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【エディンバラ大学からの便り】19460-19464:2026年10月30日(金)

1 日前
読了時間: 13分


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タイトル一覧

19460

ジュリオ・サグレラスの教則本と博士課程の対応関係

19461

今朝方の夢

19462

今朝方の夢の振り返り

19463

安定した演奏に向けて習熟度を高めること

19464

善行の背後に残る我執をどう考えるか


19460. ジュリオ・サグレラスの教則本と博士課程の対応関係 

                 

時刻は午前6時を迎えた。今日も快眠を取ることができ、気力に満ちている。昨日、ポール・フラー博士から仏教倫理のコースのファイナルエッセイの計画に対してフィードバックをいただいたので、今日はそれに基づいて構成案を練り直し、執筆に向けて文献調査を完了させたい。3000語の字数制限があるので、良遍の倫理思想までは踏み込めないが、将来の論文への橋渡しとなるエッセイにしたい。


昨日、ジュリオ・サグレラスの教則本について改めて考えた。第1巻から第6巻までを本当の意味で身につけるには、いったい何年かかるのだろう。もしかすると、これは博士課程に匹敵する長期プロジェクトなのではないか。調べてみると、この直感はそれほど大げさではなさそうである。サグレラスの全6巻は、初歩の音の出し方から始まり、両手の独立、ポジション移動、声部の弾き分け、音色の制御へと進む、段階的に設計された教材である。第1巻を弾き終えたという事実と、第1巻に書かれた技術が身体に定着したという事実は、決して同じではない。巻数を進めることは地図に線を引く作業であり、習得することは実際にその土地を歩いて、道の勾配を足裏に覚え込ませる作業なのだろう。教材の難度を見ても、前半は基礎の定着に当たる一方、第6巻はより高度な演奏へ進むための橋渡しとなる。しかも巻を重ねるほど、一曲の完成に必要な時間は伸びるだろう。第1巻の十曲と第6巻の10曲は、同じ10曲でも求められる思考と身体の精度が違う。研究でいえば、入門書の10ページと難解な原典の10ページを読む違いに似ている。あくまで目安だが、基礎から始めるなら、第1~3巻に1~2年、第4~6巻にはさらに2~4年、合計3~6年程度を一つの見通しにしてよさそうである。さらに全曲を安定して音楽的に弾きこなす水準を目指すなら、5~8年以上かかることも十分に考えられる。もちろん、これは統計的に確立された標準年数ではない。これまでの音楽経験、練習の質、そして何をもって習得と呼ぶかによって大きく変わる。単に全曲を譜読みして通すなら、もっと短いだろう。しかし、どの練習曲も無理な力みなく弾け、音楽的な意図を自在に表現できるようになるには、年月が必要である。現在のように一日5~6時間ほどギターに向き合う生活なら、進度そのものは速められるかもしれない。ただし、その時間の全てをサグレラスに投入するわけではないし、練習時間を倍にすれば習得速度も倍になるわけではない。筋肉や腱には回復が必要であり、耳が聴き分ける精度も、休息と反復の間で少しずつ育つ。長時間練習する日よりも、昨日は聞こえなかった内声が今日は聞こえる日のほうが、進歩の本質をよく示しているのかもしれない。また、サグレラスだけでギターの全世界を学べるわけでもない。ジュリアーニの右手練習やバッハの作品、さらには即興演奏への挑戦は、別の角度から技術を試す実験室になる。サグレラスの進度が一時的に遅くなったとしても、それは寄り道というより、学びの奥行きが増した結果かもしれない。博士課程との比較は思いのほか的確である。初期の巻で研究方法を学び、中盤の巻で扱える問題を増やし、後半の巻で複雑な課題に自立して取り組む。指導者のフィードバックを受け、失敗を分析し、同じ箇所を別の方法で試し直す過程も研究に似ている。ただし博士論文には提出日があるのに対し、演奏の成熟には最終提出日がない。第6巻を終えた頃には、ようやく自分の音楽的な問いが鮮明になる可能性さえある。そう考えると、目標は全6巻を終わらせることではなく、全6巻を通じて自分の耳と身体を育てることにあるのだろう。博士課程を3~4年かけて進めるつもりで、サグレラスにも同じ長さの時間を与えてみたい。ただし、卒業証書を受け取る瞬間よりも、その後もギターを弾き続けたくなることのほうが、はるかに大きな成果なのである。エディンバラ:2026/10/30(金)06:15


