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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12405-12409:2024年3月30日(土)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12405. 圧巻の景色に感動する夢

12406. 今朝方の夢の続き

12407. アート実践の意義と価値/法施としての唯識学講義

12408. 画師としての心/今朝方の夢の続き

12409. 克己/種子と現行


12405. 圧巻の景色に感動する夢


時刻は午前4時半を迎えた。今、暖房が自動で入っており、4月を目前としたフローニンゲンの気候の様子を物語る。そんな朝に今日はとても印象深い夢を見ていた。久しぶりに夢の中で大感動する夢だった。


夢の中で私は、見慣れない山道を走っていた。そこはよく整備された道で、どうやらその山は観光名所のようだった。整備された道をランニングすることを楽しんでいると、いつの間にか山の頂上にやって来た。すると左から見知らぬ中年男性に声を掛けられた。その男性もまた観光客の1人のようだったが、どうやら常連のようで、山の絶景ポイントを知っているとのことだったので教えてもらうことにした。その男性はウォーキングを楽しんで山頂までやって来て、いつもその絶景を見てから帰るとのことだった。世間話を少々しながら絶景ポイントまでやって来ると、そこには未だかつて見たことのないような息を飲む景色が広がっていた。一番感動したのは眼前に見える大森林の大海原だった。それは確かに森なのだが、それが大海原に見えたのである。その絶景ポイントは一気に視界が開かれるような作りになっていて、前を向いていたら少なくとも前方の180度が大森林の大海原の圧巻の景色として広がっていたのである。私は感動の極地を通り越してもう言葉が出ない状態だった。その大森林の大海原の景色に自分の存在が飲み込まれ、完全に同化しているかのようだった。すると途轍もない癒しの現象が起きた。自分の存在の全てが受け止められ、全てが癒されるような感覚があったのである。途轍もない量のエネルギーが自分の体に充満し、それが癒しをもたらしていた。癒しのみならず、それは今後の自分の成長の大切な養分になることも直感的に気づいた。大森林の景色と同一化しているときは言葉を失っていたので、自らの内側に癒しが起こったと気づいたのは我に返ってからだった。あのような美しい緑の森林の大海原を見たのは人生初めてであり、景色を見て言葉を失い、景色と非二元的に一体化するというのはそういうことを言うのだと教えてもらう体験だった。我に返って左手の方を見ると、そこには立派な富士山が佇んでいて、富士山の姿にも感動をしたが、それ以上にやはり目の前に大きく広がる存在を飲み込むような大森林の大海原の景色がとても印象的だった。そのような夢を見ていた。


冒頭で述べたように、夢を見て久しぶりに大きな感動に包まれたように思う。感動に加え、自分の内側で大きな癒しが起こり、存在に膨大なエネルギーが流れ込んでくる体験も伴っていた。久方ぶりに素晴らしい夢を見たなという思いを持って目覚め、目覚めた後もあの雄大な景色を思い出しながら感動に浸っていた。フローニンゲン:2024/3/30(土)04:56


12406. 今朝方の夢の続き        


時計の針は午前5時を指した。引き続き暖房が自動で入っていて、部屋をせっせと温めてくれている。そんな状態ではあるが、外気は9度と意外と暖かい。今日の日中は14度まで気温が上がるようなので、寒さはそれほどではない。ここから1週間も気温はそれほど低くなく、比較的快適に過ごせるのではないかと思う。


先ほど大森林の大海原の感動する夢について振り返っていたが、今日はそれ以外にもいくつか断片的な夢を見ていた。その1つとして、小学校時代の女性友達と話をしていた場面がある。彼女は中学校から別の学校に転校したのだが、そんな彼女と久しぶりに再会をし、小学校以来の積もる話に花を咲かせていた。まず驚いたのは彼女は自分と同じくまだ結婚をしておらず、自由気ままに生きていることだった。同じ小学校で結婚していない人を数えるともう片手で数えられるぐらいなのではないかと思うほどだったし、彼女の容姿からすると求婚が多数あってもおかしくないと思っていたことから驚かされたのである。どうやら彼女はアート関係の仕事に就いているらしく、自らもアートを制作し、世界の様々な町を転々としながら暮らしているようだった。そんな生き方もまたどこか自分と重なるところがあった。今度ロッテルダムにやって来る予定があるらしく、ロッテルダムには今付き合っている日本人の年上の男性がいるらしかった。せっかくオランダにやって来るのだったらまた会って話をしようと持ち掛けようかと思ったが、彼女には彼女なりの生活があり、自分にもまた自分なりの生活があると思ったのでそれを持ち掛けるのはやめた。川を眺められる川岸に腰掛けながら彼女と引き続き話を楽しんだ後に、夢は静かに次の場面に移り変わっていった。


