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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12265-12269:2024年3月7日(木)



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タイトル一覧

12265. 「瑜伽行唯識心理学者」としての自覚/今朝方の夢

12266. 今朝方の夢の続き

12267. 日本独自に歴史的発展を遂げた法相唯識教学の研究に向けて

12268. 精神文化遺産・霊性遺産としての日本の法相唯識教学

12269. 虚妄分別心を超えて清浄な分別心へ


12265. 「瑜伽行唯識心理学者」としての自覚/今朝方の夢


時刻は午前4時を迎えた。今日の目覚めもすこぶる良く、今日1日の充実感を予感させる。今日は午後にジムに行き、パーソナルトレーニングを受けて来る予定だが、それまでの時間は全て唯識思想の研究に充てていきたい。「瑜伽行唯識心理学者」としての認識を持ってここからの探究に精進していきたい。自分自身がヨーガインストラクターであったこともあり、さらには心の成長を実現させるためには実践が伴わなければならないという思いから、やはり「瑜伽行」という言葉を大切にしたいと思う。唯識思想が持つ瑜伽行の側面と心理学の側面の双方と自分のこれまでの取り組みを考えたら、「瑜伽行唯識心理学者」と名乗るのもしっくりと来る。ここからは「サイケデリック学者」と合わせてそのような肩書をあえて自分に当てることによって探究と実践を進めていければと思う。


今朝方は夢の中で、オランダの空港で出国に少々手間取っている場面があった。自分の手元にはさほど荷物はなかったが、和菓子の饅頭のようなものを持っていて、出国手続きの前にそれを食べるかどうかを考えていた。EU圏内の移動であれば出国手続きは不要のため、どうやら自分の目的地はアメリカのようだった。出国を担当する係員の女性が意外とぶっきらぼうで驚いた。そこでは荷物検査と合わせて出国の手続きが行われることになっていて、荷物をベルトコンベアーに載せようとしたところ止められてしまった。その前にパスポートとボーディングパスを提示する必要があったらしい。それらを提示して目的地を伝えると、係員の女性は出国に際しての書類が足りないと述べた。何が足りないのかうまく聞き取ることができなかったので聞き返すと、それに対する回答もまた曖昧で良くわからなかった。彼女の態度は相変わらず横柄で、その態度によって自分の中で少し怒りのような感情が湧き上がって来た。そこで私はふと、「これは試されているな」と思った。唯識思想を学んでいる自分が果たしてその場で怒りを表出することなくその怒りと向き合えるかを試されていると思ったのである。そこで生じた怒りはどこからやって来たのかを内省することをしてみた。すると、怒りはスッと収まり、彼女の態度に対して何も思わなくなった。そこから私は、やはり他者と接している時こそ成長の大いなる機会があると思わされた。結局のところ、出国に必要な書類が足りないとのことだったので、もう一度自分で何の書類が足りないのか確認してみることにした。出国に際して特別な書類は本来必要ないので、彼女が述べていることを正しく理解していないのかを含めて冷静に考え直してみることにした。そのような場面があった。


この夢が示すように、日頃他者と関わる機会は成長実践の最良の場かと思う。他者とのやり取りにおいては自分の心が良くも悪くも必ず何かしらの形で動かされることになるであろうから、その動きを観察することを通じて内面を探求していくことは夢の中の自分を見習って常日頃から行いたいことである。しかもそれを唯識思想の枠組みを通じて行えばなお良しである。その実践を通じて、何より自分の心の成長がまた一歩前進するだろうし、唯識思想への理解も深まるだろう。フローニンゲン:2024/3/7(木)04:26


12266. 今朝方の夢の続き       


つい先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれらについても振り返っておきたい。今後は頭の中でもいいので、夢の振り返りの中で唯識思想の観点をできるだけ適用してみたいと思う。そうすれば、それは心の成長の実現に向けた最良のシャドーワークになるだろう。


