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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12270-12275:2024年3月8日(金)



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タイトル一覧

12270. 唯識思想に関する用語体系の確立と実践/公共的なものを大切にすること

12271. 今朝方の夢

12272. 3相の自己観察・自己省察実践

12273. 心のOSを見つめ直すこと

12274. 慧命者と無学者への道

12275. 日本の法相唯識教学の研究に向けた漢文学習


12270. 唯識思想に関する用語体系の確立と実践/公共的なものを大切にすること


時刻は午前4時を迎えた。大変素晴らしい目覚めと共に、今日もまた唯識思想を一日中研究できるという喜びに包まれていた。来週の月曜日をめどに先日日本から注文した30冊ほどの唯識思想の関連書籍が届くことになっている。それまでに手元の書籍を少なくとも三読をしようと思っていたところ、すでに昨日の段階で三読目を終えた。なので今日からは再び『唯識 仏教辞典』を最初から最後まで読み返そうと思う。一昨日にはプリンストン大学から出版された“The Princeton dictionary of Buddhism”という仏教辞典を読み返しており、そこからも大いに学びがあったので、今日もまた辞典を読み返すことを通じて新たな学びがたくさんあるだろう。辞典を通じて言葉の定義をしっかりと押さえていき、とりわけ大事な言葉についてはそれを用いて自己観察と内省実践に適用してみようと思う。そうした地道な実践の積み重ねによって、自分の内側に唯識思想に関する用語体系が構築されていき、それが無事にある程度完了したら、24時間どこにいても何をしててもその用語体系を駆使して自己観察と内省実践ができるようになるだろう。用語体系、すなわち知識体系を自分の内側に構築するというのはそういう意味があるのだ。


昨日、ジムのトイレであることにハッと気付かされたことがある。筋力トレーニングの前に何気なくトイレで用を足していると、私的なものよりも公的なものを大切にするべきだと気づいたのである。目の前にある便器は自分の家のトイレの便器ではなく、ある意味でそれは他者と共有で使う公共的なものである。自分の家ではトイレをできるだけ汚さないようにし、こまめに掃除をしているのだが、仮にジムのトイレの掃除を自分でしなかったとしても、綺麗に使うことは最低限しなければならないなと思った。自分の家のトイレでないからいいというのは相当に利己的な発想であり、そこにも我執が見られる。一方で、自分の家よりも外のトイレを大切に扱うというのは我執からの解放に向けた良い実践であり、それが毎回自然に行えるようになっていると、我執が随分と弱まってきていることの証なのではないかと思う。これはトイレに限ったことではなく、他の公共的なもの全てに及ぶ。現在は公共空間が侵され、それは破綻の一途を辿っているが、だからこそ尚更公共的なものを大切にする必要があるのではないだろうか。私的なものしか大切にしないということは我への強い執着であり、そんな心が現れたらその有り様をつぶさに観察するのである。私的なものもまた他者であり、尚且つ自分でもあるという見方を取れば、自他を共に大切にするという意味で、私的なものを大切に扱い、それと同じだけ公共的なものを大切に扱うという発想と習慣を持ちたいものである。そのような発想と習慣を持つ人が増えてくれば、社会は少しずつ美化されていくのではないだろうか。社会の美化まで行くには遠い道のりが待っているだろうが、そうした取り組みを1人1人が行っていきたいものである。フローニンゲン:2024/3/8(金)04:16


12271. 今朝方の夢


時計の針は午前4時半を示そうとしている。今の気温は1度と低いが、今日は雲ひとつない快晴になるようだ。気温は7度まで上がり、今日と明日はどちらも雲ひとつない見事な天気に恵まれるようなので何よりである。あと数時間後には素晴らしい朝日を拝めるだろう。今日は朝から快晴なので、きっと小鳥たちも喜びの歌を歌い上げるだろう。朝日と小鳥たちのアンサンブルが今からとても楽しみである。


そんなことに期待しながら、今朝方の夢について振り返っておきたいと思う。今朝方の夢は幾分断片的だったように思うが、振り返っている過程の中で色々と思い出すこともあるかもしれない。


