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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12248-12252:2024年3月4日(月)



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タイトル一覧

12248. 今朝方の夢

12249. 唯識思想研究三昧/習慣と白鳥

12250. 正聞薫習・正読薫習/絶えず喜びと感謝の気持ちに包まれて

12251. 唯識思想の実践知の獲得に向けて

12252. 唯識思想のレンズを通じての地道な観察実践


12248. 今朝方の夢


時刻は午前3時を迎えた。今日からまた新たな週を迎えた。ハーバード神学大学院からの結果が届くのは今週ではなく、おそらく来週かと思う。人生の分岐点に立っている今、来週の便りを待つだけである。どちらの結果であっても自分の人生はここから大きく動き出していくに違いない。自分には唯識思想とサイケデリクスの研究があり、とりわけ前者のおかげで日々の充実感は増すばかりだ。増大していく充実感の波と化してここからの人生を前に進めていこう。


大学院の話で思い出したが、今朝方の夢の中で、アフリカ系アメリカ人の若い女性の大学院進学の相談に乗っていた場面があった。彼女は社会人2年目とのことで、今の仕事にやりがいを感じてはいるが、再び大学院に戻って勉強し直したいとのことだった。どのようなことを学びたいと思っているのか尋ねたところ、彼女は高校生ぐらいの頃に大地震を経験したらしく、その時の体験をもとに地震について研究したいとのことだった。彼女がすっと私に1枚の紙を渡したのでそれを眺めると、彼女が今考えている出願先リストだった。そのトップにフローニンゲン大学の宇宙物理学科の博士課程が挙げられていた。なかなか面白いプログラムに目をつけたなと思った私は、自分はフローニンゲン大学の卒業生でもあるので、フローニンゲン大学の博士課程に出願するに際しての助言をした。すると、近くにいた若い中国人男性が学生のような雰囲気をしていたので話しかけてみると、なんと彼はちょうど今フローニンゲン大学の理科系の博士課程に在籍しているとのことだった。彼は少し仏頂面をして愛想は良くなかったが、それでも私たちの話を聞いてくれ、彼女に対して彼なりの助言をしてくれた。2人の助言をもとに、彼女は笑顔を浮かべ、これから出願に向けて最大限の準備をしていくと嬉しそうに述べた。最後に、博士課程へ出願する際に提出しなければならないライティングサンプルについて見せてもらった。パッと見て、まだまだ改善の余地が多分にあるなと思った。そこでは学術的な論文を執筆できる力をアピールする必要があるのだが、彼女の文章はどちらかと言うと志望動機書を書くような文体や内容だったので、それについても指摘した。より学術的な文体と内容に改めていく必要がある点を伝えると、彼女はそれに対しても前向きに捉え、執筆し直すことを誓った。彼女の素直で前向きな姿勢があれば、今回の大学院出願もきっとうまくいくと思った。それを思って自分も嬉しくなった。そのような夢を見ていた。


この夢が示唆することは大変興味深いが、いずれにせよ自分も結果を待っている身であり、彼女のような準備プロセスを経てきたのだなとしみじみ思った。夢の中の自分は、彼女の出願がうまくいくことを心底願い、彼女が晴れて合格したことを想像するだけで自分も嬉しくなっていた。他人の幸せは自分の幸せなのである。それを感じられる自分が夢の中にもいたことは喜ばしいことである。フローニンゲン:2024/3/4(月)03:22


12249. 唯識思想研究三昧/習慣と白鳥


時計の針は午前3時半を迎えた。今の気温は3度と低いが、今日は10度近くまで気温が上がるようだ。今週1週間はどうやら少し寒さがぶり返し、最高気温は10度未満で、最低気温は3度前後の日が続く。季節もまた生き物のように動的な運動を繰り返している。自分という存在もまた固定不変のものではなく、動的に変化し続ける存在である。唯識かつ唯動の存在として自己と世界がある。