その他に覚えているのは、高校時代のクラスメートの友人が修道士になりたいと自分に相談して来た場面である。高校時代の彼は決して宗教心の篤い人間ではなかったが、大学に進学して卒業後に働き始めてから突然宗教心に火がついたようだった。居てもたっても居られなくなった彼は、欧州の修道院で修道士になるための修練を積みたいと述べ、どこか良い修道院はないかと私に相談してきたのだ。どの国のどの修道院でどのようなトレーニングが積めるのかは私も土地勘がなく、彼の役にあまり立てなかったが、彼がどのような理由で修道士になりたいと思っているのかを掘り下げて尋ねることを通じて彼の進路に対して幾分の貢献をするように努めた。最近は日本人の男性の修道士の数が減っているのではないかという推察の元、彼が修道士になればまた修道士のなり手も増えるかもしれないと思ったし、彼の優しい心があればきっと修道士としても立派に活躍できると思った。そのような場面があった。


さらにもう1つ覚えているのは、大学時代のクラスメートの女性友達と彼女と共通して持っていたまた別の女性友達の3人で大学のキャンパス内で話をしていた場面である。2人とも都内の名門の女子校を卒業していて、学業もさることながら人柄も素晴らしく、無事に就職先を決めていた。自分はまだ卒業後の進路を一切決めておらず、3人で進路の話をしていた。2人は確かにすでに大手の名門企業から内定をもらっていたが、それでも果たしてその会社に勤めるのが望ましいことなのかについては引き続き考えているようだった。私は就職するのでもなく、大学院に進学するのでもなく、何がしたいのかをまだ検討している段階だったので、2人に何か助言するような立場では決してなかったが、自分が考えていることを共有した。結局、自分がどのように一度きりの人生を生きたいのかということに尽きるような気がしたので、自らの人生観を共有し、自分はここからの人生をこのように生きていきたいと思うというような話をした。すると2人は自分の生き方に共感し、感銘を受けたと述べてくれたが、これまでずっと決められたレールの上を生きてきたのでそのレールから外れることに対する恐怖があると打ち明けてくれた。それを受けて、なるほど自分は決められたレールをこれまで歩んで来ず、社会のレールから逸脱したり、それを壊したりしながら生きていきたのだと思わされ、これからも徹頭徹尾そのような生き方をしていこうと思った。フローニンゲン:2024/3/30(土)05:19


12407. アート実践の意義と価値/法施としての唯識学講義   


時刻は午前6時を目前控え、小鳥たちの合唱がにわかに盛り上がりつつある。やはり彼らは午前5時半を過ぎてから鳴き始めるようになっているようで、いつもその時間がやって来るのを楽しみに待っている自分がいる。先ほどは、彼らの合唱に合わせる形で即興演奏作曲の実践を行い、2曲ほど曲を作った。こうして自然言語でその瞬間の自分を表現するだけではなく、自然言語を媒介させない自己表現手段を持てていることに感謝したい。いつも作曲の前に描くデジタル絵画もまたそうした無くてはならない自己表現手段である。私たちは言葉で虚構を生み出し、言葉で苦しむ強い特性を持つ。そうした言語依存的特性を緩め、そこから脱却していくための実践として自然言語を媒介にしない自己表現手段を持つことは極めて大事だろう。そこにアート実践の意義と価値を見出す。


今日は午前中にゼミナールの第73回のクラスがある。今現在は神道思想を扱っているが、5月中旬からはいよいよ唯識学に就いて取り上げていく。すでにゼミナールの学習教材として唯識学に関する講義動画を共有し始めている。1つ1つの動画を短くコンパクトにまとめていき、1枚のスライドに対して1つの動画を作成することをここ最近は毎日に行っている。それも自分にとっては法施という大切な利他行の1つである。それがこうして習慣化しつつあることは喜ぶべきことだろう。毎週放送しているラジオもまた法施の場として重要な意味を持っている。法施を積み重ねていくことは自利の実践にもなる。自分にとってみれば、唯識学について話をすればするだけそれに対する理解が深まるし、自らの成長実践を行う際のアイデアの引き出しを増やすことになる。また、唯識学の講義をしている最中にも実践案がどんどんと生み出されていき、日々の成長実践を豊かにしてくれていると感じる。その最たる例が、例えば街中を歩いている時の自己観察に現れている。さらには、日頃他者とコミュニケーションする際の自己観察にも現れている。そうした姿を見ていると、唯識学について語ることの多大な恩恵を感じる。それについて語れば語るだけ、唯識学に関する理解が深まり、実践が豊かなものになっていく。そしてそれが自らの心の成長に確かにつながっていく。そうした循環と実感を確認することができる。ここから本格的にゼミナールの中で唯識学を扱うことになれば、自分にとって最も大切なゼミの受講生の方々と深い対話が実現され、きっとお互いの心の成長がさらに進展し、豊かな人生を送ることにつながっていくであろうという大きな期待がある。それは善欲であり、そうした心の成長と幸福の輪をできる限り社会の隅々にまで広げていきたいと思う。そうした大欲を抱きながら、今日もまた唯識学の研鑽修練に励んでいきたい。小鳥たちもそれを応援してくれている。フローニンゲン:2024/3/30(土)06:05