夢の中で私は、見慣れないフットサルコートの脇にいた。そこはどうやら外国のリゾート地のホテルに併設されているフットサルコートのようだった。サッカー日本代表がちょうど海外遠征のためにそのホテルに宿泊していて、練習の一環としてそのコートでフットサルをしていた。私はその練習風景をぼんやりと眺めていた。やはり代表選手は全員技術力が高いのだが、同時に選手それぞれの技術レベルにはばらつきがあることも確かだった。フットサルの様子を眺めているとそれが一目瞭然だった。スペインで活躍する2人の若手の選手の技術力は際立っており、他の選手たちを圧倒していた。しかし代表に入ったばかりの若い選手は、その技術が頭抜けている分、技術をひけらかすなと周りの選手から注意をされていた。私はそれを見て、彼の才能が潰されなければいいなと思っていた。周りの選手が彼に注意をすればするだけ彼が萎縮してしまう可能性があり、そうすると彼の技術力は活かせる場所を失って、宝の持ち腐れになってしまう恐れがあると思ったのである。そんな心配をしながら練習をしばらく眺めていた。


その他に覚えている夢としては、小中高時代のある友人(TO)がトイレ掃除を担当しており、彼と水と油の関係にあった別の友人が同じトイレの掃除当番になったことに伴って、2人の間に入って関係を摂り持っていた場面である。2人は似たような性格をしており、それが逆に衝突の原因になっていた。なので私は、2人の性格を理解しながら、彼らが良好な関係を築けるように間に入ってこまめにコミュニケーションを図っていた。すると、意外にも彼らは衝突することなくうまくトイレ掃除をしていた。それだけではなく、2人の間にも自然と会話が生まれ、関係性がどんどんと良い方向に変わっていることに気づいたのである。もうしばらく2人の間に入る役割を果たせば、そのあとはもう自分が関わる必要はないなと思った。自分が関与する必要がないということに伴う喜びではなく、2人が上手くやって、お互いの関係が良くなり、両者に笑顔が増えることが嬉しかった。そんな喜びの感情を持つ場面があったのを覚えている。


今日の夢ではほとんど否定的な感情が出てくることも、我執も見れなかったが、明日からの夢でそのような夢があれば、その都度唯識思想を通じて自己観察と内省実践をしてきたい。「夢を観察して現実世界という夢から覚める」という覚醒への道を着実に歩んでいくことができればと思う。夢の世界と同じく、この物理的現実世界も夢として構築されているのだから。フローニンゲン:2024/3/8(金)04:34


12272. 3相の自己観察・自己省察実践       


時刻は午前5時を迎えた。ここから正午までの時間を全て唯識思想の研究に充てていく。今日は午後からも特に何も予定がないので、午後もまた夕食準備の時間まで唯識思想の研究に打ち込むことができるだろう。唯識思想に関する学術研究もまた仏道修行の一環である。そこで学んだことを日常生活の中での自己に適用し、絶え間ない自己観察と自己省察を行っていく。我執が完全に滅却するまでそれをとことん行っていきたい。この欲は我執から生まれたものなのかという問いが芽生えるが、その欲は菩提に向かいたいという清純な欲のようであり、仏教の中で大切にされる欲だということがわかる。唯識思想を学ぶことを通じて、煩悩や欲に対する考え方も随分と脱構築されつつある印象だ。やはり西洋の心理学だけでは心許ないという印象である。そこでは煩悩や欲をとかく悪者にしがちであり、変容に向けた具体的な実践の指示も少ない。しかし幸いにも、それらは全て唯識思想の体系の中に含まれている。それらを学び、実践していけばいいという非常にシンプルなことである。唯識思想を学び始めてから、日々の生活はよりシンプルさを増し、学ぶことも実践することもシンプルになった。それは全て唯識思想のおかげである。


昨日、唯識思想を用いた自己観察として次のようなことを考えていた。心の中に絶えず立ち現れる考えや感覚としての「相」を絶えず観察する習慣を徹底させること。もう少し厳密に言えば、言葉の形になった言語的相、感覚の形になった感覚的相、そして気持ちの形になった情緒的相の3種類を絶えず観察していくことを自らに徹底させていこうと思った。私たちは普段生活をしていると、心の中に言葉の形として何かが思い浮かぶし、言葉の形にならない感覚や感情が浮かぶ。それらをまずは観察対象にしてみる。そしてそれらがどこからどのようにしてやって来たのかを考えてみるのである。どのようにしてやって来たかを考えるのが難しければ、まずは自分の心の歴史を遡り、それがどの時代に形成させれたものなのかは特定してみよう。心の世界は複雑で、因果関係も錯綜としているため、特定の時代の特定することが難しくても、主要因としての何かであればきっと直感的に思いつくだろう。そうした直感的なものをまずは大切にするべきである。直感を大切にして、思いつく限りその要因となった出来事を振り返っていく。そこからシャドーワークの3-2-1のプロセスを辿ればいい。あるいは、サイコセラピーの技法でしかるべきものがあればそれを適用してみればいいのである。そのようにして、とりわけ心の中に浮かぶ悪の煩悩や欲と関係する言葉・感覚・感情が浮かんだら、それらを対象にしてそのようなワークをつぶさに行っていきたいと思う。菩薩に至るためにはこうした地道な積み重ねが大切となり、小さな積み重ねによっていつか大きな内的成長の飛躍がやって来るだろう。フローニンゲン:2024/3/8(金)05:22


