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【エディンバラ大学からの便り】19470-19474:2026年11月1日(日)

2 時間前
読了時間: 15分


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タイトル一覧

19470

善珠の『因明論疏明燈抄』と『唯識分量決』に見出した興味深い論証上の違い

19471

今朝方の夢

19472

今朝方の夢の振り返り

19473

善珠に関する研究を進めて

19474

善珠に関する研究の進展


19470. 善珠の『因明論疏明燈抄』と『唯識分量決』に見出した興味深い論証上の違い

                                         

時刻は午前6時半を迎えた。快眠を経て、心身のエネルギーが完全に充電されているのを感じる。そんな中、エディンバラ大学のPGT Supervised Research Essayの研究について考えていた。ここ数週間、奈良時代の法相宗の学僧である善珠の著作を読み、中国・新羅から伝えられた唯識思想が、日本でどのように解釈されていたのかを調べてきた。最初の問題意識はかなり大きかった。中国の玄奘や窺基によって体系化された法相唯識の教学が、新羅の学僧たちによって批判・再解釈され、さらに日本へと伝わった。その過程で、日本の学僧たちは中国の教説をそのまま受け入れたのだろうか。それとも、異なる学説を比較しながら、独自の判断を下していたのだろうか。当初は、善珠と護命の著作を比較することで、この問題を検討しようと考えていた。しかし、4,000語という限られたエッセイで、東アジア全体の唯識思想の受容史を論じるのは難しい。指導教員のアビゲイル・マクベイン博士から助言されたpoint of tension、つまり原典の中にある具体的な解釈上の緊張関係を明確にすることが重要だった。そのような問題を探して一次資料を読み進めた結果、善珠の『因明論疏明燈抄』と『唯識分量決』に、興味深い論証上の違いが見えてきた。研究の中心となったのは、玄奘に帰される「唯識比量」である。簡単にいえば、私たちが見る色や形などの認識対象は、眼識から離れたものではない、という唯識の立場を論理的に証明しようとする議論である。しかし、この論証には根本的な難しさがある。論争相手が唯識の立場を認めていない場合、その相手を説得するためには、相手も認める前提から結論を導かなければならない。仏教論理学では、これが共比量の重要な条件となる。ところが、唯識の立場を証明しようとする途中で、唯識派だけが認める教義を前提にしてしまったらどうなるのだろうか。例えば、ある認識対象が阿頼耶識によって生じることを利用して、その対象が識から離れていないと説明したとしても、阿頼耶識を認めない論敵に対する証明になるとは限らない。もちろん、相手が唯識派自身の教義を利用して反論してきた場合には、唯識派も自らの教義を使って応答できるだろう。しかし、自分の立場に対する反論を退けることと、その立場が正しいことを共通の前提から証明することは、同じではない。この問題が、今回の研究の中心に据わることになった。興味深かったのは、善珠の二つの著作に、よく似た反論が登場することである。反論では、大乗仏教自身が認める「本性相色」と呼ばれる対象を持ち出し、唯識比量の理由だけでは結論を確実に導けないのではないかと問う。これは、唯識派が認める対象を利用して、唯識派の論証を内部から批判する方法である。ところが、二つの著作における応答は異なっている。『因明論疏明燈抄』では、「随転門」と「真実門」という二つの分類方法が問題になる。一方の分類方法では本質色が色界に位置づけられるが、他方では法界に分類される。さらに、前者の説明では、第七識・第八識や、それらとの関係で説明される本質色をそもそも説かないとされる。ここでの問題は、一方の説明体系から対象の分類を取り出し、他方の説明体系からその対象の特別な性質を取り出して、一つの反例として組み合わせてよいのか、ということである。つまり、反例を成立させるための分類上の前提を問い直しているのだ。一方、『唯識分量決』では、別の方法が用いられている。成事智によって眼根が認識される場合、その眼根は認識する眼識から離れていないとされる。そして、その関係を手がかりに、本質色についても識からの分離を否定しようとする。こちらは、対象が反例として要求される「識からの分離」を本当に示しているのかを問題にしている。前者は反例が論証の理由を満たすかを問い、後者は反例が論証の結論に反する性質を持つかを問う。この二つは、同じ反例の成立条件を異なる角度から検討しているように見える。だとすれば、両者は相補的な説明なのではないだろうか。これが最初の仮説だった。エディンバラ:2026/11/1(日)06:39 


19471. 今朝方の夢

                                

