【エディンバラ大学からの便り】19495-19500:2026年11月6日(金)

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タイトル一覧
19495 | 今日の計画 |
19496 | 今朝方の夢 |
19497 | 今朝方の夢の振り返り |
19498 | 唯識思想はなぜ大悲の法門なのか |
19499 | 教義の説明から慈悲を生きる責任へ――良遍が描く法相宗の実践 |
19500 | 見いだした固有の関係性を響かせること |
19495. 今日の計画
時刻は午前6時を迎えた。今の気温は8度あり、比較的暖かい。来週からいよいよ最低気温が5度を超える日がなくなってくるようだ。秋の深まりを見せるエディンバラがゆっくりと冬に向かっているのを感じる。昨日、無事に論文の投稿を終えたのだが、今日はまたジェイ・ガーフィールド博士の記念論文集に投稿する予定の論文の作業を進めていく。こちらはJournal of Dharmaの論文ほど難航しておらず、順調に論文の執筆が進んでいる。今日は一旦ドラフトを作り、それをここからじっくりレビューできるようにしておきたい。実際には、2ヶ月後の1/5に論文の概要だけを提出すればよく、概要が審査に通ったら、論文を投稿するフェーズに進める。なので今は随分と前のめりに作業を進めている形である。論文のドラフト作りと合わせて、昨日取り掛かることのできなかった新しい書籍の企画書の立案を今日は進めていきたい。すでにいくつかアイデアがあるので、編集者の方が作ってくださった叩き台の企画書にそのアイデアを組み合わせると、きっと良い企画書ができるのではないかと期待する。午後にはDIAMOND ハーバード・ビジネス・レビューさんに3つの投稿記事を送る。その際に、最後のレビューをし、誤字脱字がないかを確認しておきたい。気がつけば、記事は42本目となり、長期連載の過程の中でこちらも色々と学びがあり、大変有り難い機会をいただいていると実感する。とりわけ直近の執筆記事では、オットー・ラスキー博士の認知的発達理論を扱っており、久しぶりにこの理論を扱ってみると、いろんな発見があるものだと驚かされている。今回の新しい書籍にもなんとかこの理論を組み入れてみたいと思う。エディンバラ:2026/11/6(金)06:17
19496. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、中学校時代にお世話になっていた数学の先生が教室の教壇に立っており、自分は教室の右列の一番後ろの席に座っていた。授業は終わりに差し掛かっていて、授業の最後に先生が、自分の名前を呼び、放課後の数学の問題の解説をよろしくと述べた。先生は私の数学力を高く評価してくださっていて、大きな期待を寄せてくれていたのである。自分はそれが嬉しく、また他人に何かを伝えたり、教えたりすることが好きだったので、喜んで放課後の解説授業を引き受けることにした。しかし先生が最後にポロリと、他の教室に自分よりも先日の模試で数学の点数が高かった人がいたことを知った時、少し複雑な気持ちになった。まさか自分よりも高得点の人がこの学校にいるとは思っておらず、自分が一番でないことに少し失望感があった。とは言え、ここからまた数学の勉強を楽しみながら継続していれば、再び自分が一番となるだろうという確信があった。
次に覚えているのは、地上400mのところから地上を眺めている場面である。そこでは体が自然と宙に浮いていて、著名な経営者の方を含めて、数人の日本人がいた。彼らと楽しく話しながら、その眺めを堪能していると、そこで豪勢な料理が振る舞われた。周りの人たちは地ビールを飲みながら楽しそうにしていたので、それを見て自分も久しぶりにアルコールを解禁し、ビールを飲んでみようかと思った。しかし、アルコールは少しでも脳の機能を狂わせ、神経細胞にダメージを与えるので、アルコールはやはり控えることにした。そこから私は、地上400mではなく、地上400kmのもっとずっと高度な高さを飛んでみる提案をみんなにしてみることにした。エディンバラ:2026/11/6(金)06:30