12273. 心のOSを見つめ直すこと


仏教は「心の宗教」とも言われるぐらいに、心に関する緻密な分析と心の成長を実現する見取り図と実践的指示を提供してくれる他の宗教にはない側面がある。他の宗教になかなか見られないだけではなく、他のどんな学問領域にも見られないほどに心に関する精密かつ広範な分析を行い、心の成長を実現させるための地図を提供してくれるのが仏教である。仏教にも様々な流派があるが、その中でもやはり瑜伽行唯識派はひとつ頭を飛び抜ける形で心に関する詳細な分析と心の成長を実現する実践上の羅針盤を提供してくれる他にはない存在である。


私たちは誰しも、不幸であるよりも幸福を願うのではないだろうか。不充実よりも充実した毎日を過ごすことを願うのではないだろうか。そのために必要なことは自分の心を見つめることである。それをしなければ何も始まらない。また、それ以外のことを学び、実践することは、心という基盤を蔑ろにした砂上の楼閣のような現象だと思われる。心のOSを見つめ直すことを通じて初めてアプリケーションが有効に働く。アプリケーションを搭載して、それを活用するのはOSを構築してからである。もちろん、この実社会で生きていくためには、そして社会に貢献していくためには、個別具体的な学習領域や実践領域を修めていく必要がある。私たちには個性があり、多様性があるのだ。私たちが固有に他者や社会に貢献するためには、その人の関心にあった学習・実践領域を深めていく必要がある。しかしながら、それを担う当人の心が煩悩や欲にまみれ、心が杜撰で未熟な場合、個別具体的な学習や実践はひどく虚しいものになる。それどころか、社会の害悪にすらなるかもしれない。そのようなことを考えてみると、なお一層のこと己の心と向き合い、己の心を磨くことをまずは最優先させるべきであることが見えて来る。本来は、教育がそこを担うべきなのかもしれないが、初等教育から高等教育にかけてはもはやそれを期待することはできない。そこではOSとしての心の器を鍛錬・錬磨することを離れ、時代の流行に即したアプリケーションのインストールが奨励されるばかりである。日本の憲法について精通していないのでよくわからないが、唯識思想の教えを若年層に伝えていくにはどうしたらいいのだろうかと考える。

今少し調べてみると、日本国憲法20条にはすべての人に信教の自由を保障し,宗教儀式への強制参加を禁じるとされているが、仏教系の幼稚園や自分もかつて通ったキリスト教系の幼稚園などでは、憲法20条に反することがごく当たり前に行われている。厳密に言えば、そもそも親がそうした幼稚園に入園させ、宗教儀式に参加させるることそのものが憲法違反なのだ。憲法20条に抵触しない形で仏教の心の思想を伝えていくにはどうしたらいいのかという点は今後も考えていきたい。法律のど素人の解釈として、「宗教儀式」を強制させなければ憲法違反にならないのであれば、仏教の思想を伝えることは誰に対しても十分に可能のように思えて来る。いずれにせよ、これまで西洋思想と西洋科学の観点で心を扱って来た自分の目を大きく見開かせてくれた瑜伽行唯識派の思想の叡智は、なんとしても多くの人に共有したいと思う。それは日本人に留まらず、世界の人に対してもである。フローニンゲン:2024/3/8(金)06:29


12274. 慧命者と無学者への道      


自分は智慧を命にして生きる人としての「慧命者(えみょうしゃ)」になれるだろうか。そして他者に出し惜しみなく智慧を分け与える存在になれるだろうか。そのようなことが問われているように思う。向こう側からのそうした問いを拝受し、そうした存在に少しでも近づけるように日々鍛錬精進していくこと。それが自分が透徹したい生き方である。そのためなら全ての事柄を捧げてもいい。そんな心境である。