夢の中で私は、実際に通っていた中学校の体育館を思わせるような場所にいた。そこで私は、自分の研究発表とそれに付随する口述試験を受けていた。晴れてその試験に通れば学位の取得ができることになっていた。壇上の壁にスクリーンを下ろし、そこに研究資料を掲載していった。スクリーンにパワーポイントの資料を投影するのではなく、古典的に大きな画用紙に必要な資料を掲載していくというスタイルをなぜか採用していた。掲載した資料の中で一番場所を取っていたのは、今回の自分の研究を通じて集めた大量の定量分析データである。資料としては膨大な定量データをまとめたものを掲載することにしたのだが、それが聴衆から大変ウケが良かった。聴衆の1人1人が壇上に上がって資料をまじまじと眺めていき、眺め終わったら反対側から壇上を降りるということがしばらく続いた。私は特に何か説明することはせず、聴取がそのデータから何を汲み取るのかを期待して静かにしていた。聴衆の中には小中高時代の友人も何人かいて、彼らもまた静かに黙々とデータを眺めていた。

それ以外に覚えている場面として、高校時代のサッカー部の小柄な友人がオランダでフィジカルトレーナー業を営んでいることを知って、その話で盛り上がった場面である。彼に話を聞いてみると、最初は日本人のクライアントとオランダ人のクライアントで要求して来るものが随分と異なることに戸惑ったとのことだった。特にオランダ人は飽きやすい性格を持っているというのが彼の見立てて、1つのメニューをする際にも複数の運動を絡める方が彼らを喜ばせることに気づいたらしい。自分も実はオランダでジムに通っていることもあり、そのあたりの事情はよくわかっていたので共感しながら彼の話を聞いていた。そこでふと、自分も1つのメニューをこなす際に複数の動きを取り入れる方が好きなので、オランダ人化しているかもしれないなという気づきが芽生えた。ジムでオランダ人たちの鍛え方の様子を見ていれば、むしろそこから影響を受けないことの方が不自然であると思ったのである。

その友人以外にも、高校時代の友人が現れた場面があった。彼とは畳の広い部屋で裸足になって、足元に置かれていたテニスボールぐらいの小さなボールを足で転がしてサッカーのパス交換のようなことをしていた。その中でお互いの近況について語り合い、彼は進学先の大学で日々楽しくやっているということを聞けて嬉しく思った。


これら3つの夢の中では、否定的な形で自分の心が動くことはなかった。心の状態は中立かあるいは肯定的な状態が続いていた。中立的な状態に対して自分の心を見つめていくことはなかなか難しいが、肯定的な状態の際の心のあり様については唯識思想を用いて十分に探求できるかと思う。総じて他者の何かしらの喜びを純粋に自分ごとのように喜ぶ自分がいたことは良い心の在り方かと思う。そこには「慢」や「嫉妬」の気持ちはなく、その意味で純粋な心が具現化されていたように思う。否定的な状態ばかりに注目するのでも、肯定的な状態ばかりに注目するのでもなく、中道的に両者を絶えず見つめていくことを心掛けていきたいと思う。フローニンゲン:2024/3/7(木)04:43


12267. 日本独自に歴史的発展を遂げた法相唯識教学の研究に向けて   


朝の身体実践と創作活動を終えたので、ここから本格的に今日の唯識思想研究に入っていこう。今日はまず、昨日から再読を始めたプリンストン大学出版から出版された仏教用語辞典の“The Princeton dictionary of Buddhism”の続きを見ていく。続きと言っても1000ページほどの項目数の中の900ページまで昨日の段階で再読が進んでいるので、残りも速やかに確認し終えることができるだろう。今回の再読では、初読の際にチェックを入れた唯識思想に関するキーワードのところだけを読み返していくことにしたのでとても効率良く項目を確認していくことができた。この辞典の便利なところは、サンスクリット語の表記と英語での解説だけではなく、チベット語、中国語、韓国語、日本語での発音表記がある点だ。特に中国語の漢字での表記と日本語での読み方がローマ字表記されているのは有り難い。今後英語における唯識思想の解説書を読む際には、そこに掲載されているサンスクリット語をこの辞典で調べてみることによって漢字と日本語での読み方について知識を得ることができるだろう。この辞典はここからの唯識思想研究、さらには仏教研究全般になくてはならないものになるはずだ。