19497. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分が他者から評価される存在から、自らの価値基準によって世界を探究する存在へと移行していく、精神的な成長の過程を象徴しているのかもしれない。興味深いのは、前半では数学の成績という一次元の尺度によって自分の位置が測られていたのに対し、後半では高度という空間的な尺度を自在に変化させている点である。夢全体が、一つの物差しで自分を測る世界から、物差しそのものを選び直す世界への旅として構成されているように思われる。中学校の教室は、自分の知的能力が形成された原点を象徴しているのだろう。教室の右列の最後尾という位置は、集団の中心から少し距離を置き、全体を見渡す観察者としての自分の姿を表しているのかもしれない。しかし授業の終わりに先生から名前を呼ばれた瞬間、自分は知識を受け取る者から、知識を他者へ伝える者へと変化する。これは、学習者から教育者、さらには研究者へと成長する過程の縮図とも考えられる。先生が自分に託したのは、最高得点を獲得する能力ではなく、理解したものを他者の理解へと変換する能力なのであろう。ところが、別の教室に自分より高得点の生徒がいると知らされることで、この喜びに小さな亀裂が生じる。ここには、知的探究そのものを楽しむ自分と、他者より優れていたいと願う自分との微妙な緊張関係が現れているのかもしれない。ただし、この亀裂は自信を崩壊させるものではない。自分は再び学習を楽しむことで頂点に到達できると確信している。つまり、自分の自信は現在の順位だけではなく、継続的に成長できるという感覚にも根差しているのであろう。後半で舞台が地上400mの空中へ移ることは、この緊張関係に対する夢の独創的な応答と考えられる。教室では自分の位置が成績という垂直的な序列によって決定されていたが、空中では自分自身が高度を選択できるのである。しかも身体は努力せずとも自然に浮いている。これは、知的成長が競争や努力だけによって達成されるのではなく、探究そのものを楽しむことで自然に生じる可能性を示唆しているのかもしれない。著名な経営者たちとの交流や豪勢な料理は、社会的成功や承認がもたらす豊かさの象徴であろう。しかし、自分はそこで供されるビールを飲まず、意識の明晰さを保つことを選択する。これは快楽の否定というよりも、外側から与えられる報酬より、自分の内側にある認識能力を大切にする姿勢の表れかもしれない。豪華な食卓を前にしても、自分が本当に味わいたいのは料理ではなく、世界をより深く理解する喜びなのである。最後に地上400kmまで飛ぼうと提案する場面は、夢全体の核心であろう。400mから400kmへの飛躍は、単なる高度の上昇ではなく、世界を眺める座標系そのものの転換を象徴しているのかもしれない。地上の競争では誰が一番高い位置にいるかが重要であった。しかし宇宙に近づけば、それまで巨大に見えていた序列も、地表に刻まれた小さな線にすぎなくなる。自分は他者より高く登ることを望みながらも、最終的には高さを競うこと自体を超えようとしているのではないだろうか。数学の先生から託された一本のチョークが、やがて宇宙の広がりを測る羅針盤へと変わる。今回の夢は、自分にとって真の知的成熟とは、既存の世界で一番になることだけではなく、その世界を包み込むほど大きな視野を獲得することなのだと、静かに示唆しているのかもしれない。エディンバラ:2026/11/6(金)06:41
19498. 唯識思想はなぜ大悲の法門なのか
昨日、鎌倉時代の法相僧・良遍の『中道事』を扱った英語論文を『Japanese Religions』に投稿した。論文の題名は『Consciousness-Only as Great Compassion in the Chūdōji: Doctrinal Gates and the Norms of Hossō Affiliation』である。わずか2ページほどの古典を出発点に、唯識という精緻な認識論が、なぜ大悲の法門とも呼ばれ得るのかを考察した。『中道事』は冒頭から、唯識の教えを大悲法門と結びつける。しかし、教義が慈悲に関係すると述べるだけでは、その結びつきがいかに成立するかを説明したことにはならない。そこで今回は、文中の議論がどのような順序で展開し、いかなる根拠によって最終的な結論へ至るのかを一語一語確かめた。良遍は、存在するものを存在すると知り、存在しないものを存在しないと知ることから議論を始める。