【エディンバラ大学からの便り】19490-19494:2026年11月5日(木)

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タイトル一覧
19490 | 万事良き流れの中で |
19491 | 今朝方の夢 |
19492 | 今朝方の夢の振り返り |
19493 | 5フレットの中の音楽的小宇宙・大宇宙 |
19494 | Journal of Dharmaの論文執筆に向けて |
19490. 万事良き流れの中で
時刻は午前6時を迎えた。今日は午前5時に起床し、すぐさまアパートメントのジムに移動して、Sprint8のトレーニングを行った。今日も先客はいなかったが、トレーニングの途中で1人の若い男性の居住者がやって来て、筋トレを始めた。HIITプログラムのレベル17はもう完全に安定してこなすことができるようになっているので、もう少ししたら次のレベルに移行しようと思う。こうして少しずつ肉体の変化を楽しみながら、自分の体がさらによりよく鍛えられていくことを味わいたい。先日の日記で書き記していたように、近隣のイベント施設では、時折夜や深夜に及ぶ形で音楽やダンスイベントが行われる。その騒音に悩まされることがこの2ヶ月何度かあり、ようやくその解決策として、アパートメントのより静かな棟に引っ越すことにした。2年前に建てられたばかりのこのアパートメントの設備の充実さや綺麗さには満足しており、また周りにスーパー、美容室、歯科医などの生活で必要な店も近くにあるため、このアパートメント自体から引っ越すことは考えておらず、部屋を変えることができて何よりである。しかし、イベント施設の騒音の問題自体は解決したわけではないので、次の居住者のことを考えて、管理会社には問題解決に乗り出して欲しいと思う。その点はすでに管理会社に伝えており、今動き始めているようだ。部屋を変える日は、来月の初旬で、ちょうど大学院の授業も終わっているタイミングなので大変有り難い。クリスマスや年越しのイベントではまたきっと多大な騒音が出ると予想されるため、そのタイミングで部屋を変えることができそうで安堵している。さて、今日は引き続き仏教研究に専心したい。明日か土日に投稿しようと思っている査読付き論文の原稿を最終レビューし、完成稿として提出した。それに合わせて、別のジャーナルに投稿予定の論文の計画案も進めていく。さらに余裕があれば、新たな書籍の企画案について、編集者の方からいただいた叩き台の案を成人発達理論の観点から肉付けしたいと思う。こうして日々の諸々の事柄が万事良き方向に進んでいることを嬉しく思う。エディンバラ:2026/11/5(木)06:15
19491. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、ジャーナルに投稿する査読付き論文の執筆を複数進めていた。それらのいずれのおいても、自分は古典中国語の原典をいくつか参照しており、それを知った周りの研究者たちは驚いていた。欧米人の彼らからしてみれば、古典中国語はサンスクリット語と同じように難解な言語なのだろう。下手をすると、サンスクリット語よりも難解に感じられるのかもしれない。いずれにせよ、自分は古典中国語と日本語の読解能力という言語能力を活かして研究を次から次に進めており、周りを驚嘆させる生産性で論文の執筆を進めていた。そんな自分はフロー状態であり、そこに絵も言わぬ至福さを感じており、自分の研究が間接的・直接的に誰かの役に立てているという実感もまた至福さを増大させていた。
次に覚えているのは、自分の英語のスピーキングの能力が次元変化を起こした場面である。ここ数年は頭打ち感があったのだが、それが今、英語にどっぷり浸かる生活を送ることにしたことが功を奏して、相転移を起こしたようだった。周りの欧米人の友人たちも、自分の英語の流暢さのみならず、そこで語れる内容に驚いているようだった。学術的な用語や表現が速やかかつとても自然に口から出てきて、無意識の領域で英語の発話を運搬できる力が格段に高まっているのを自分も実感した。このことに甘んじず、引き続き英語空間にどっぷり浸かることを通じて、英語の4技能の全てをまだまだ磨いていこうと思った。そうした思いを持ってメールボックスを開けると、先日応募した仏教学会に採択されたという嬉しい知らせが飛び込んできた。日々の精進は、いつか必ず実るものなのだろう。エディンバラ:2026/11/5(木)06:29