今朝方は夢の中で、小中高時代のある友人(YU)がサッカー日本代表に選出されたことを受けて、その祝福がてら色々と話をしていた。彼はこの間の欧州強豪国との親善試合に出場し、そこでの活躍が認められて、晴れてW杯予選を戦うメンバーに正式に選ばれたのである。彼が出場した親善試合を自分も見ており、そして彼も認めるように、そこでの彼のパフォーマンスは神がかっていた。別の言い方をすれば、偶然の力も働いて、彼のパフォーマンスが際立って見えるような状況だったとも言える。彼もその点を認めており、本当に代表として活動していいのか悩んでいるようだった。一応私は彼を励まし、とりあえず代表に帯同してみることを勧めた。すると突然場面が、サッカーフィールドに変わり、代表選手のフリーキックの練習をゴールキーパーの位置で眺めることになった。ある選手のキックはよくカーブがかかり、それは驚くほどで、蹴った瞬間の球の回転を即座に見分けなければ、簡単にゴールを奪われてしまうようなキックで素晴らしいと思った。


次に覚えているのは、大学時代の2人の女性友達と話をしている場面である。彼女たちは自分と同じ学部に所属しており、在学中は同じ授業を隣の席で受けることがよくあったり、片方の友人とは卒業後も会って話をしたことがあるような仲だった。その日も一緒に授業を受け、授業が終わると片方の友人と引き続き話をすることになり、彼女が自分の家で話をしたいと述べたので、一緒に自宅に向かうことにした。大学近くの学生マンションに到着すると、彼女にお茶でも出そうと思い、すぐさまお湯を沸かすことにした。そこからお茶を飲みながらしばし楽しく話ができそうな雰囲気があった。エディンバラ:2026/11/1(日)06:51 


19472. 今朝方の夢の振り返り 

                                     

今朝方の夢は、他者から評価される卓越した能力と、他者との関係の中で静かに育まれる成熟という、二つの異なる成長のあり方を対比させているのではないだろうか。夢の前半に広がるサッカーフィールドと、後半に現れる学生マンションの一室は、人生という舞台の表と裏を象徴しているように思われる。幼少期からの友人が日本代表に選出される場面は、自分が長年培ってきた能力や可能性が、より大きな世界へと開かれていくことを象徴しているのかもしれない。しかし興味深いのは、その活躍に偶然が関与していたことを、友人も自分も認識している点である。これは、優れた成果が必ずしも個人の能力だけから生まれるわけではなく、環境や機会、偶然の条件が複雑に交差することで成立するという、自分の成熟した認識を反映しているのではないだろうか。友人が代表入りを躊躇する姿には、実際の能力と社会的評価の間に生じる微妙な緊張が表れているようである。自分が彼に代表への帯同を勧めたことは、完全な確信が得られるまで行動を控えるのではなく、不確実性を引き受けながら新しい環境で能力を育てることの重要性を、自分自身に語りかけているとも解釈できる。続くフリーキックの場面では、自分の立ち位置が観客からゴールキーパーへと変化する。この転換は重要であろう。自分はもはや他者の卓越性を外側から称賛するだけではなく、その力に直接向き合い、瞬時に判断する立場へと移っているのである。驚異的なカーブを描くボールは、人生や研究における複雑な現象の比喩かもしれない。ボールの軌道という目に見える結果だけでなく、蹴られた瞬間の回転という生成条件を見抜かなければ、その後の展開を理解できない。ここには、表面的な成果よりも、それを生み出す深層の仕組みに目を向けようとする自分の知的姿勢が象徴されているように思われる。夢の後半では、競争と評価の世界から、学びと親密な対話の世界へと場面が移る。大学時代の女性友達たちは、自分の知的成長を支えてきた人間関係や、他者と共に学ぶ喜びを象徴しているのかもしれない。学生マンションへの帰還は、現在の自分が新たな学問的生活を送る中で、かつての学生時代の純粋な探究心を再発見しようとしていることを示唆しているようである。とりわけ、お茶のためにお湯を沸かす行為が印象深い。前半では一瞬の判断が勝敗を左右したのに対し、後半では時間をかけて温かい飲み物を準備している。自分にとって成熟とは、瞬時に能力を発揮することだけでなく、他者のために時間と空間を整え、対話が自然に深まる余白を生み出すことでもあるのだろう。夢全体は、鮮烈なカーブを描く一球から、静かに湯気を立てる一杯のお茶へと収束していく。そこには、卓越性を追求する情熱を失うことなく、偶然を受け入れ、他者と学びを分かち合う生き方へと、自分の重心が移りつつあることが表現されているのかもしれない。エディンバラ:2026/11/1(日)07:03