自分には欠けている事柄がたくさんある。社会の美化と幸福の実現のために、できる限りの努力をしてその欠損を埋めていきたいと思うが、1人の人間として全てを完全に備えている円備の状態になる必要はないのかもしれない。なぜか。それは他者がいてくれるからである。私たちはお互いがお互いを支え合いながら生きている。そうした縁起性がこの社会の根底に貫かれている。それを考えてみたときに、自分が円備の状態である必要はなく、他者と補完し合う形で社会全体として円備を実現すればいいのではなかろうかという思いに至る。1人の人間ができるだけ円備に向かうことは尊いことかもしれない。しかしその過程で他者を蔑ろにしたり、自分勝手になったり、利己的になったりするのであれば本末転倒である。長い目を持って少しずつ円備の状態に向かっていくことを心掛け、足下ではとにかく他者との助け合いの精神、相互扶助の精神で日々を生きていきたいと思う。


自分がこれから辿る道。それは学者から無学者への道である。「無学」というのは仏教においては最大級の賛辞であり、同時に到達するべき地点である。それはもはや学ぶことが何もないという状態を指しており、阿羅漢に到達しない限りは無学ではあり得ない。今の自分はまだまだ学を修めていく段階で、一歩一歩阿羅漢への道を進んでいき、いつか無学者の境地に達することができればと思う。それはおそらく今世では不可能かもしれないが、それでいい。自らは絶えず有学者としての未熟な存在であるという自覚がさらなる学びを自分にもたらし、自らを謙虚にしてくれる。その謙虚さが他者や世界に大きく開かれていくことを後押ししてくれるのだ。そのようなことを朝日を眺めながら考えていた。フローニンゲン:2024/3/8(金)07:00


12275. 日本の法相唯識教学の研究に向けた漢文学習     

   

今朝方は結構気温が低かったが、見事な朝空が早朝より広がっている。先ほど朝の瞑想実践をしているときにふと、今後の言語学習の方向性について軌道修正案が芽生えた。当初は、唯識思想の研究をしていくためにサンスクリット語やチベット語、さらには中国語も学んでいきたいと思っていたが、それよりも優先するべきは漢文の読解力を高めることだと思ったのである。それはほぼほぼ中国語の読解力を高めることに等しいかもしれないが、いずれにせよ、唯識思想に関するサンスクリット語やチベット語の文献よりも、奈良時代や平安時代にかけて残された漢文での文献を読みたいという思いが日増しに強くなる。すでにどの唯識論者のどの書物を読みたいかは決まっており、あとはそれが実際に入手できるかどうかが鍵を握る。理想としては実物を入手することだが、当時は印刷技術の未発達の事情を鑑みると、現物は文化遺産としての価値を持っているかもしれず、1人の研究者が易々と入手できるようなものではないかもしれない。そのようなことを鑑みて、複製本であったり、デジタルコピーの状態でもいいのでなんとか注目している文献を入手したいものである。ここから博士課程での研究を見据えて行いたいことは、兎にも角にもインド、チベット、中国で発達した唯識教学なのではなく、日本で独自に発達した法相唯識教学なのである。それを世界で研究できる人は限られている。言語的な障壁もあるし、研究機関の力の障壁などもある。諸々のご縁があって実現するのが日本の法相唯識教学の研究なのである。その研究をぜひ博士論文にまとめていきたいという思いが日増しに強くなる。


いよいよ来週にはハーバード神学大学院(HDS)からの結果が届くであろう。例年の様子だと月曜日のボストン時間の朝に一斉に結果が通知されるようだ。どのような結果であっても静かに冷静に受け止めたい。仮にご縁があれば、HDSで履修する必要のある文献読解のための言語コースはサンスクリット語、チベット語、中国語ではなく、まずは日本の漢文読解のコースを選択したい。先ほどコースを調べてみたところ、まさに自分の関心と合致する奈良時代と平安時代の漢文文献を読解するコースが提供されており、それに対しても何かご縁を感じる。漢文については中高で習って以来すっかりとその基本的な知識を忘れてしまっている可能性があり、埃を払って学術研究に足る漢文読解力を養うべく、初心に戻って漢文の学習をしたいと思う。そのような思いを新たにもたらしてくれたのが先ほどの朝の瞑想実践行だった。フローニンゲン:2024/3/8(金)08:43

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