19492. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分が長年にわたって蓄積してきた知識、技能、経験が、互いに結びつきながら新たな創造性を生み出し始める過程を象徴しているのかもしれない。夢全体を貫いているのは、努力によって能力を獲得する段階から、獲得した能力が自律的に働き、自然に成果を生み出す段階への移行であるように思われる。冒頭で、自分が古典中国語の原典を自在に参照しながら複数の学術論文を執筆している場面は、異なる知的伝統を結びつける架橋者としての自己像を表しているのではないだろうか。古典中国語と日本語は、単なる研究上の道具ではなく、過去の思想家たちとの対話を可能にする二つの鍵である。周囲の研究者たちの驚きは、他者からの承認欲求というよりも、自分が長年培ってきた能力の独自性を再発見する心の働きを映し出しているのかもしれない。西洋の学術空間に身を置くことで、それまで当たり前だと思っていた能力が、別の知的環境では希少な資源として立ち現れるのである。複数の論文を次々に執筆する場面は、単なる生産性への憧れではなく、知的活動そのものが喜びとなる境地を象徴しているように思われる。ここで重要なのは、成果を生み出すことと至福を感じることが分離していない点である。自分にとって研究とは、外部から報酬を得るための労働ではなく、泉から水が湧き出すように、内側から自然に生じる営みへと変化しつつあるのかもしれない。さらに、その研究が他者の役に立つという実感は、知的探究と利他的実践が一つの流れに合流することを暗示しているようである。続く英語能力の相転移は、夢の構造上、特に重要な転換点である。古典中国語と日本語が過去の叡智へ向かう通路であるならば、英語はその叡智を現代世界へ届けるための通路である。前半では原典を読み解く力が、後半では理解した内容を他者へ伝える力が描かれている。つまり、自分の内側に蓄積された知識が、言語という水路を通って外の世界へ流れ出す過程が表現されているのではないだろうか。英語の発話が無意識の領域で自然に運ばれるという感覚も興味深い。これは、意識的な努力の反復が、やがて努力を意識しない熟達へと転化する可能性を象徴しているように思われる。水を少しずつ温めても変化が見えない時期が続くが、ある閾値を超えると状態そのものが変わる。自分の英語能力の飛躍は、まさにそのような非線形的発達の比喩なのかもしれない。最後に届く学会採択の知らせは、夢全体を締めくくる象徴的な贈り物である。ただし、それは努力すれば必ず成功するという予言ではないだろう。むしろ、自分の内側で成熟した能力が、外部の学術共同体との接点を獲得することへの希望を表しているように思われる。この夢は、研究と言語習得という二つの営みが、実は一つの大きな成長過程を形成していることを示唆しているのかもしれない。自分はもはや到達点だけを追い求めているのではなく、学び、創造し、他者に還元する循環そのものに幸福を見いだし始めているのである。エディンバラ:2026/11/5(木)06:41
19493. 5フレットの中の音楽的小宇宙・大宇宙
昨夜、クラシックギターの即興演奏をしながら、フレット1から5までの限られた空間の中に、驚くほど豊かな音楽宇宙が広がっていることを感じた。たった5つのフレットである。しかし、そこに存在する音の組み合わせ、旋律の動き、和声の響き、リズムの変化を探究していると、その小さな空間が決して小さくないことに気づかされる。むしろ、そこには一生をかけても探索し尽くせないほどの可能性が眠っているのではないかと思った。考えてみれば、音楽の豊かさは、使用できる音の数によって決まるわけではない。同じ音であっても、その前後にどのような音が置かれるか、どれほどの長さで響くか、どのような強弱や音色で奏でられるかによって、意味が大きく変化する。ある音は旋律の出発点となり、別の場面では緊張を生み出し、さらに別の場面では安らかな帰着点となる。一つの音が無数の関係性の中で異なる表情を見せるのである。このことは、仏教の縁起の思想にも通じるように思われた。音はそれ自体で固定した音楽的意味を持つのではなく、他の音との関係の中で、その都度新しい意味を獲得する。フレット1から5までの空間は、独立した音の集合ではなく、互いに影響し合いながら絶えず変化する関係性の網の目なのである。そこに小宇宙を見いだしたと思ったが、実際には大宇宙と呼んでもよいのかもしれない。宇宙の広大さは物理的な距離だけではなく、関係性が生み出す可能性の深さによっても測られるからである。さらに興味深いのは、制約が創造性を妨げるどころか、むしろ創造性を育てるという逆説である。使用するフレットを限定することで、次々と新しい場所へ移動する誘惑から離れ、一つひとつの音の響きに深く耳を澄ませることができる。限られた土地を何年も耕す農夫が、その土壌のわずかな変化から季節の移ろいを感じ取るように、自分もまた、狭い指板の中に無限の変化を発見し始めているのであろう。では、将来12フレットまで自在に使えるようになったとき、自分の音楽宇宙はどのように変わるのだろうか。単純に探索できる領域が広がるだけではないはずである。音域の拡張に伴って、旋律が描く曲線はさらに多様になり、異なるポジションで同じ音を奏でることによる音色の違いや、低音域と高音域の対話も、より自由に構成できるようになるだろう。しかし、最も大きな変化は、音の数が増えることではなく、音楽的な関係性を捉える自分の意識が変容することにあるのではないか。現在は一つの庭園を丹念に歩きながら、草花の違いを発見している段階である。12フレットまで使えるようになれば、いくつもの庭園を結ぶ道が現れ、やがてそれらが一つの広大な風景として立ち上がってくるのだろう。