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【エディンバラ大学からの便り】19465-19469:2026年10月31日(土)

12 分前
読了時間: 13分


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タイトル一覧

19465

第207回のゼミのクラスに向けて(その1)

19466

今朝方の夢

19467

今朝方の夢の振り返り

19468

第207回のゼミのクラスに向けて(その2)

19469

第207回のゼミのクラスに向けて(その3)


19465. 第207回のゼミのクラスに向けて(その1)   

                   

時刻は午前6時半を迎えた。昨日はハロウィンということもあって、隣のイベント会場は深夜まで騒がしく、それが終わるまで寝付くことができなかったのだが、ベッドの上で目を閉じているだけでも身体は休まっているようで、起床してアパートメントのジムに行っていつものようにSpirint8のプログラムを行なっても何の問題もなかった。


英国のサマータイムが終了したことを受けて、今日からのゼミは英国時間の正午から行われる。その点に注意し、早めに昼食を食べ、仮眠はゼミを終えてからにしたい。今日の第207回のクラスでは「動的モデルは何を説明しているのか」というテーマを扱う。改めて、van GeertとSteenbeekの論文を読み進めていて、これまで当然のように使っていた「語彙が成長する」という表現が、実は不思議なことに思えてきた。前回は、現在の発達状態が次の状態を生み出す規則を、動的モデルによって表現することを学んだ。しかし、そこで変化するとされる語彙とは、いったい何なのだろう。子どもが話す言葉の数は数えられるけれども、語彙という物体がどこかに存在し、それ自体が大きくなるわけではない。著者たちは、植物の成長を研究する生態学と比較して、この難しさを浮き彫りにしている。植物なら、個体を識別し、背丈や個体数を測り、水や日光をめぐる競合を調べられる。ところが、語彙と文法の境界は必ずしも明確ではなく、両者が注意を奪い合うという説明にも、物理的な植物同士の競争ほどはっきりした対応物がない。心理学的な概念を使った動的モデルは、精巧な比喩にすぎないのではないか。今回の節は、この厄介な問いから始まっていた。考えてみれば、語彙量を表す数値と、実際に子どもが言葉を発する出来事とは別物だ。数値が増えたという記述は便利でも、その増加を生み出した脳や身体、周囲とのやり取りを示してはいない。動的な数式が実際の発達を説明したと言うには、数式の対象と現実の出来事との結びつきを確かめる必要がある。その問いへの一つの応答が、セレンやスミスらのブルーミントン学派である。彼女たちは、子どもの行動を頭の中にある概念によって説明することを警戒する。例えば、乳児が隠された玩具を新しい場所ではなく以前の場所で探してしまう、いわゆるA-not-Bエラーがある。これを対象概念が未発達だからと説明するだけでは、結局、誤った行動に別の名前を付けたにすぎないかもしれない。そこでブルーミントン学派は、乳児の身体、手を伸ばす運動、玩具の位置、それまでの行為の履歴、脳の活動などが、現実の時間と空間でどう結びついているかを考える。脳内で空間的位置に対応する活動がどう変わるかを表す動的場理論も、その試みの一つだ。行動が生じる仕組みを具体的な相互作用として記述できれば、概念という見えない存在を原因として持ち出す必要は小さくなる。ここで大切なのは、心理学的な言葉を使うことが直ちに間違いだという主張ではない。問われているのは、その言葉が実際に何を説明しているかだ。この子には保存概念がある、心の理論が育ったと言うだけでは、なぜ今この場面で、そのような判断や行為が生じたのかはまだ分からない。前回、N=1の研究を重視する理由を考えたことも思い出した。一人の子どもの行為を短い時間間隔で詳しく見るのは、個人を大切にしたいという気持ちだけからではない。ある状態から次の状態への変化が、実際にはどのような身体的・環境的な働きによって起こるのかを見極めるためなのだ。動的モデルの式を理解したつもりになっていたが、改めてこの論文から、その式が現実の何に結びついているのかを問い続けることの大切さを学んだ。エディンバラ:2026/10/31(土)06:37 


