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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12410-12415:2024年3月31日(日)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12410. 今朝方の夢

12411. 今朝方の夢の続き

12412. 唯識学を研究する幸せ

12413. 依他起性と円成実性の円満さの中で

12414. 『唯識三十頌』の漢訳音読/最大の息抜きかつ遊びとしての瞑想実践

12415. 唯識用語辞典の活用/瑜伽行としてのシロシビン・セッション


12410. 今朝方の夢


時刻は午前5時半を迎えようとしている。今日は復活祭の日曜日だ。明日もまた復活祭の月曜日として多くの店が閉まる。そして今日から欧州はサマータイムに入った。今の気温は4度で、決してサマーな感じは全くないのだが、確かに日の出や日の入り時間の変化から、サマータイムが始まってもおかしくない時期だと感じていたことは確かである。サマータイムを迎えた今日は、ここから緩やかに気温が上昇していき、日中は13度まで到達するらしい。


早朝に真っ先にシロシビン・マッシュルームの栽培キットを確認したところ、数日前から出ていた小さな頭からさほど変化がなく、一度収穫をしてもう一度栽培キットに水を浸して仕切り直す必要があるかと思ったので後ほどその作業をしたいと思う。おそらく数日前に収穫をし終えた際に、栽培キットの土が乾燥してしまい、それ以上発育が進まなくなってしまったのだと思う。後ほど栽培キットを水に浸して仕切り直しをしたら、まだまだ収穫がもたらされるだろう。


今朝方は夢の中で、小中高時代の友人(YU)と話をしながら昔遊んでいたカードゲームのカードの整理をしていた。整理をしていたのは学校の教室のような場所だった。机の配置は幾分おかしかったが、私たちは自分の机の引き出しの中にあるカードを整理していた。引き出しからカードを出した時にごっそりカードが地面に落ちてしまい、それを拾い上げていると、懐かしい絵柄のカードがどんどんと出てきてそれらに目が奪われた。後ろに座っていた女子にも声を掛けられながらせっせとカードの整理をしていると、やはりもう一度そのカードゲームをしたいという気持ちが湧き上がってきたので、前に座っていた友人の彼にカードゲームの誘いをした。すると彼も自分と同じような気持ちだったらしく、快諾してくれた。いざカードゲームを始めると、カードに描かれたキャラクターやモンスターなどが3Dホログラムとして立ち上がり、とても迫力があった。そのカードゲームは今でも自分の心を魅了する何かがあるということを感じながら、彼とそこからカードゲームを楽しんだ。そんな夢を見ていた。


この夢の中に登場したカードゲームは、現実世界においてもかつて遊んでいたものである。最近はオンラインでもそのカードゲームが遊べるようになっていて、以前それをオンラインで楽しんだこともある。そのカードゲームの魅力はなんと言ってもデザインの美しさであり、1枚1枚のカードのデザインは芸術作品であると言ってもいい。さらにはそのカードゲームは戦略性にも富んでおり、頭の体操としても面白い内容になっている。なぜこのカードゲームが今朝方の夢に現れたかは不明であるが、昔やっていた遊びが今の自分の心をまだ刺激することはその他にもありそうである。フローニンゲン:2024/3/31(日)05:34


12411. 今朝方の夢の続き


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、もう1つ印象に残る夢を見ていたのでそれについても振り返っておきたい。そう思った瞬間に、サマータイムを迎えたにもかかわらず、部屋にはまだ依然として暖房が自動で入ることを笑ってしまった。フローニンゲンにおけるサマータイムというのは今のところは、その名前にふさわしいような気候状態ではない。

夢の中で私はシンガポールに向かおうとしていた。ローマの観光を終えて、ローマの空港からシンガポールに向かおうとしていたのである。空港に到着し、速やかにセキュリティチェックに向かった。すると、そこはどこか日本の空港のセキュリティチェックの雰囲気を放っていた。というのもそこの係員も客も全て日本人だったからである。係員は気さくな中年女性で、色々と話しかけられながら手荷物をコンベアの上に乗せていった。そしてどういうわけか上半身裸になる必要があり、裸になると、よく鍛えられた身体だと褒められた。後ろに並んでいた日本人の客たちも一様に私の体に注目していた。セキュリティチェックで上半身裸になるとは思っていなかったが、こういう時のために常日頃から体を鍛えていて良かったと思った次第である。


