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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12282-12290:2024年3月10日(日)



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タイトル一覧

12282. 今朝方の夢

12283. 第28回シロシビン・セッションに向けて/唯識思想に関する夢

12284. 唯識思想の研究に向けた漢文読解力の涵養について

12285. カーテンレースを眺めながら

12286. 第28回シロシビン・セッションの振り返り(その1)

12287. 第28回シロシビン・セッションの振り返り(その2)

12288. 第28回シロシビン・セッションの振り返り(その3)

12289. 第28回シロシビン・セッションの振り返り(その4)

12290. 第28回シロシビン・セッションの振り返り(その5)


12282. 今朝方の夢


時刻は午前4時半を迎えた。今の気温は3度とのことで、昨日のこの時間帯は1度であったことを思うと少し気温が高いが、少し肌寒さを感じる。今日の日中の最高気温は11度に達し、10度を超えるが、明々後日まで似たような気温が続く。そこからは最高気温はコンスタントに10度を超え、最低気温も7度を超えてくるようなので暖かさを感じられるのではないかと思う。少なくとも寒さを感じることはもうないような季節に入って来た。3月も初旬を終えて中旬を迎えようとしているから、季節も着実に歩を進めているようだ。あるいは逆に、季節が着実な歩みを遂げているから暦が動いていると感じるのかもしれない。どのように感じるかはここでも自分の識次第ということか。


今朝方、目覚める前に見ていた夢は博物館のトイレを舞台にするものだった。厳密には博物館の外を歩いたり、館内を歩くことも夢の中に含まれていた。夢の中で私は、小中学校時代の親友(YU)と一緒に博物館がある大きな公園を歩いていた。彼は始終テンションが高く、彼と話しているとこちらも気分が高まってくるような気がしていた。彼と話をしながら歩いていると、前方にこれまた小中学校時代の親友(NK)と見知らぬ人たちがサッカーボールを蹴りながらどこかに向かっている様子が見えた。親友の彼の背中は遠くの方に見えたが、ボールを蹴りながらとても楽しそうにしていた。すると私の横にいた親友はボールを蹴っている彼の方に向かって笑顔で走り出した。私も走って彼らのところに行こうと思ったが、右手に見えた博物館が気になったのでそこに入ってみることにした。入り口のドアが自動で開き、中に入ってみると、そこには古代人の生活を模した特別展示が開催されていて、とても面白そうに思えた。その展示を見たいと思ったが、小銭を持っていなかったのでどうしたものかと思った。そこはクレジットカードを受け付けていないような雰囲気だったので、特別展示を見ることを諦めようかと思った。すると、先ほど走って去って行った親友が私の隣にいて、チケットがなくても大丈夫だと述べた。そのようなことを彼は述べて、本当にチケットを持たずに特別展示会の入り口の方に歩いて行き、展示室の前にいる係員に少し会釈をして中に入って行ってしまった。本来はチケットの購入が不可欠なのだが、これはどういうわけなのだろうと思った。しかしつべこべ考えず、自分もチケットを持たずに特別展示の入り口に向かうことにし、親友と同じく私も係員に会釈をすると、何も咎められることなく無事に中に入れた。先に中に入った親友の姿はもうなく、彼は別に特別展示に興味などなかったのだろう。ただ私に特別展示室の中に入る方法を教えるために来てくれたのだと思った。特別展示室には不思議と人は1人もおらず、貸し切り状態で見ることができた。古代人の当時の生活様式を想像しながら展示品を見ていたが、意識は友人がどこに消えてしまったのだろうかということに向かっていた。なので特別展示室を早々と出ることにした。すると気がつけば博物館内の広いトイレの中にいた。そこには様々な個室があって、それぞれ個性があった。普通トイレと言うと個室や便器の作りなどはどれも統一されて同じであるが、そこのトイレは全てに個性があったのである。それもこの博物館らしさなのかなと思いながら、自分の個性に合致するトイレを選んでいると夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/3/10(日)04:58