19473. 善珠に関する研究を進めて 

                               

善珠に関する研究において、さらに『因明論疏明燈抄』を読んでいると、「不離」という表現が二つの意味に区別されていることに気づいた。一つは即體不離であり、色の体が識であるという、より強い意味での不離である。もう一つは定屬不離であり、二つのものが体として同一でなくても、一定の関係において離れていないことを意味する。善珠の著作では、生と滅との関係が後者の説明に使われている。これは重要な区別である。例えば、ある対象が認識に依存していることを示したとしても、それだけで対象の体が識そのものであるという結論が導かれるとは限らない。逆に、対象と識が同一ではないからといって、両者がいかなる意味でも離れていることになるわけでもない。この区別を使えば、善珠の二つの著作に現れる異なる応答を説明できるかもしれない。ただし、注意しなければならないことがある。善珠自身が、これらの二つの応答を「即體不離」と「定屬不離」という区別によって統合しているわけではなく、自分が二つの著作を比較するために提案している哲学的な解釈だということである。原典に書かれていることと、原典から自分が論理的に導き出したことを区別する。この区別の重要性を、今回の研究で何度も確認することになった。


今回の研究では、先行研究の精読にも相当な時間を費やした。特に重要だったのは、師茂樹の『論理と歴史―東アジア仏教論理学の形成と展開』第2章と、Tang Mingjunによる唯識比量研究である。師茂樹の第2章は、エディンバラ大学の図書館相互貸借を利用して入手した。第2章だけでも93ページあり、玄奘の唯識比量の成立、伝承、論理構造、新羅の学僧たちによる批判が詳細に検討されている。この本を読んで、重要なことが分かった。共比量によって唯識の強い結論を証明することの難しさは、すでに師茂樹が論じているのである。またTangも、分類上の包含と存在論的な関係の違いや、通常の眼識と例外的な認識能力の違いについて、詳細な議論を展開していた。したがって、こうした問題そのものを、自分が新しく発見したと主張することはできない。一方、確認した師茂樹の第2章では、『因明論疏明燈抄』と『唯識分量決』の該当箇所を直接比較し、二つの応答の論証上の関係を検討する分析は見つからなかった。つまり、研究の余地は残されている。ただし、今回の貢献は、一般的な唯識比量の問題を新しく発見することではなく、すでに知られている論理学上の問題を、善珠の二つの著作における具体的な応答に適用し、それぞれの応答がどこまで成功しているのかを厳密に評価することである。このように研究上の貢献を限定することは、かえって論文の焦点を明確にしてくれた。


研究を進める中で、版本の違いも無視できなくなった。『唯識分量決』の一節では、『大日本仏教全書』に「他識」とある箇所が、SATの電子テキストでは「眼識」となっている。「眼識から離れていない」という説明と、「他の識から離れていない」という説明では、問題となる認識の範囲が変わる可能性がある。また、別の箇所では、『大日本仏教全書』に否定の「不」がある一方、SATの電子テキストにはその文字がない。この「不」の有無は、論証の理由そのものに影響しうる。こうした違いを発見したことで、読みやすい英文にするために、原典の表現を安易に修正してはいけないことを改めて認識した。現時点では、二つの版本のどちらが著者本来の読みを伝えているのかは確定していない。だからこそ、第二稿では『大日本仏教全書』の「他識」をそのまま保持し、SATの「眼識」を異読として明示することにした。これは些細な編集上の問題ではない。哲学的な論証は言葉の意味に依存している。その一文字が変われば、何が証明され、何が証明されていないのかという判断も変わりうる。文献学的な精密さと哲学的な分析は、別々の作業ではないのだと思う。