セキュリティチェックを抜けて、コンベアから荷物を降ろしていると、後ろにいた若い女性から声をかけれられた。彼女はどうやらシンガポールを経由してカンボジアに向かおうようだった。シンガポールで何をするのかを尋ねられ、そう言えば何をしにシンガポールに行くのだったっけと思った。結局その目的は不明であり、自分でもよくわからないままにセキュリティチェックを後にした。その日はどういうわけかラウンジを使うことをせず、速やかに搭乗口に向かった。というのもすでに搭乗が始まったというアナウンスがあったからである。ビジネスクラスに搭乗する予定だったので、すぐに機内に入れるだろうと思ったが、搭乗口に到着すると、すでにエコノミークラスの搭乗も始まっていて、結局列に並ぶ必要があった。列はゆっくりと動いており、搭乗口から滑走路のある地上に降りて、乗客たちは歩いて機体に向かって行った。そこでふと、滑走路の見学をしたいと思った。それは衝動的な思いであり、その思いに従って滑走路の方に1人てくてくと歩いて行った。誰かに止められることもなく、滑走路の端っこにやってくると、機体が停車する場所にポールが1本立っていて、そこに機体の羽がいくつも取り付けられていた。そしてその大きな羽が風によってクルクルと旋回していた。それはどこか斬新な現代アートのように見えた。しばらくそれを眺めた後、搭乗予定の機体に戻ろうとした。すると、自分の手に手荷物が一切ないことに気づいた。先ほどセキュリティチェックをした時には確かに小さなスーツケースとリュックサックがあったはずなのに、今はそのどちらもないことに気づいたのである。どこかに置き忘れてきてしまったのかなと思い、もうそれらを探す時間もなさそうだったので、荷物は諦めて機体の中に入っていくことにした。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/3/31(日)05:50


12412. 唯識学を研究する幸せ       


今日からサマータイムに入ったことにより1時間時間がずれ、早朝の5時半頃から鳴き声を上げ始めていた小鳥たちの鳴き声がちょうど今聞こえ始めてきた。もちろん小鳥たちの世界にはサマータイムなどというものがはなく、それは人間がこしらえた概念でしかないことが感じられる。小鳥たちは昨日も今日も同じ時間帯に鳴き声を上げ始めていると思っているはずであり、人間が自ら生み出した諸概念に囚われてしまうことの滑稽さを思う。それこそがまさに唯識学でいうところの遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)なのである。言葉は仮の決め事に過ぎず、言葉で仮構されたものに囚われずに軽やかに生きていくことの大切さを思う。


復活祭の今日もまたいつもと変わらずに唯識学の研究を進めていこうと思う。唯識学と出会ってからというもの、毎日が本当に充実している。唯識学の書物と向き合っていると、あっという間に時が立ち、1日が終わるという感じである。時の充実感を胸一杯に感じながら、今日もまた唯識学そのものに成り切る形でそれと同一化して探究を進めていこうと思う。早朝にまず取り掛かる書物はいつも難易度を上げている。朝が一番集中力があることもあり、昼までは比較的難解な書籍に取り掛かるようにしている。昼食を摂り終えて仮眠を取った後もまた集中力は高いので、その時間帯においてもまだ難易度の高い書物と向かうことができる。一方で夕方に入ってくると、集中力にも陰りが見られ始めるので、そこからは難易度を落としたテキストと向き合うようにしている。このように、自分の集中力の波の状態に合わせて書籍の難易度を変えていくというのは探究の進捗に大きな影響を与える大切な事柄かと思う。それは小さいようでいて、大きな意味を持つ探究上の工夫である。