12408. 画師としての心/今朝方の夢の続き


画師としての心。それは日々を新たに創造している。毎日は自らの心が創造していることを知っていただろうか。それは単純にその日に何をするのか、誰と会うのか、どこに行くのかを含め、私たちの心は日々私たちの毎日の絵を描いているのである。どのような心の絵師として生きていきたいだろうか。どのような絵を描くこと通じて毎日を生きたいだろうか。自らの心は日々の世界を生み出す画師なのだ。絵師としての心を育んでいこう。そうすれば、日々は充実感と幸福感で満ちた絵画世界となるであろう。小鳥たちの鳴き声に耳を澄ませながら、そのようなことを考えていた。


緩やかに流れる川のように漂う夢の記憶。今、今朝方の夢の記憶の断片をまた新たに掴んだ。そう言えば、見慣れない日本の都市で夜明け前から散歩を楽しんでいる自分がいたのを思い出す。自分の隣には誰か友人がいた。顔は特定できず、その友人と一緒に夜明け前の街をおしゃべりを楽しんで歩いていた。しばらく歩いていると汗をかいてきたのでシャワーを浴びたいと思った。もちろんこんな街中でシャワーを浴びることなど簡単にはできないと思ったが、なんと偶然にも目の前の居酒屋の暖簾の脇にシャワーがあることに気づいたのである。店の前にシャワーを完備している居酒屋を初めて見たという好奇心もあって、早速そのシャワーを使わせてもらうことにした。どうやらそれは完全に無料で使えるらしく、とても便利であった。夜通しその店で飲み食いをした人がシャワー浴びて帰ったり、あるいは店に入る前にシャワーを浴びたりしているのかなと想像しながらシャワーを浴びてさっぱりさせてもらった。すると先ほどまで隣にいた友人はもうどこかに消えていて、気がつけば夜明けを迎えようとしていた。


それ以外には、予備校時代の親友かつ同じ大学に進学したある友人と小さな教室で数学のベクトルについて学び合っていた場面があった。私たち以外にも数人ほど別の友人がいて、彼らは私たち2人のベクトル談義を聞き入っていた。親友の彼はベクトルの本質を見事に理解しており、彼が提唱した面白い考え方に私は思わず唸ってしまった。なるほど、複素数平面上でのベクトル表現はそのように解釈できるのか、と感心してしまったのである。そこから私たちはベクトルを応用して何か面白いものが生み出せないかと思った。それは社会課題の解決でもいいし、何かしらのプロダクトやサービスでもよかった。ベクトルの本質の一端をせっかく理解したのだから、早速それをこの社会に役立ててみようということになり、そこからの議論もまた大いに盛り上がり、とても楽しい時間を過ごしていた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/3/30(土)06:37


12409. 克己/種子と現行


小鳥たちの合唱が引き続き美しく鳴り響く朝の世界。彼らの鳴き声は幸せに満ちており、それが世界を幸福のブラシとして撫でている。自分の心の襞もまた彼らの美しい鳴き声に撫でられながら、心は大いに穏やかになり、そして大いに喜びを感じている。そんな心が生み出す世界の中に自分は生きている。


克己。己を励ましながら進むこと。一連の日記は絶えず自己を励ます克己の力を授けてくれている。だから自分は日々こうして何ものにも左右されずに着実な歩みを実現することができているのである。自らの内側から湧き上がってくる言葉を表出させながら、その言葉を足場としてその上を歩んでいくこと。自らの言葉には己を励ます力が内包されている。そうした自らの言葉に激励を受けながら、今日もまた己の歩みを着実に進めていく。そうすれば、いつかきっと己が純化され、世界そのものと完全なる一体化を果たす日がやって来るだろう。自分はそこに向かう過程の中にいて、絶えずそこを目指して日々の歩みを大切にしながら着実に歩みを進めている。菩薩道を日々歩む中で目に映る景色を楽しむこと。聞こえてくる音、漂ってくる香り、口にするものの味、それら全てを味わいながら、自らの心が描く日々の生活世界を思いっきり楽しむこと。そうした在り方に慈悲と智慧がきっと宿ってくれるだろう。そんなことを願いながら、今日もまた自分できる自利即利他の行いを積んでいく。


インプットしたものがアウトプットされ、それがまた新たなインプットとなるという関係。それはまさに種子と現行との関係を表している。唯識学において、自らの学習や経験としてのインプットはアウトプットとしての現行として諸縁を通じて現れる。その現行はまた新たな種子として自らの阿頼耶識に薫習されていく。日々こうして内省日記を綴るという行為そのものが種子の現行であり、同時にそれが新たな種子として阿頼耶識に投げ込まれていることに気づく。自分の成長を支えてくれていた影のメカニズムはそうしたものだったのだと合点する。日々何を種子として阿頼耶識に薫習し、どのような現行が顕現されているかを注意深く見ていこう。それらをできるだけ善の性質が内包されたものにしていくように心掛けていく。その小さな心掛けと実践の積み重ねが、心を大きく豊かに育むことにつながるのだから。フローニンゲン:2024/3/30(土)08:25

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