英文第一稿を書き終えた時点では、善珠の二つの応答は局所的な反論として両立しうる、という結論に傾いていた。しかし、第二稿の作成に際して原典を再確認すると、さらに重要な問題が浮かび上がってきた。『唯識分量決』では、唯識比量の結論を完全に述べるならば、単なる眼識ではなく、論争双方が認める「極成眼識」と言うべきだと明示されている。ところが、本質色への反論では、成事智という例外的な認識能力が持ち出される。ここに問題がある。ある対象が成事智によって認識されることを示しても、それだけで、その対象が論敵も認める通常の眼識から離れていないと証明したことにはならない。この問題は、Tangの先行研究でも関連する形で検討されていた。さらに、『唯識分量決』には、ある対象が「確実に離れている」と主張することと、「確実には離れていない」という主張を否定することの違いも示されている。つまり、確実な分離を否定できたとしても、そこから確実な不離が直ちに証明されるわけではない。こうして考えていくと、当初の仮説にはまだ問題が残っていることが分かってきた。二つの応答が異なる成立条件を問題にしているのであれば、それらは論理的に矛盾しないかもしれない。しかし、そもそも両者は、厳密に同じ対象、同じ認識領域、同じ意味での不離を扱っているのだろうか。それが確認できなければ、両者が同じ反例を退けることに成功しているとは言えない。そこで、第二稿では結論をさらに修正した。二つの応答は、関連する反論に対する論理的に両立可能な戦略として理解できる。しかし、同一の反例に対する二つの成功した応答であることまでは、現時点の原典から証明できない。これは以前よりも弱い結論に見えるかもしれない。しかし、何が論理的に可能であり、何が原典によって実際に示され、何がなお証明されていないのかを区別できるようになったという意味では、研究は前進したのだと思う。エディンバラ:2026/11/1(日)07:46


19474. 善珠に関する研究の進展

                            

今回の研究を通じて、改めて考えさせられたことがある。研究を始めるときには、ある程度の仮説を持っている必要がある。しかし、一度仮説を立てると、それを支持する証拠ばかり探してしまう危険もある。善珠の二つの応答が相補的であるという仮説は、確かに魅力的だった。一つは分類上の条件を否定し、もう一つは識からの分離を否定する。両者を組み合わせれば、一つの反例に対する包括的な防御が成立するように見える。しかし、原典を詳しく読むと、そこまで単純には言えないことが分かってきた。『因明論疏明燈抄』の「不説」は、ある説明体系ではその対象を説かないということであって、そのような対象が存在しえないことの証明ではない。『唯識分量決』の成事智による認識も、極成眼識に関する主張への回答として十分なのかは、なお検討が必要である。つまり、二つの応答を相補的に理解できるという可能性と、両者が実際に反例を退けることに成功しているという判断は、区別しなければならない。仮説が魅力的であることは、その仮説が正しいことの証拠ではない。むしろ、自分の仮説に対して最も強い反論を考え、その反論にどこまで答えられるのかを検討することが、研究の重要な過程なのだろう。こうして英文の第二稿がひとまず完成した。本文は約3,258語となり、4,000語という制限の中で、さらに説明を加える余地も残されている。現在の研究質問は、次のようになっている。How far do the two replies to underlying form in Zenju's works defend Xuanzang's inference as a shared inference?善珠の二つの著作に現れる本質色への応答は、玄奘の唯識比量を共比量としてどこまで擁護できるのか。以前のように、単に「両者は両立するか」を問うのではなく、それぞれの応答が持つ論証上の効力そのものを評価する問いになった。ここまで来たので、一度マクベイン博士からフィードバックをもらいたい。特に、二つの応答が論理的に両立しうるという限定的な結論が、4,000語のエッセイとして十分な哲学的意義を持つのか。そして、『唯識分量決』の例外的な認識能力による応答について、もっと強い批判を提示すべきなのかを相談したい。すでに先行研究の調査は相当進んでいる。今のところ、さらに多くの文献を集めることよりも、自分自身の議論を厳密に検討することの方が重要だと感じている。振り返ってみれば、中国・新羅から日本への唯識思想の伝播という大きな問題から始まった研究が、今では善珠の原文に見られる「不離」という言葉の意味や、認識領域の限定という、ごく細かな哲学的問題にまで到達している。研究対象は随分と小さくなった。しかし、その小さな問題を深く調べることによって、継承された教説を日本の学僧がどのように理解し、論理的に擁護しようとしたのかが、少しずつ見えてきたように思う。今回の経験は、将来的に良遍の思想を研究していくうえでも重要になるだろう。仏教思想を研究するということは、教説の内容を理解するだけではない。その教説を支持するためにどのような理由が提示され、批判に対してどのように応答し、その応答がどこまで成功しているのかを吟味することでもある。そして何よりも、研究は自分が最初に立てた仮説を正しいものとして守り続けるためにあるのではなく、原典と先行研究に照らしながら、自分が何を知っていて、何をまだ知らないのかを、より正確に理解するためにある。今回のPGT Supervised Research Essayを通じて、そのことを少しずつ実感している。エディンバラ:2026/11/1(日)09:20


Today’s Letter 

The more I study Buddhism and practise classical guitar, the more I feel that I am purifying my mental afflictions. That’s why I want to continue both activities for as long as I can. Edinburgh, 11/1/2026 

 
 
 

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