ここ最近は唯識学をゼミナールで扱うための講義動画を毎日作成している。すでにそれらの一部はゼミナールの受講生の皆さんに公開をしており、ここから皆さんと唯識学について時間をかけて取り扱えることがとても楽しみである。現在73回のクラスを終えているが、これまではある1つの分野に多くのクラスを当てることはなく、多いものでも今扱っている神道思想の15回が最大であろうか。唯識学をひとたび扱い始めたら、それを超えるテーマと出会わない限りは継続して唯識学を扱っていきたいと思う。それだけ長くコミットすることによって、ゼミの中でお互いの心の成長における変化がどのようにどれだけ生じるのかを観察してみたい。きっと各人がそれぞれにとって意味のある心の成長を実現できるだろうという確信がある。それだけ唯識学には魅力と力がある。今日もまた唯識学の研究に従事できることが何よりも幸せであり、この幸せを早く多くの人に届けたい気持ちで一杯である。然るべき日がやって来るまで、とにかく専心没頭して唯識学をどこまでも広く深く探究していこうと思う。そのような気概に満ちている。フローニンゲン:2024/3/31(日)06:43


12413. 依他起性と円成実性の円満さの中で


全てと一体となっている感じ。それは未分化の渾然一体となった一体感ではなく、存在がきちんと差異化を経ての全体としての一体感である。それは依他起性(えたきしょう)と円成実性(えんじょうじっしょう)が体現された差異化を経た円満な一体感だと言えるだろうか。きっとそのように形容できるだろう。依他起性によって存在相互の関係性とそれぞれの差異性が明確なものとなり、各存在とそれぞれの関係性に対して敬意の念がもたらされる。そして依他起性の背後にある一大円満な境地として円成実性が確かに感じられる。それは言葉を超えた真如だが、それをありありと知覚することができる。円成実性とは何か特別に生じるものなのではなく、日常の諸現象や諸存在のそれぞれの背後にありありと感じられるものなのだと思う。それは常に空を経ての有として存在しているのだ。唯識学が空の無の側面ではなく、有の側面を強調していることには本当に感謝しても仕切れない。その側面があるからこそ、虚無に陥ることなく有への感謝を持って毎日を生きることができるのだ。無の側面を強調すると、人は簡単に虚無や悪取空に陥る。そうするとさらなる学習も実践も無意味のことに感じられてしまい、心の成長は止まる。あるいはそこから転落する。そうした現象を見越して唯識学は凡夫の目線に立って空の有的側面を強調したのだろう。なんと親切な思想であろうか。もちろん唯識学は事細かな心理実存分析を持ち、その詳細さに腰を抜かしてしまう人もいるかもしれない。だが、その背後には人間の心に対する厳し目と優しい目の双方があることを忘れてはならない。


復活祭を祝うかのように1羽の小鳥が美しい鳴き声を上げている。どうやら今鳴き声を上げているのはその1羽だけのようだ。彼は孤独であろうか。きっと孤独ではないだろう。彼もまた自分と同じように、この世界の一味を味わっているはずである。全ての存在が差異化され、差異化が1つの円を形成した円満な境地を体得しているはずである。自分は少なくともそうだ。だからこそ孤独感を感じることはないのである。どこにいてもいついかなる時も、自分は仮の固有の存在として差異化され、他の差異化された諸存在と絶えず繋がっているのである。そしてその縁起のネットワークが1つの円満な一なる世界を生み出しているのである。そうした一なる世界の中でその世界そのものとして生きているという明確な感覚があることが日々の充実感の源泉になっている。そのようなことを思う復活祭の朝だ。フローニンゲン:2024/3/31(日)07:41


12414. 『唯識三十頌』の漢訳音読/最大の息抜きかつ遊びとしての瞑想実践    

 

今し方午前中の瞑想実践を終えた。名言種子から生成して来る言語的なイメージが脳裏に浮かんでくるフェーズを経て、概念的なものが何一つ現れてこないフェーズをしばらく味わっていた。およそ20分弱の瞑想を終えて再び今に至る。脳がとてもスッキリし、ここから昼までの探究もまたすこぶる捗るであろう。