それでも、最初の5フレットの宇宙が色あせることはないはずである。むしろ、より広い世界を知ることで、その小さな空間の奥深さがいっそう鮮明になるのではないかと思う。音楽の成熟とは、より多くの音を支配することではなく、限られた音からも無尽蔵の表現を生み出せる自由を獲得することなのだろう。いつの日か、12フレットまでの音楽宇宙を自在に旅しながら、再び最初の5フレットに戻ってくる自分の姿を想像する。そのとき、かつて狭いと思っていた場所が、宇宙全体へと通じる入口であったことを、今以上に深く実感するのかもしれない。音楽の無限性とは、遠くへ進み続けることだけでなく、同じ場所に立ちながら、世界を無限に深く聴き取れるようになることでもあるのだと思う。エディンバラ:2026/11/5(木)07:26
19494. Journal of Dharmaの論文執筆に向けて
ここしばらく、2027年1月5日を投稿期限とするJournal of Dharmaの論文執筆に向けて、良遍の思想と格闘する日々が続いている。NCCのJapanese Religionsに向けた『中道事』の研究では、唯識を大悲法門と捉える良遍の思想をどのように解釈するかという中心的な問いが比較的早く定まった。しかし、今回はなかなか本文の執筆に進めず、研究の方向性を何度も見直すことになった。当初は『眞心要決』を中心に、本来的に覚りが備わっているのであれば、なぜ仏道修行が必要なのかという問題を検討していた。そこから、非執着的な認識と修行の関係、二諦の位置づけ、唯識と禅の会通など、さまざまな哲学的問題を掘り下げた。原典を精読するたびに興味深い論点が浮かび上がったが、古典注釈や日本語の先行研究を照合すると、重要な部分がすでに説明されていることが判明した。研究が前進するほど、独自性を主張することの難しさを思い知らされたのである。そこで『眞心要決』全体を改めて調査し、108の問答を整理したうえで、これまで注目してこなかった哲学的問題を探した。さらに『唯識観用意』『唯識観事』との比較にも踏み込んだ。しかし、ここでも独立した5,000~6,000語の論文を支えるだけの新しい主張を確立するには至らなかった。何度も研究案が棄却される経験はもどかしかったが、今振り返ると、何が原典に書かれているのか、何が先行研究によって明らかにされているのか、そして自分は何を新たに論じたいのかを、厳密に区別する訓練になっていたように思う。転機となったのは、『眞心要決』に固執する必要はないと考えたことである。良遍には浄土教に関する著作もあり、そこには唯識思想の会通とは異なる哲学的問題が潜んでいるかもしれない。そこで『念佛往生決心記』と『善導大意』を中心に、宗教的な知識と証言の正当化、念仏の因果的効力と他力の関係という二つの方向から調査を始めた。その結果、特に興味深い問題が見つかった。『念佛往生決心記』の562ページでは、良遍は他者の臨終の様子や伝聞から往生の成否を判断することの難しさを指摘している。ところが564~565ページでは、往生を支持する先例を再び証拠として採用する。しかも、この一見矛盾する態度については、問者自身が疑問を呈しているのである。良遍はなぜ、ある証言からの判断を留保しながら、別の証言を受け入れることができるのか。ここには証拠の信頼性、教理的な正当化、反証の扱いをめぐる明確な哲学的問題がある。もっとも、この論点の独自性はまだ確定していない。明山安雄の1974年の論文が、すでに同じ問題を論じている可能性があるからである。現在はその論文を図書館間相互貸借で取り寄せる手続きを進めており、入手後に精密な比較を行う予定である。今回の経験から、もう一つ重要なことに気づいた。Journal of Dharmaでは学説の紹介にとどまらず、明確な哲学的主張とその論証が求められる。しかし、独自性が完全に証明されるまで執筆を始めないという方針にも限界がある。文章を書きながら初めて見えてくる問題や、深まっていく議論もあるはずである。明山論文との比較によって研究の余地が確認できれば、次は短い試論を何度も審査するのではなく、2,000~3,000語の暫定的な論証を書いてみたい。今回の格闘は決して遠回りではなかった。良遍の思想から何を読み取るかという段階から、その思想を通じてどのような哲学的問題に答えられるのかを問う段階へと、研究の姿勢そのものが少しずつ変化してきたのである。エディンバラ:2026/11/5(木)10:22
Today’s Letter
An entire musical universe, at both the micro and macro levels, exists within just five frets. I'm amazed by this and by the possibilities it opens up. Edinburgh, 11/5/2026


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