19466. 今朝方の夢

                                          

今朝方は夢の中で、父と話をしていると、父の身長が180cm以上の高身長になっていることに気づいた。そんな父から突然理不尽なことを言われ、自分はそれに対して腹を立てて、気づいた瞬間には父を蹴り倒していた。父が地面に倒れてからも引き続き何発か顔に蹴りを喰らわせており、失明を含めて、相当に父にダメージを与えてしまったことに気づいた。その時にふと、人間はとても脆い生き物なのだなと改めて思い、そうした脆い肉体を付与されたことの意味について冷静に考えていた。


次に覚えているのは、ある協働者の方が契約書をオンライン上で修正している様子を眺めている場面である。その方は上司と相談しながら契約書を精緻なものにしようと奮闘しているが、私から見ると、本質的なところを見落としながら作業を進めているように見られ、もし近くにいたらその点を指摘してあげたいと思った。しかし、それをあえて伝えないことでその人が自分で本質に気づくことも重要かと思い直した。


最後にもう一つ覚えているのは、見慣れない室内プールの脇で、ある少年のスイミングの練習を見守っている場面である。彼はまるで小さい頃の自分を思わせるように、楽しく、そして熱心に泳いでいた。そんな彼の練習風景を眺め終え、プールに併設されているカフェに行くと、そこで今は亡き愛犬と愛犬よりも2回りぐらい大きい犬が自分に懐いてきた。まず愛犬ではない方の犬が自分のところにやって来て、体を撫でてあげると、地面に横たわり、お腹を見せて寛いでいた。その様子はとても可愛らしく、次にやって来た愛犬も体を撫でると同じ仕草をした。どちらも自分のことを絶対的に信頼し、リラックスしてくれている様子が伝わり、とても嬉しく思った。エディンバラ:2026/10/31(土)06:55


19467. 今朝方の夢の振り返り

             

今朝方の夢は、自分の内面における力の使い方が、支配から抑制へ、そして信頼と慈愛へと変容していく過程を象徴しているのかもしれない。三つの場面は一見無関係でありながら、他者の脆さと自律性にどう向き合うべきかという、一つの根源的な問いによって結ばれているように思われる。最初の場面で父の身長が異様に高くなっていたことは、自分の内面に存在する権威の象徴が、実際以上に巨大化していることを示唆しているのではないだろうか。父は単なる肉親ではなく、社会的権威や既成の価値観、あるいは自分を束縛する不合理な規範の化身なのかもしれない。その父を激しく蹴り倒す行為は、そうした権威への反逆であると同時に、自分の正しさを貫こうとする意志が、時として破壊的な力に変わり得ることを暗示しているようである。とりわけ興味深いのは、父に失明するほどの損傷を与えた後、自分が人間の肉体の脆さについて冷静に思索している点である。ここには、正しさという鋭利な刃物が、相手の存在そのものを傷つけてしまう危険への気づきが潜んでいるのかもしれない。自分はこの場面で、権威に対抗する力だけでなく、その力を制御する智慧の必要性にも直面したのではないだろうか。続く契約書の場面では、最初の場面とは対照的に、自分は相手の誤りを認識しながらも、介入することを思いとどまっている。ここには、他者を正すことと他者の成長を支えることの微妙な違いが表れているように思われる。契約書を精緻に整える作業は、形式的な正確さを追求する知性の働きを象徴し、その本質を見落としている姿は、細部を照らす灯火が、かえって全体を暗闇に沈めてしまう逆説を表しているのかもしれない。しかし、自分はその暗闇に外から光を差し込むのではなく、相手自身が灯火を見いだす可能性を尊重している。これは、他者の認識を直接変えようとする姿勢から、他者の内発的な成熟を信頼する姿勢への転換を意味しているのではないだろうか。最後のプールの場面は、そうした変容がさらに深まった姿を象徴しているようである。少年は自分の幼少期の分身であり、水中を自由に泳ぐ姿は、外部からの評価や権威に縛られない純粋な探究心の象徴なのかもしれない。自分は少年に泳ぎ方を教えるのではなく、その営みを静かに見守っている。そこには、成長を強制せず、成長そのものの喜びを慈しむ態度が表れているようである。そして二匹の犬が無防備に腹を見せる場面は、夢全体の到達点なのかもしれない。最初の場面では父が暴力によって地面に倒れたのに対し、最後の場面では犬たちが信頼によって自発的に地面に横たわっている。同じ倒れるという動作が、恐怖から安心へと反転しているのである。亡き愛犬との再会には、失われた存在への愛情が、今なお自分の内面で生き続けていることも示唆されているのだろう。また、失明、見落とし、見守りという三つの場面に共通する視覚の主題も印象的である。夢は、他者に何を見せるかではなく、他者をどのような眼差しで見るかという問いへ、自分を導いているのかもしれない。この夢が伝えているのは、真の強さとは相手を屈服させる力でも、相手の誤りを正す能力でもなく、相手が安心して自分自身でいられる空間を生み出す力だということではないだろうか。自分の成熟は、握り締めた拳を開き、その手で他者の生命を優しく撫でることの中に、静かに現れ始めているのかもしれない。エディンバラ:2026/10/31(土)07:08 