今日もまた唯識思想の研究に専心没頭しよう。興味深いのは、唯識思想に関する専門書を読んでいるときの自分は極度な集中状態にあり、それはさながら深い瞑想体験であるかのような点である。唯識思想の研究は自分にとって、学術研究を超えて、仏道修行の一環となっている。それは心の成長をもたらす実践なのである。高度な集中力を通じて、すなわち三昧の状態を通じて絶えず唯識思想の研究ができていることは本当に有り難い。もちろん自助努力によって極度な集中ができるように身体を整え、鍛え、食実践を整え、何も邪魔するものがない環境を整えるということを行っているのだが、それらの自助的要因に加えて、きっと縁起的な要因もあるだろう。自分の努力もまた様々な縁によってもたらされたものなのだ。そう思うと、自然と感謝の念が湧き上がってくるし、それがまた自分の研究を前に進めていく大きな力となる。自他と社会の幸福を実現したいという思いと感謝の念が重ね合わさるとき、人は無尽蔵の活動エネルギーに溢れ、大きな力を得るのだということを実感する。今日もその力の恩恵を授かる形で唯識思想の研究に打ち込んでいく。


良き習慣が今の自分を形成していることについてふと考えていた。習慣の「習」は「繰り返す」という意味がある。「習」という言葉を分析的に眺めてみると、白い羽を何度も羽ばたかせている鳥の姿が脳裏に浮かぶ。あるいは、羽を何度も羽ばたかせることを通じて清らかな白き存在になっていく鳥が連想される。私たち人間は元来善悪を超えた存在であり、仮に仏性という言葉を用いるのであれば、誰しもにそれが少なからず内在しているのではないかと思う。しかし、私たちは成長の過程における社会科を通じてどんどんと汚れた存在になっていく。我が形成され、我に執着してしまうようになるのだ。そんな私たちが利他的な行為を何度も繰り返していくことを通じて白く清らかな存在になっていくことができるということを「習」という言葉は暗に示しているように思える。自分も清らかな白鳥に向かって、今日も善い意図を持った善行を何か1つでも積んでいきたいものである。そうした1つの善行を積み重ねることを日々繰り返していくことが、自他と社会を幸せにできる白鳥に私たちを変えてくれるのだろう。フローニンゲン:2024/3/4(月)03:40


12250. 正聞薫習・正読薫習/絶えず喜びと感謝の気持ちに包まれて


時刻は午前4時半を迎えた。朝の諸々のルーティンを終えたので、今日もここから本格的に唯識思想の研究に取り掛かりたい。昨日からの続きとして、『唯識三十頌』をわかりやすく解説した英訳書の続きを読み進めていく。その書籍は理論的な事柄をわかりやすく解説しているだけではなく、絶えず実践者への眼差しがあり、実践に関する指示や洞察が豊富なため、読んで速やかに自分の心のさらなる成長に向けたアクションが行える。正しい仏法を聞くことは「正聞薫習」と呼ばれ、瑜伽行唯識学派の中ではとりわけ大切にされている実践だ。同様に、正しい仏法を読むということもまた、「正読薫習」と名付けることができるのではないだろうか。それは完全に自分の造語だが、自分は毎日正読薫習を心掛けている。当然凡夫の域を出ない自分のため、末那識による我執を通じて仏法を読んだり聞いたりしてしまいがちだが、それに自覚的になって常に謙虚な気持ちで仏法を読んだり聞いたりを繰り返していきたいと思う。今日の読書も聞法もまたそうした意識で行いたい。


インドに端を発する瑜伽行唯識学派の思想は、そこからチベットと中国に伝わったわけだが、両国では独自の翻訳事業を通じて独自の思想的発展を遂げていったと思われる。さらに、中国から日本に伝わった唯識思想もまた法相教学の体系として確立されていく過程の中で、日本の他の宗派の仏教徒たちとの論争を通じて思想が独自に磨かれていったはずである。そうなってきた時に、チベット、中国、日本における唯識思想のそれぞれの共通点と相違点が気になってきた。その点を今後どこかのタイミングで深く研究してみたいと思う。そのためにはやはりチベット語と中国語を通じた文献読解は不可欠であり、それらの言語の読解力を高めることも意欲的に行なっていきたい。唯識思想の研究を通じて、自分の世界観が刷新され、言語世界もまたどんどんと豊かなものに変貌し始めているのを感じる。これまでのように英語のみを通じて学術研究を行うのではなく、ここからは母国語の日本語も積極的に活用できることが本当に嬉しく、さらにはサンスクリット語、チベット語、中国語などの言語にも触れていくことができることに無上の喜びを感じる。そしてその喜びの感情は常に感謝の気持ちに転化される。自分は絶えずこの喜びと感謝の気持ちに包まれた形でこれからも毎日を生きていく。フローニンゲン:2024/3/4(月)04:42