現在日々唯識思想研究に着手しているのだが、欧米の研究者にせよ、日本の研究者にせよ、やはり唯識思想の古典と言われるものを中心に研究をしている姿が確認される。それは当たり前と言えば当たり前なのだが、特に日本の唯識研究者がなぜ自国の法相唯識教学の研究にあまり熱心ではないのかが気になるところである。興福寺を中心にした北寺系にせよ、元興寺を中心にした南寺系にせよ、日本には奈良時代から明治時代にかけて優れた唯識研究者がいて、彼らは多数の書物を残している。それらの書籍はあまり現存していないのだろうか。古書としての入手困難さからそれらの書物を研究する人が少ないのだろうか。大乗仏教瑜伽行唯識学派の唯識思想そのものは文化的な世界遺産だと言ってもいいほどであり、日本独自に発展した法相唯識教学もそれ足り得る。だが残念ながらその研究に着手している人が日本人ではほとんどないように思えるのは気のせいだろうか。もう少し調査をしてみる必要があるが、いずれにせよ自分が研究したいのは日本独自で発展して行った法相唯識教学の教えである。当然ながらその研究に着手する前には唯識思想の古典と呼ばれるものを全て読み込んでおく必要がある。今行っているのはまさにそれである。ここからしばらく古典の読み込みを進めていく中で、奈良時代から明治時代にかけて「この人だ」と思える唯識論者が残した文献をなんとか入手できないかを古書店を中心にして調べていこうと思う。今のところの自分の博士課程での研究テーマは日本独自に歴史的発展を遂げた法相唯識教学の教えであり、1人に絞るか数人の重要な論者の書物を比較検討するような研究に着手したい。フローニンゲン:2024/3/7(木)05:40


12268. 精神文化遺産・霊性遺産としての日本の法相唯識教学


唯識思想に関する研究に日々従事すれば従事するだけ、やはり日本の唯識法相教学は、日本が持つ精神文化遺産だという思いを強くする。それは日本が持つ霊性遺産でもある。奈良時代から明治時代にかけて残された文献をどれだけ入手できるのかわからないが、これから所属する大学の力を借りて文献を集めていき、研究の準備を着々と進めたいと思う。物理的な文献として入手できなくてもデジタル版として残っていればそれで十分であり、ここからは奈良時代から明治時代にかけて日本の唯識法相教学を発展させていくことに貢献したどの唯識論者に特に注目するかを考えていきたい。博士論文においては広さよりも深さを求められるであろうから、奈良時代から明治時代にかけて広く唯識論者の文献を調査していくのではなく、日本の唯識法相教学の発展においてとりわけ重要な役割を果たした唯識論者に焦点を当てた研究をしていきたい。


まさかこのような形で欧米での学術研究において日本語の文献を参照できるとは思っても見なかったことである。これまではどうしても西洋を出発にした心理学の分野に身を置いていたこともあり、自分の中で日本語を参照することに対する負い目があったことは間違いない。自分の研究分野においては日本語の文献はそもそも少ないのだが、それを差し引いても自分は完全に日本語の文献を捨象していたように思う。眼中になかったと言えばそれまでだが、眼中にないことに加えて、潜在意識的に日本語の文献を参照することに罪悪感のようなものを抱いていたように思う。その感覚の背後にはまだまだ向き合っていかなければならない心の深層的な問題がある。それについても唯識思想の観点から解きほぐしていきたい。今わかっているのは、やはりそこには「慢」の煩悩が関係しているように思う。やはりそこには他者との比較があり、日本語文化と欧米文化の比較による優劣関係をつけようとする自分の心の働きが見え隠れする。それではなぜそのような優劣関係をつけようとするのかについてもさらに探求をしていく必要があるわけだが、いずれにせよ、唯識思想の研究においては、特に日本の唯識法相教学を研究するとなれば、日本語の文献を参照することに一切の負い目を感じなくていいし、むしろ日本語を読解できる自分の能力に有り難さを感じる。このように、研究内容が変わればこうも自分の認識や態度が変わるのは興味深いことである。そこからもやはり全ては識が生み出す現象なのだということが見えて来る。