19468. 第207回のゼミのクラスに向けて(その2)

                 

今日のクラスに向けて、ブルーミントン学派とは少し異なるフローニンゲン学派の答えを考えた。論文には、博士課程の学生が研究テーマを心の理論と答えたところ、セレンが「私たちはそれが存在するとは考えない」と返したという逸話がある。もっとも著者たちは、これを文字どおりの存在否定ではなく、研究者に考えさせるための発言だったのだろうと述べている。このやり取りは、心理学が使う概念をどのようなものとして理解するかという問題をよく表している。フローニンゲン学派は、心の理論や感情といった言葉を捨てようとはしない。その代わり、複雑な相互作用の中から現れる秩序変数(order parameter)として理解する。二人が会話する場面を想像すると分かりやすい。そこでは、声の高さ、表情、視線、身体の姿勢、発話内容など、無数の出来事が同時に起こっている。それでも私たちは、相手が何を望んでいるか、失望したのか、冗談を言っているのかといった一つのまとまりを、ほとんど瞬時に読み取る。このまとまりが、観察者にとっての秩序変数である。重要なのは、失望という小さな実体が頭の中にあり、それが表情を動かすと考える必要はないことだ。現実に生じる多くの身体的・社会的な出来事から、意味のある全体的な模様が浮かび上がってくる。フローニンゲン学派は、その模様を心理学的な言葉で記述し、時間とともにどう変わるかを研究してよいと考える。ここに両学派の違いが見える。ブルーミントン学派が、目の前の行為を生み出す物理的な過程に直接迫ろうとするのに対し、フローニンゲン学派は、心理学で使い慣れた巨視的な変数を研究対象として残す。その代わり、変数の名前を、行動を動かす原因そのものと取り違えないようにする。ただし、その模様を見いだすことと、それが生じる仕組みを説明することは同じではない。そこで登場するのが生成機構(generator)である。例えば、他者の意図をすばやく読み取る能力を心の理論と呼んでも、その理解が生じる過程はまだ分からない。視線や言葉を捉える本人の能力、他者が示す表情や行動、置かれた状況などが結びつき、理解が成立すると考えられる。本人が行為できる可能性は行為能力(effectivities)、環境が提供する行為の可能性はアフォーダンス(affordances)と呼ばれる。この生成機構を明らかにするには、判断が成立するほんの短い間に、視線や発話、身振りなどがどう変わるかを詳しく調べなければならない。著者たちは、心の理論についてそこまで解明することは、当時の研究では難しいとも認めている。つまり、心理学的な名称を与えれば説明が終わるわけではない。さらに、短い時間に生じる理解の過程と、数か月・数年にわたってその能力が発達する過程もつながっているはずだ。短時間の相互作用が積み重なって、長期的な発達をどう生み出すのか。この問いを残しているからこそ、生成機構という概念は単なる言い換えではなく、研究すべき課題を示しているのだと思う。論文では、物体の温度と分子運動の関係が手がかりとして挙げられている。温度は全体の性質として測れる一方、その背後には微視的な運動がある。同じように、語彙や心の理論も巨視的な水準で測定しながら、その生成機構を別の水準で探究できる。ただし、温度と異なり、心理的な生成機構の多くはまだ分かっていない。巨視的な模様を記述することと、それを生み出す具体的な過程を説明することを、混同しないようにする必要がある。エディンバラ:2026/10/31(土)09:16