12283. 第28回シロシビン・セッションに向けて/唯識思想に関する夢


時刻は午前5時を迎えた。今日は第28回のシロシビン・セッションを予定している。今回から、新栽培キットで育てたマッシュルームを活用する予定だ。前回は服用量を随分と抑えたが、今日は少なくとも「英雄の服用量」である乾燥マッシュルーム5.0g以上を摂取しようと思う。摂取の際には前回のように単にクエン酸豊富なレモン汁とだけ和えるのではなく、セッション開始時には空腹状態なので、クエン酸で胃が不快にならないようにするために、レモン汁とカカオパウダーと蜂蜜を混ぜる形で摂取したいと思う。やはりマサテコ族のカカオとシロシビン・マッシュルームを和えるという伝統に則る形で摂取したいと思う。カカオパウダーが入っていればクエン酸単体がもたらす胃への影響も相殺されるのではないかと思う。この組み合わせは今回が初めてなので、また実験してみて味と効果がどうであったかを検証してみようと思う。これまでの経験上、味としてはどちらも素晴らしいので特に問題はないかと思う。残すところは体験に与える影響である。ここ3回は過酷なセッションが続いていた。もちろんその過酷さは、自分の我執を乗り越えていくために不可欠なものだったのだが、今回は我執の強さを嫌と言うほどに突きつけられるような過酷な体験よりも、もう少し穏やかかつ深い洞察が得られるようなセッションであることを願う。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはもう少し続きがあった。続きとして見ていたのは、自分が唯識思想についての記述試験と口述試験を受けている場面だった。夢の中の私はどちらの試験も本当に楽しそうに受けていた。記述試験については、自分がいつも学習している時に自らに対して立てているような問題がそっくりそのまま出題されたので、朝飯前という形で記述問題をひたすら回答していた。その時の自分はもう笑顔が止まらず、それはすでに自分が考えたことのある問題が出題されたからという理由ではなく、記述問題を解くことを通じてまた自分の理解が深まることを実感していたからだった。自分にとっては試験の場さえもが唯識思想の理解を深める場だったのである。続く口述試験は、どこか博士課程におけるそれと似ていた。欧米の大学院においては、博士論文を執筆するフェーズの前にまず1度口述試験がある。そして論文執筆後にも口述試験が課せられる大学院が多い。自分はまだ博士号を取得していないが、そのような事情を知っていて、何人がわからない顔の見えない数人の試験官を相手にした口述試験も記述試験に負けず劣らず楽しんでいた。むしろ記述試験よりも口述試験の方が楽しかったと言う方が正確かもしれない。試験官へ説明する際も始終笑みが溢れており、試験官からの質問に対しても迅速かつ的確な回答をすらすらと述べている自分がいた。何か途轍もない幸福感に包まれている自分がそこにいて、唯識思想を学ぶことはこうも自分を幸せにするのだとしみじみかつ強烈に実感し、感動の涙が滲みそうであった。フローニンゲン:2024/3/10(日)05:13