早朝にふと、『唯識三十頌』は英訳の音読だけではなく、漢文の音読をしていこう。この漢文の徹底的な音読により、訓読をせずとも漢文を読めるような知的な下地を作っておきたいと思う。漢文を漢文のまま読めるようになることは、ここからの日本の法相唯識教学の研究において、特に訓読文が生まれるよりも前の文献を読む際に役に立つ。また訓読文を読む際にも漢文読解の下地があればあるほどにその理解は進むであろう。そしてそもそも漢文が自由自在に読めるようになれば、漢文文献にも手を広げて唯識学の研究ができるという大きな利点がある。そうした大いなる利点を享受するためにも『唯識三十頌』の漢文の音読をここから日々行っていきたい。ひょっとするとそれは英文の音読よりも重要になるのではないかと感じている。


午後にもまた脳の休息としての瞑想実践をしたい。そしてそれは脳の休息を超えて、観法としての実践の意味がある。むしろ心の成長の実現という目的に照らし合わせてみれば、後者の方がより重要になる。瞑想実践もまた1つの楽しみとして定着しつつある。特に何かを求めて行うような実利的なものではなく、確かにその果実としては心の成長が見据えられているが、それをすぐさま求めることは決してせず、むしろ瞑想体験との同一化の中で知覚される種々の眺めを楽しむことが自分の中で最も大切にされていることである。そこに喜びと楽しみの双方がある。今の自分にとっては、瞑想実践こそが最大の息抜きであり、最大の遊びである。そんな息抜きと遊びを午後にもまた楽しもう。フローニンゲン:2024/3/31(日)10:25


12415. 唯識用語辞典の活用/瑜伽行としてのシロシビン・セッション   

     

復活祭の日曜日はとても穏やかに進行している。先ほどまで小鳥たちが鳴き声を上げていたが、彼らも休憩に入ったようで、今は鳴き声は聞こえてこない。


現在唯識学に関する和書を旺盛に読み返しているのだが、再読した全ての書籍の3読目が終わったら、再び唯識仏教辞典を最初から最後まで丁寧に一語一語その解説を読んでいこうと思う。唯識学はその用語に慣れてしまえば、元来凡夫目線で解かれた教えであるからさほど難しくないのである。また、用語体系を習得すればするほどに、心の成長に向けた実践の力が向上していく点も見逃すことができない。唯識学を英語のような語学と例えれば、唯識用語辞典は英単語帳のようなものである。唯識用語辞典を楽しみながら反復していくことをまた行っていこう。それを徹底的に繰り返すことを通じて、1つ1つの用語に対して自然と慣れ親しんでいくことができる。用語に繰り返し触れるだけでも十分に知識習得効果はあるが、一番良いのは用語の活用としてのアウトプットを行うことである。ある用語を通じて日々の体験を記述してみたり、その用語を通じて解説音声や解説動画を作ってみるのは最良のアウトプットになる。それらを意識してこれからの学びをさらに充実したものにしていきたい。


ここから少々唯識学の講義動画を作成していこう。それがひと段落したら瞑想実践を挟んで少し休憩をする。日々の学習の合間合間に行う瞑想実践は瑜伽行に他ならず、日々の至るところで行っている自己観察もまた瑜伽行に他ならない。それらは日常行える小さな地道な実践として重要であるが、その実践の効果を大きく引き上げてくれるのが隔週で実施するシロシビン・セッションである。自分にとってシロシビン・セッションもまた瑜伽行なのだ。唯識学を書物を通じて単にお勉強として学んでいても意味がなく、唯識学の本義である自己を含んだ衆生の解放と心の成長を実現したければ、必ず瑜伽行という実践を伴わなければならないのである。自分にとっては本当に上記の瑜伽行はいずれも重要なものであり、今週末のシロシビン・セッションはまた非常に重要な瑜伽行の実践の機会になるだろう。フローニンゲン:2024/3/31(日)14:26

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