19469. 第207回のゼミのクラスに向けて(その3)

                        

発達を動的に説明するために、どのような物差しが必要なのかを考えていた。語彙や心の理論を、身体と環境の相互作用から現れる全体的な模様として捉えることはできる。しかし、模様が変わったと言うためには、異なる時点の状態を区別し、可能であれば変化の大きさを示さなければならない。そこで著者たちは、計量空間(metric space)と発達尺度(developmental ruler)という考え方を導入する。計量空間とは、位置や距離を数値で表せる空間のことである。発達研究では、少なくとも時間を示す軸と、研究対象の水準を測る軸が必要になる。著者たちの表現では、時計と物差しが必要なのだ。例えば、12か月、18か月、24か月という時点と、それぞれの語彙数が分かれば、語彙の成長を軌跡として描ける。しかし、心の理論や認知的な複雑さの場合、何を一目盛りとするかはずっと難しい。ここでカート・フィッシャーの発達の物差しという考え方が登場する。一つのテストに正解しただけで、その子の能力全体を測れたとは言い難い。課題の難しさや文脈が変われば、発揮される能力も変わるからだ。したがって、信頼できる発達尺度を作るには、複数の課題や場面を組み合わせる必要がある。測定得点と、測ろうとしている発達能力そのものを区別する視点が欠かせない。もっとも、発達を必ず連続した数値で示さなければならないわけではない。著者たちは、二人の子どもの行動を、相手に働きかける行動と自分の活動に集中する行動に分ける例を示す。二人それぞれに二つの選択肢があるため、組み合わせは四つになる。その四つの状態のどこに、どれほど長くとどまり、次にどの状態へ移るかを調べれば、相互作用の動きを捉えられる。こうした分析には状態空間グリッド(state space grid)という方法が役立つ。細かな能力得点がなくても、状態の移り変わりを研究できるわけだ。ただし、状態を四つに分けたからといって、それぞれの状態の間の距離が等しいというわけではない。カテゴリーの移動を記録することと、能力がどれだけ高まったかを同じ目盛りで測ることは、別の仕事なのだ。この違いを意識しないと、数字や図があるだけで発達を正確に捉えた気になってしまう。さらに重要なこととして、日々の測定値の上下を、すべて誤差として片づけてはいけないという指摘がある。子どもが10分間に使う異なる単語の数は、日によって変わる。その揺れは測定上の誤りかもしれないが、能力が形成される過程の特徴かもしれない。どちらなのかを調べること自体が研究の課題になる。著者たちは不確実性(uncertainty)と曖昧さ(ambiguity)も区別する。前者は情報不足で判断できないことだが、後者は現象そのものの境界がまだ定まっていないことだ。例えば、言葉を覚え始めた子どものある表現が、前置詞とも動詞とも言い切れない場合、分類の曖昧さは未熟な観察のせいではなく、言語カテゴリーが形成されている途中だからかもしれない。発達を測るとは、完成した能力を物差しに当てるだけではない。物差しで捉えきれない揺れや境界の曖昧さにも、変化の仕組みを知る手がかりがある。再度、発達尺度を精密にすることと、発達の生きた変動を消してしまわないことの両方が大切なのだと感じた。エディンバラ:2026/10/31(土)10:11


Today’s Letter 

Something sublime and precious emerges from the stream of consciousness. That’s why improvisation, both in speaking and in playing a musical instrument, is so important to me. Edinburgh, 10/31/2026

 
 
 

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