ここで存在するとされるのは、聖智が証する依他起性と円成実性であり、存在しないとされるのは、凡夫が実体化して捉えた遍計所執性である。重要なのは、存在を肯定しすぎる増益と、成立しているものまで否定する損減をともに退けることである。空と有は互いを打ち消す二枚の札ではなく、認識の偏りを正すために使い分けられる道具なのである。続いて良遍は、清辨が真性を空として語り、護法が有として語ると述べ、どちらにも内証と利益があると認める。両者を同一化するのではなく、異なる入口から同じく言語を超えた真実に向かう可能性を認めている。ただし、それによって両者の教理上の相違が消えたとまで主張することはできない。本論文で特に慎重に検討したのが、観空は無分別智を引き起こし、許有は猛利な悲願を起こすという箇所である。この表現をそのまま読めば、空が智慧を、有が慈悲を生むという鮮やかな対比が立ち現れる。しかし、それを普遍的な因果法則と考えるのは危うい。『成唯識論』には、菩提と有情を実有と執することが悲願の発起につながるという類似の議論があるものの、そこではまだ無相大悲を十分に実現していない菩薩という条件が付されている。窺基の注釈では、こうした執着による説明は第八地以降には当てはまらないとされる。さらに、『中道事』の許は『成唯識論』の執と同義とは限らず、有も実有と等しくない。何を存在すると認めるのかも明示されていない。『奥理抄』には、慈悲の対象は有であっても、慈悲の発生は空に依存するという表現さえある。こうした比較によって浮かんだのは、慈悲は有だけから機械的に生まれるのではなく、空を理解する智慧とも深く結びついているということである。古典を比較するとは、似た言葉を結びつけるだけでなく、似ているからこそ見落としやすい差異を守る作業でもあると実感した。エディンバラ:2026/11/6(金)07:19
19499. 教義の説明から慈悲を生きる責任へ――良遍が描く法相宗の実践
論文の後半では、『中道事』の論旨が微妙に転調するところを追った。清辨の入理門と護法の法相門という二つの教義的な入口を説明した後、良遍は我等はすでに護法の門葉に入ったと語り出す。ここで文章の主語は、客観的な学説の解説から、ある伝統に身を置く者の自己理解へと移る。まるで地図の説明を終えた旅人が、今度は自分がどの道を歩き、どのように振る舞うべきかを問い始めるようである。そこから、もし成仏できる性質を備えるなら、この門によって解脱したい、菩薩の位に至るなら、慈悲が勝る菩薩になりたいという願いが現れる。いずれも条件付きの志向であり、すでに悟りを得たという宣言ではない。良遍はさらに、弥勒を法相宗の大祖として、春日大神をその守護者として持ち出す。弥勒の不食肉の誓いは慈悲の実践を具体的に示し、春日への言及は伝統の保護という別種の権威を呼び込む。両者は同一の存在ではなく、異なる役割から慈悲を支えている。こうした議論の後に現れるのが、この宗に入る者は、ただ慈悲を本とすべきであるという一節である。この言葉が特に重要なのは、慈悲を学説上の結論としてではなく、法相宗に属する人間に求められる実践上の規範として示しているからである。しかも、その実践は途方もない偉業を必要としない。一口の施し、一瞬の哀れみから始め、力量と状況に応じて育てていけばよい。細い水脈が長い時間をかけて川になるように、慈悲は日常の小さな行為を通じて育まれるのである。最後に良遍は、菩提心とは、ただ慈悲であると述べる。続いて『華厳経』の金剛の比喩を引用し、菩提心の宝が大悲から生まれることを示す。また、注釈書の言葉を通じて、菩提が慈悲によって成立することを説く。しかし、ここでも引用元の主張と良遍自身の解釈を混同してはならない。菩提心が大悲から生じることと、菩提心が慈悲そのものであることは同じ命題ではないし、菩提が慈悲によって成立することも、唯識と大悲法門の同一性を直ちに証明するわけではない。善財童子が弥勒から受ける大悲法門への言及を経て、良遍はついに大悲法門は唯識であると結ぶ。この最終的な同定は『華厳経』からの直接引用ではなく、『中道事』が諸々の権威を組み合わせて導き出す解釈である。先行研究の楠淳證や北畠典生もこの結びつきをすでに論じている。今回の仕事は、それを新発見と称することではなく、教義の区別、宗派への帰属、日常の実践、経論への依拠がどのようにつながるかを、根拠の届く範囲で描き直すことにあった。提出を終えて強く感じるのは、唯識が単に世界や心の仕組みを説明する学問ではなく、他者の苦しみにどう応答するかを問う営みでもあり得るということである。そして研究者としての自分にとっても、先行研究への敬意と、原典の沈黙を勝手に埋めない慎重さこそが、古典に向き合う際の大切な倫理なのだと思った。エディンバラ:2026/11/6(金)09:33