12284. 唯識思想の研究に向けた漢文読解力の涵養について


本日行う第28回のシロシビン・セッションは午前10時から開始しようと思う。それまでの時間はいつものように唯識思想の研究に励みたい。昨日6冊ほど専門書を受け取り、昨日の段階ですでに2冊の初読を終えた。今日はまず最初に、無著が残した『摂大乗論』に対する世親の注釈書でである『摂大乗論釈』の玄奘訳がまとめられた専門書から探究をスタートさせたい。ここからはサンスクリット語の学習よりも優先させることとして、漢文に慣れることと書き下し文に慣れることを意識したい。瑜伽行唯識派の思想を学ぶにあたってはサンスクリット語は必須の素養になると思うが、自分がます最初に形として残したい研究は日本の法相唯識教学に関する研究であり、その時にはサンスクリット語の文献を読むとよりも奈良時代から明治時代にかけての古文書を読んでいく必要がある。江戸時代や明治時代の文献は随分と読みやすいかもしれないが、奈良時代ともなってくると漢文の素養は必須になる。漢文の知識は高校時代に習ったもので止まっているし、どうやら高校時代に習った漢文の規則は奈良時代のものとは違うらしく、奈良時代から江戸時代にかけては、漢文の読み方の規則は統一されたものではなかったそうだ。江戸時代頃においては、漢文を教える先生ごとに読み方が異なっていたらしい。それくらいに自由度の高かったのが日本の漢文読解の姿のようである。いずれにせよ、ここからは高校時代に習った漢文の知識を思い出しながら、とにかく唯識思想に関する文献に触れる中で漢文読解力を高めたい。ここでも間違って漢文のお勉強を単体でしないようにしなければならない。言語学習はとにかく文脈依存性があるのである。最低限の文法規則を押さえておくことは大事だが、自分に関心のない書物を通じてその言語をいくら読んでもその言語の読解力の向上はあまり見込めない。すでに探究したい分野が決まっているのであれば、その分野に関する書物を読む過程の中で読解力を養っていくのが一番賢明な方法である。自分が関心を持つ分野の書物であれば、全く関心のない書物を読むよりも学習動機は高く維持され、関心領域固有の言葉を習得していくことが容易になる。自分の場合においては、仏教全般に手を広げるのではなく、とにかく唯識思想に絞って古書を読んでいくことをこれから楽しんで行っていきたい。それもまた仏道修行の一環でもある。自分が古書を読み解く力を高めれば高めるだけ、古書に眠っている智慧を現代に蘇らせることができる。自分は智慧を発掘し、それを現代の文脈の中で蘇らせることを請け負う再生人なのである。そんな新たな自己認識が芽生える。


手元には、鎌倉時代の法相宗の僧侶貞慶(じょうけい)の『唯識論尋思鈔』があり、今日はそれも初読してみようと思っており、そこで漢文や書き下し文を読む楽しさに触れ、ここからの研究に必要な読解力を高めていきたい。フローニンゲン:2024/3/10(日)06:10


12285. カーテンレースを眺めながら


時刻は午前6時半を迎えた。今し方モーニングコーヒーを淹れて一口それを飲んだ時に窓の外を見ると、もうこの時間帯から明るくなっていることに驚いた。冬の時代においては午前8時半を迎えてようやく明るくなってくるかどうかだったのが、それよりも2時間早いこの時間帯から薄明るくなっているではないか。このあたりにも季節の着実な進行を見る。今月の最終日曜日の深夜に欧州はサマータイムに入る。まだまだ寒さは残っているが、もう欧州はそのような時期を迎える。今は熱を外に逃さないように薄いカーテンレースを広げたままだが、もう少し気温が高くなってきたら、カーテンレースを開けて絶えず外の様子をより鮮明に見られるようにしたい。そこでふと、私たちの世界認識レンズというのはカーテンレースがかかっているようなものなのかもしれないと思った。私たちは我に固執する「我執」と出来事を実体化し、それに固執する「法執」の2つを持つ。それらが私たちの認識を曇らせ、世界をありのままにみることの障害となる。私たちが世界を眺める眼は、それら2つのカーテンレースで大なり小なり覆われている。実際のところはカーテンレースの向こう側でどのようなことがありのままに生じているのか見えないのである。世界を認識するテーマについてはよく色眼鏡が例に出される。仮に私たちが黒い眼鏡を掛けていれば、世界は黒く見える。しかしそれをもってして、世界が黒いとは本来言えないのである。世界は単に自分の黒い眼鏡によって黒く見えているだけで、実際の世界のありのままの世界は黒ではない可能性が大いにあるのだ。いやむしろ、確実に黒ではないだろう。確実に黒だけではないだろう。世界のありのままの姿はもっと色取り取りで、しかも色彩は千変万化しているはずだ。世界をありのままに見させてくれるための実践思想としての唯識思想。それを学ぶ意義はそうしたところにもあるとしみじみ実感する。