時刻は午前6時半を迎え、辺りがだいぶ明るくなってきた。小鳥たちも鳴き声を上げ始め、自分もまた午前中の唯識研究により一層励みたいという気持ちが静かに湧き上がって来る。フローニンゲン:2024/3/7(木)06:39


12269. 虚妄分別心を超えて清浄な分別心へ


時刻は午後7時を迎えた。今日もまた非常に充実した1日を早朝から今にかけて過ごしていた。もうただただそのことに感謝である。日々幸福感と至福さに包まれた日々は、ただただ感謝の念を捧げる日々を過ごしていることを意味する。感謝の気持ちのない充実感と幸福感はない。


今日は木曜日ということもあって、パーソナルトレーニングを通じてハードに身体を鍛えてきた。パーソナルトレーナーのエリーザの存在は大きく、やはり彼女がいてくれるおかげで月曜日の1人でのトレーニングでは行えないようなチャレンジングな追い込みができる。仮に今年の夏からアメリカでの生活を始めることになると、親友のメルヴィンと話ができる時間もそうだが、エリーザとのトレーニングもあと4ヶ月弱ほどしかない。彼女からは筋力トレーニングに関してどのようにすれば筋肉に効かせる形でトレーニングができるのかを、毎回少しずつフォームの改善に関する助言をもらう形で指導してもらった。そのことには深く感謝をしており、彼女から得た知識は一生ものになるだろう。アメリカでの生活が始まったらしばらくはパーソナルトレーニングを受ける予定はなく、できればジムが付随しているマンションで生活をしようと思っているため、1人でのトレーニングを始めることになるだろう。それを見越して、あと4ヶ月の間、できる限り多くのことを学びたい。


ジムの行き道と帰り道、そしてジムの中では、唯識思想を通じた内省実践に絶えず従事している自分がいた。端的には、自分の虚妄分別について内省をしていたのである。私たちは他者を見たら意識するとしないとにかかわらず、何かしらの価値判断をする。それは身長の高い低い、顔の美醜、痩せ型・肥満型の体型など枚挙にいとまがない。他者の外見のみならず、言動からの判断や職業に関しても自然と価値判断をする心が誰しもの中に必ずあるだろう。それらがまず他者に対する虚妄分別になる。そしてそこから自分と他者を比較して、優劣に関する心が芽生える。そのような微細な心の機微を見逃さず、他者に対して判断をし、自分との比較で優劣をつけようとする自分の自我を徹底的に観察していた。虚妄分別を完全に乗り越えて無分別智を獲得するまでの道のりは長いだろうが、この実践を外に出かけた際には必ず習慣化しよう。もちろん自宅でもそのような事態が生じたら常に観察と内省をするべきである。しかし一番実践機会が多いのは外に出かけて街中で他者の姿を見た時であり、他者と会話を交わした時である。今日1つだけ進歩が見られたのは、ジムのロッカールームで会話を交わした高齢の男性に対しては何の価値判断もせずに会話ができていたことである。確かにそこでは年齢に関する区別があったかもしれないが、それは善悪どちらでもない無記としての清浄な分別であった。分別と言ってもインテグラル理論にあるように、「前超の虚偽」に陥ることなく、虚妄分別を乗り越えていき、清浄な分別心を持てるようにこれから精進していこうと思った。ジムでのトレーニングは何も身体だけを鍛えているわけではなく、その行き帰りとジムでは他者観察を通じての自己観察の鍛錬ができるのであり、心の成長機会は日常の至る所にあるのだ。フローニンゲン:2024/3/7(木)19:19

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