19500. 見いだした固有の関係性を響かせること
今朝、ブランダン・エイカー氏から届いたメッセージを読みながら、即興演奏における創造性の本質について考えを深めた。彼が最初のギターレッスンで教師から教わったという「初心者は模倣し、プロは盗む」という言葉は、一見すると挑発的である。しかし、この言葉には、音楽を再現することと、音楽を自ら生み出すことの間に存在する重要な違いが込められているように思われた。楽譜に書かれた作品を美しく演奏できることと、楽譜を離れて自由に音楽を奏でられることは、必ずしも同じ能力ではない。前者では、すでに存在する音楽の構造を理解し、それを忠実かつ表現豊かに再現する力が求められる。一方、後者では、既知の音楽的素材を組み替え、新しい響きを生み出す判断力が必要となる。エイカー氏が指摘するように、即興演奏が難しい理由は、創造性が欠けているからではなく、何もないところから独創的な音楽を生み出さなければならないと思い込んでしまうことにあるのだろう。この指摘は、現在取り組んでいるフレット1から5までの即興演奏の練習と深く結びついている。限られた音域の中でも、既知の旋律のリズムを変えたり、音の進行を反転させたり、短い楽句を繰り返しながら少しずつ変化させたりすることで、無数の音楽的可能性が開かれる。重要なのは、最初から未知の音楽を探し求めることではなく、すでに親しんでいる素材の中に、まだ実現されていない可能性を発見することなのである。ここで、仏教の縁起の思想との興味深い接点が浮かび上がる。音楽的創造とは、何ものにも依存しない独立した主体が、無から作品を生み出す行為ではない。過去に聴いた音楽、学んだ和声、身体に染み込んだ運指、そして演奏している瞬間の感情や身体感覚など、無数の条件が交わるところに新しい旋律が生まれるのである。創造性とは、因縁から独立した能力ではなく、因縁を新しい関係へと組み替える働きなのかもしれない。さらに考えてみると、エイカー氏の言う「盗む」とは、単なる模倣の延長ではなく、既存の音楽を自分の身体と感性の中で消化し、変容させることを意味しているのだろう。これは、仏教思想を学ぶ際に、先人の議論を正確に理解するだけでなく、それらを新たな問いの中に位置づけ、自分自身の哲学的考察へと発展させる営みにも似ている。研究も音楽も、伝統から完全に切り離された独創性を目指すのではなく、伝統との創造的な対話を通じて新しい意味を生み出す営みなのである。特に心に残ったのは、原曲に似ていることを創造性の失敗と考える必要はないという助言である。最初の即興演奏が既知の楽曲に似ていても、それは創造性が不足している証拠ではなく、創造の出発点が存在する証拠なのである。そこから一つの音、一つのリズム、一つの和声を変えていけばよい。小さな変化の蓄積が、やがて自分にしか奏でられない音楽を育てていくのだろう。今後、12フレットまで自在に使えるようになれば、こうした変容の可能性はさらに広がるはずである。しかし、その豊かさを支えるのは、音域の拡大そのものではなく、既知の素材に新しい生命を吹き込む能力であろう。創造性とは、誰も聴いたことのない音を探すことではなく、誰もが知っている音の中に、自分だけが見いだした関係性を響かせることなのだと思う。エディンバラ:2026/11/6(金)10:17
Today’s Letter
I’m simply borrowing everything from the world—my clothes, my apartment, my money, even my talents. Nothing is truly mine; everything is temporarily entrusted to me. Edinburgh, 11/6/2026


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