今朝方の夢の中で、唯識思想に関する記述試験と口述試験を受けている自分がいたことについては先ほどの日記で書き留めていたように思う。興味深いことに、唯識思想を学んでいる夢の中の自分は煩悩がほとんど滅却していた。その代わりに全ての衆生を救済することに向けた大欲を抱いていた。それは純粋かつ大きな欲で、涅槃の世界に1人で入るのではなく、あえてこの世界に留まって衆生の救済に向けて尽力していこうという思いで溢れる自分がいた。そこでは気概さと気骨さに溢れた自分がいて、心の奥底から無尽蔵の膨大な活動エネルギーが湧き上がっていた。自分は巨大な宇宙大のエネルギーを体現する飛龍のようであった。そんな姿を持つ自分が夢の中にいたなということを改めてふと思い出す。フローニンゲン:2024/3/10(日)06:44


12286. 第28回シロシビン・セッションの振り返り(その1)       


時刻は午後7時を迎えた。先ほど、第28回のシロシビン・セッションを終えた後の夕食を食べ終え、今日は振り返りの日記を書き残すよりも先に、何か思い立ったかのようにキッチンの水回りの掃除をし、オーブンを徹底的に磨いた。キッチンの水回りは毎日綺麗にしていることもあり、掃除はほぼいつものような手順と時間だったが、オーブンに関しては随分と掃除を怠っていたこともあり、時間をかけて磨いた。かつてコーヒーの残りカスをオーブンで温めて乾燥させて芳香剤の代わりとして使っていたことがあり、その時のコーヒーの残りカスがオーブンの天井や底、さらには壁面にも付着しており、それを掃除するのがかなり大変だった。また、毎晩茹で野菜をオーブンを使って作っていることもあり、その匂いもオーブン全体に付着していることに気付いた。そこで、シロシビン・セッションのために購入したレモン汁をキッチンペーパーに染み込ませて掃除をしたところ、随分と匂いが取れた。そこからも念入りにオーブンを磨きに磨き、数年ぶりに徹底的に掃除したことによってオーブンが生まれ変わった。そこからは、冷蔵庫の中も綺麗にした。冷蔵庫についても割とこまめに綺麗にしているので水回りの掃除と同じぐらいの時間で冷蔵庫も綺麗にすることができた。いずれにせよ、オーブンの生まれ変わりは、今日の自分の第28回のシロシビン・セッションを通じた生まれ変わりぐらいの大きな出来事だったように思う。


端的に今日は、久しぶりに一切の否定的な感情が浮かぶこともなく、宇宙的な体験が6時間ほど持続するセッションとなった。そもそも今回は、クエン酸が豊富なレモン汁を微塵切りにしたマッシュルームに和えるだけではなく、そこにマサテコ族の儀式で行われているのと同様にカカオパウダーを混ぜた。自分なりのアレンジとしてそこに蜂蜜を少々加えて飲んでみたところ、味だけ見ればレモン汁だけで摂取する方がすっきりとした味わいで個人的にはそちらの方が好きなのだが、空腹状態でクエン酸を摂取するとセッション中の体験がかなり辛いものになることをここ3回のセッションを通じて学んでいたので、オーガニックのカカオパウダーとこれまたオーガニックの蜂蜜を加えた次第である。飲んでみると、ヘンプパウダーをさらに加えた方が味がまろやかになるなと判断したので、小さじ一杯ほどのヘンプパウダーを加えてさらに飲みやすくして飲んだ。今日のセッションが宇宙的かつ平穏かつ究極的な真理を開示し続ける内容であったのは、ひとえにこのような飲み方をしたことによるのではないかと思う。次回からもぜひこの飲み方を踏襲していこうと思う。フローニンゲン:2024/3/10(日)19:27


