自分もまた固有の形で仏教と出会ったのだということを思う時、そのことへの深い感謝の念が芽生える。年齢も国籍も関係なく、各人が然るべく理由で仏教と出会い、人生を大きく変えていくこと。それはとても美しい光景であり、物語である。自分自身が仏教と深層的に出会ったのは唯識学を通じてであり、いつか仏教との出会いについて誰かに話をする機会があれば、それもまた誰かの心を和ませたり、光を与えたりするようなことにつながれば幸いである。縁というのは本当に素晴らしく、未知で不思議な力を持っていると思わざるを得ない。フローニンゲン:2024/4/9(火)16:47

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