12251. 唯識思想の実践知の獲得に向けて


時刻は午前10時半を迎えた。今日もまた午前2時過ぎに起床したこともあり、午前中の探究活動はすこぶる捗っている。唯識思想に関して英語・日本語の書籍をそれぞれ1冊ずつ再読し終えた。今、3冊目の再読に取り掛かっている。昨日注文した30冊ほどの唯識研究書が届くまでに、できる限り手元にある書籍の再読を進めていきたいと思う。ここから春と夏にかけては、新しく届く書籍とすでに手元にある書籍をひたすらに読み返していくことをしたい。


唯識思想について学術論文を執筆するにせよ、実践に適用するにせよ、まずは唯識思想の用語に慣れ親しむ必要がある。唯識思想の用語をまずは文脈の中で慣れ親しみ、それを意識的に覚えていくようにする。英文を読む際にも、英文を書く際にも単語を習得することは最も重要なことであり、その時にも文脈の中で単語を覚えていくことが大切であることを肝に銘じたいと思う。文脈の中で単語に触れ、文脈の中で単語を活用しようとすることによって、その言葉には血が通い、自分の中に血肉化されていくのである。唯識思想の用語体系を習得する時にも同様のことが重要になる。それに加えて、唯識思想は兎にも角にも心の成長を促す実践思想であるから、ある特定の用語を自分のこれまでの体験解釈に活用してみたり、自分の体験と紐付けながら内省ワークを行う形で用語に触れていくと記憶の定着も速やかになるだろう。それを毎日継続していけば、語彙の体系が自然と構築されていき、語彙を自由自在に活用できるようになってくるだろう。それがまさに実践知と呼ぶにふさわしい知識である。


今日は午後にジムに行って筋力トレーニングに励む。木曜日のパーソナルトレーニングを見越して、あまり無理をせず、それでいてトレーニングの最後の有酸素運動ではしっかりと気持ち良い汗を流してこようと思う。ジムでのトレーニングの中で唯識思想を活用するとなればどのような形が考えられるだろうか。それについて今から少し考えを巡らせてみて、何か名案が思いついたらそれを早速試してみよう。フローニンゲン:2024/3/4(月)10:50


12252. 唯識思想のレンズを通じての地道な観察実践      


時刻は午後5時を迎えた。今日もジムで清々しい汗を流してきた。ジムの受付でパーソナルトレーナーのエリーザと立ち話をしている時に、彼女が今度ロッテルダムで出場する大会についての話題となった。それは4月上旬に行われるものらしく、今その大会に向けて彼女も体を鍛え上げている最中のようだ。そのためのトレーニングメニューの中で面白いものを見つけたら、その都度木曜日のパーソナルトレーニングに組み込んでもらっている。なのでまた明々後日のパーソナルトレーニングの日のメニューが楽しみである。


ジムへの行き帰りは、唯識思想のレンズを通じて外界を観察するのにうってつけの機会になっている。確かに事物はこの世界に存在するが、その存在する事物も永遠不変のものでは決してなく、絶えず変化しているものである。さらには、それを自分が認識した瞬間に、それはあくまでも自分の八織を通じた表象現象に過ぎないことがどこからどう観察しても疑いようのない形で理解される。その観察がとても面白く、視界に入るものだけではなく、足元の地面を踏み締める触覚や漂ってくる香りに対する嗅覚などを通じてありとあらゆる取り巻く事物を観察しても、それらは全て自分の八織を通じて生まれたものであることがわかってくる。この観察はとても地味なものなのだが、それはある意味で小さなサイケデリック的体験でもある。サイケデリクスの摂取の際にもたらされる真理の知覚のミクロなものだと理解してもあながち間違いではなく、サイケデリクスを摂取する環境にいない場合には、唯識思想の発想の枠組みに基づく観察を徹底させていくことが推奨される。ここから自分も隔週で行っているシロシビン・セッションがない日には絶えずこうした観察を続けていきたい。これは自宅でももちろんできるのだが、自宅にいる時にはどうしても唯識思想に関する学術研究が優先され、実践としては瞑想実践が優先されるので、事象を観察することはとりわけ外に出掛けた時がうってつけである。その時に自分の五感と意識に把捉される全ての対象が八つの識が生み出したものに他ならないことを観察することを習慣づけていこう。この習慣もまた薫習されればされるだけ、より悟りに近づいていけるだろう。フローニンゲン:2024/3/4(月)17:14


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