12287. 第28回シロシビン・セッションの振り返り(その2)

   

今日のセッションは久しぶりに過去一番を更新するな充実した内容だったように思う。とにかく最初から最後まで宇宙的な体験であったことに尽きる。全てが瑜伽行唯識学派が明らかにしている通りでしかないことが検証・確証される内容であった。そこで思ったのは、仏教が天晴れというよりも、宇宙の真理が天晴れだということだった。宇宙の真理は見事以上に見事で、究極的以上に究極的だった。天晴れ以上に天晴れであり、寸分違わぬ完璧さ以上の完璧さを体現したものなのだということをまざまざと見せてもらったし、体験させてもらったし、真理そのものにさせてくれた。自分はやはり宇宙だったのであり、真理そのものだったのだ。全ての人がそうであり、生きとし生けるもの全てがそうなのであり、非生命的物質も全部そうだったのだ。そこに全てがある。全てが宇宙の中に宇宙として、全てが真理の中に真理として存在し続けているというシンプル極まりない普遍的事実。これはおそらく覆ることのない無漏の真理だと思われる。


今日のセッションでその他に驚いたのは、ここ3回は地獄を見るかのように自分の末那識の強さ、すなわち我執の強さを体験したのだが、阿頼耶識と同様に永続するとされる末那識が顔をもたげることが一切なく、純粋な第六識としての意識としてい続けられたことである。体験の始まりはいつものお決まりの流れであった。自分の身体感覚が喪失し、純粋意識に向かう過程でまずは登竜門としての「開示」が行われる。宇宙の門が開かれるような形で、彼岸的な極上の美的世界とおどろおどろしいものが生起する世界が混ざり合い、宇宙の現象的可能性の全てが開闢する世界の中に入っていくところから体験が始まった。ここまでは過去3回でもおおよそ同じであった。大抵この体験が始まると、「今日も始まったな」という感じになる。今から12年前に初めてアヤワスカを飲んだ時には仰天してその世界に参入することを躊躇ったが、今はもうお決まりの儀式のようにしてその世界の中に安住して進んでいくことができる。今日もその世界に入らせていただくという気持ちでその世界に入っていった。違いはそこからであった。今日は我執が一切生じることなく、元々宇宙としての命を宇宙に預けるという形で全てを委ねたところ、そこからは真理開闢の連続であった。それは当然ながら言葉を超えた内容だったのだが、始終自分の純粋意識は納得しているようだった。その時には依然として身体感覚はなく、身体から意識が完全に脱却していたのだが、「腑に落ちる感覚」と「腹落ちする感覚」の双方があった。腑も腹も無い状態だったのに。滑稽である。宇宙は冗談が上手い。


とにかく6時間も永遠と、自分は宇宙であり、宇宙としての自分は宇宙のためだけに生きていくと誓い続けていた。宇宙としての自分は、自分を含んだ宇宙を楽しませ、喜ばせ、幸福にするために生きるという誓願。他の人、生きとし生けるもの、地球が幸福になるだけではなく、宇宙そのものが幸せであり続けるために生きるという絶対的な誓願があった。自分のためというのはちっぽけすぎるし、他者のためというのもちっぽけすぎるし、社会のためというのもちっぽけすぎるし、地球のためというのもちっぽけすぎるのだ。宇宙の全ての全てのためとしての宇宙のためでなければならないのだ。そんな宇宙としての誓願としての宇宙としての誓願があった。フローニンゲン:2024/3/10(日)19:43


12288. 第28回シロシビン・セッションの振り返り(その3)


絶えず変化を続ける宇宙としての自分も変化をし続け、学び続けているようだ。前回か前々回にあった恐怖を完全に脱却する出来事があった。もう自分は便器であることも、「14:09」だったか記憶は定かではないが、ある瞬間の時間であることも、スマホであることも恐れることはなかった。生まれてからこの瞬間まで、自分は便器でなかったことはなかったし、14:09の時間でなくても14:09時間ではなかったことはなかったし、スマホが誕生する前からスマホでなかったことも一瞬たりともなかったのである。宇宙開闢の瞬間から、自分は宇宙の全てであったのだ。そしてここからもずっと。この肉体としてのお役目を終えても自分はずっと宇宙であり続けるのだという歓喜を超えた歓喜の先にある無上の喜びの粒子の絶対的ゼロ地点のさらにそれを突き抜けた宇宙の真理と同化して昇天し、もうこの瞬間に肉体のお役目が終わっても一切の悔いなしという感覚に包まれていた。宇宙としての自分が本当に宇宙に還るというのはこんなにも至福なことだったのだ。宇宙としての存在が宇宙として生まれ、宇宙に還ることを人間だけが「死」と呼ぶらしい。途轍もなく馬鹿らしい社会構成概念としての死。そんな虚構的言葉の産物は早晩打ち壊した方がいい。なるほどこれまの自分も、そしておそらく世界中のほぼ全ての人がありもしない概念的産物の死を恐れているらしい。なるほど、釈迦が生老病死を人間の苦の根本原因と述べていたのはまさにその通りだと思った。深い禅定状態であれば、自分はもう肉体的な死の恐怖は払拭したようである。当然ながら通常の意識状態に戻り、再び意識が「自分の」という所有格が付帯する言葉で表現される肉体に宿った時、我執が強くなり、死をまた恐れるだろう。しかし、これからシロシビン・マッシュルームという宇宙の恵みの力を借りながらセッションを積み重ねていくと、いつか肉体に意識を宿しながらも死の恐怖を超克していくだろう。6時間を越すセッションを終えて3時間強が立つ今は、すでに意識は肉体に宿っているが、この瞬間の今は死の恐怖が随分と手放されている状態である。おそらく一晩寝て明日の朝になったらまた、生物としての死に対する潜在的な恐怖は自然発生的に大きくなっているだろう。しかし今日のセッションの前ほどにはもうそれは存在していないはずである。肉体的な死は現在のテクノロジーをもってしてもまだ超克されておらず、トランスヒューマニストやポストヒューマニストは躍起になって死の超克に向けて尽力しているが、個人的には肉体の死はあり続けていいのではないかと思う。肉体としての死もまた宇宙劇場の一コマの映像なのだから。肉体として活動している姿は、宇宙のホログラム的影像(ようぞう)かつ映像として写っているだけであり、それは宇宙的表象現象に過ぎない。肉体を手放して、人間が「死」と呼ぶ現象を通過して純粋意識だけになると、おそらく既存のアイデンティも消失すると思われるが、いっときの宇宙的影像かつ映像としての自分がまた宇宙全体に溶け還るだけなのだと考えると、絶対的な安心感に包まれる。とにかく今日のセッションはあまりにも至福過ぎた。肉体を手放し、肉体的な死を手放し、宇宙に還ることの究極的な儚さと美しさと至福さがあった。フローニンゲン:2024/3/10(日)19:59


12289. 第28回シロシビン・セッションの振り返り(その4)


唯識とホログラフィックユニバース。それはどうも同じことを違う角度から述べているに過ぎないことが見えてきた。とにかく天晴れ。とにかく見事。とにかく天晴れな気分である。宇宙は天晴れであった。物理宇宙の全てを含んで超えた非物理的な意識宇宙はもう天晴れでしない。物質も非物質も、生命も非生命も、概念も非概念も、何から何までそこから生まれてくるのだから!そして生まれては消えを繰り返しながら久遠の時間続く意識宇宙。それを天晴れと言わずしてなんと言おう。


阿頼耶識の種子からホログラムのように生じる様々な現行。全ては絶え間なく揺らめく幻影的蝋燭の灯火。現れては消えを繰り返す全現象。全現象を包摂した全ての全ては美しく現れては儚く消えを繰り返す意識としての宇宙。宇宙は意識なり。宇宙は決して物質ではない。宇宙は物質の側面があるのは確かだが、それは意識としての宇宙のホログラム影像(ようぞう)かつ映像に過ぎないのである。びっくり仰天するが、自分の肉体を構成する物質もまた実は突き詰めれば非物質的な意識なのだ。これを誰が信じられよう。多くの人は物質は物質から生まれると思い込んでいるに違いない。しかし断じて否である。全ての物質は意識から生まれる。あぁなるほど、唯識思想が述べる通りである。本当に阿頼耶識が全てを生み出しているのだ。阿頼耶識は宇宙なり、宇宙は阿頼耶識なり。阿頼耶識は宇宙を含んで超えていて、宇宙は阿頼耶識を含んで超えている。全ての全ての全てが意識から生まれ、突き詰めれば意識なのだ。今タイプしているパソコンも意識から構成されており、タイプされていく文字もまた意識の現れかつ具現化されたものなのだ。一瞬の時もまた意識だということを知っていただろうか。時間もまた意識だったのだ!


宇宙として生きること。意識として生きること。それしかない。これからの自分は絶えず宇宙の真理に合致した生き方をしているかを問いたい。それは宇宙の真理に適った研究か、実践か、言動か、生き方か、それだけを基準にして生きる。それ以外の基準は自分にはない。それは自分の中の絶対的宇宙的行動基準である。今この瞬間の一呼吸が、今この瞬間の心臓の一鼓動が宇宙の真理に合致しているのか。それだけを確かめながらここからの毎日という宇宙を宇宙として生きていく。フローニンゲン:2024/3/10(日)20:15


12290. 第28回シロシビン・セッションの振り返り(その5)


今日のセッションとして就寝前にもう1つ振り返りの日記を執筆しておこうと思う。時刻は午後9時を目前に控えていて、いつもはもうベッドの中に入っている時間だが、今日はシロシビン・セッションがあったので特別にもう少しだけ今日の命の灯火を灯しておきたいと思う。


先ほど入浴をしながら、天窓の向こう側に広がる夜空を眺めていた。そうなのだ。贅沢にも今の我が家の浴室には、この一軒家を作ってくれたフレディさんの粋な計らいで天窓があるのだ。天窓のガラスの上を時々猫が通ることは日常茶飯事の宇宙的出来事として一興がある。天窓の向こう側に広がる夜空を眺めていると、今日のセッション中には自分の肉体を構成している臓器だけではなく、細胞1つ1つに話し掛け、感謝の念を伝えていた。よくよく考えると途轍もなく不思議なのだが、私たちの肉体は無数の細胞という生き物で構成されている。ここで末那識を持つ私たちは、その一角にある自我意識から、肉体を構成する1つ1つの命を蔑ろにする。あたかもそれらが自分ではない異物であるかのように。しかし、冷静になって宇宙意識として宇宙そのものになってみると、自我意識も末那識全体も1つ1つの細胞と同一のものであることに気づく。まさに不二非二元である。私たちの我執を司る末那識は、“I”、 “my”、“me”、 “mine”という概念区分を生み出し、何かに固執し、固執しなかったものを排斥する。なんと大抵の場合私たちは、おそらく胃腸や脳や心臓のような臓器や器官を客体として、主体ではないものとして打ち立てる形で峻別する。しかし今日の体験が明らかにしてくれたように、それら客体は主体でもあり、同時に客体は実体のない客観的映像という主観的映像であるということに気づく。抜け落ちた髪の毛1本も自分であったし、自分であり続けること。なんと摩訶不思議で、摩訶不思議でもなんでもない絶対的な真理であろうか。そんな真理に目覚めてばかりのセッションだった。明日の朝目覚めた時、自分はまた新たな宇宙として、そして永続する宇宙として再誕するだろう。フローニンゲン:2024/3/10(日)21:08

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