19461. 今朝方の夢


今朝方は夢の中で、見慣れない旅館に宿泊していて、朝の時間に高校時代のある友人(SK)と部屋で話をしていた。彼がふと、オーストラリアの公衆トイレ近くで押収した10ドル札が入ったジッパーを見せてくれた。なぜお金がジッパーに入っているのか尋ねたところ、それはトイレの近くで見つけられたがゆえに、トイレの臭い匂いが染み付いてしまっているとのことだった。彼は笑いながらそのように述べ、試しに匂いを嗅いでみるかと尋ねた。興味本位に匂いを嗅いでみようと思ったが、この部屋ではなく、場所を移して、風通しの良いところでそれを試したいと思った。すると、まず彼の部屋に移動したところ、地面一杯に彼がこれまで集めてきたDVDのパッケージが無数に転がっていたので驚いた。彼はいくつかのジャンルの作品を特に好んでいるらしく、年代物の作品もあって驚いた。そこで夢の場面が変わった。


次に覚えているのは、日本人の知人のある女性が、成人発達理論に関して講演をすることになり、講演内容の監修を行っている場面である。自分が少し他の理論にも関心を持つようにと勧めたこともあって、いくつかの理論を講演に組み込もうとしているようだったが、現状の内容で十分に素晴らしかったし、理解が浅い理論を講演内容に取り入れるのは得策ではないように思えたので、その点を助言した。その方もその助言に納得し、現状の内容をより詰めていくことに舵を切った。


最後にもう一つ覚えているのは、東京の隅田川付近のサイクリングロードを舞台にしている場面である。私は川沿いのサイクリングロードを歩きながら、脳内では不思議な光景を目撃していた。サイクリングロードを走る無人の自転車が見えていたのである。その自転車は快適に走行を続けていて、川をかける橋にやってきた時に、なんと橋の上を通るのではなく、川岸から川岸へとジャンプしたのである。そして見事に向こう岸のサイクリングロードに着地した。その光景を見事だなと思いながら眺めていると、気づけば成田空港内のレストランがあるフロアにいた。そのフロアには高級感漂う店が数多くあり、その中の和食レストランで、JALの入社面接を受けることになっていた。時刻は午後1時からだと思っていたが、どうやら午後4時からのようで安心した。というのも、空港内で迷ってしまい、すでに時刻は午後1時15分を回っていたからである。安堵の気持ちと共に、なぜ自分がJALに入社しようとしているのだろうと考えた時に夢から覚めた。エディンバラ:2026/10/30(金)06:31


19462. 今朝方の夢の振り返り

                    

今朝方の夢は、自分が人生のさまざまな経験から何を受け取り、何を手放し、いかなる方向へ進もうとしているのかを問い直す、心の深層における旅の物語であるように思われる。三つの場面には、過去の経験の吟味、現在の知の成熟、未来の可能性への跳躍という時間的な構造が隠されているのかもしれない。見慣れない旅館は、自分が人生の過渡期に滞在していることを象徴しているようである。旅館は永住する場所ではなく、次の目的地へ向かうための一時的な宿である。高校時代の友人は、現在の自分が形成される以前の可能性を携えた存在なのかもしれない。オーストラリアで押収された10ドル札は、価値あるものが必ずしも清潔な場所から生まれるわけではないという逆説を表しているように思われる。貨幣そのものの価値は変わらなくても、そこに染み付いた臭いによって受け取り方は変化する。これは、自分が知識や経験を評価する際、その内容と、それが生まれた文脈を区別する必要性を示唆しているのかもしれない。興味を抱きながらも、風通しの良い場所で臭いを確かめようとしたことは象徴的である。自分は未知のものを拒絶するのではなく、適切な距離と環境を確保して吟味しようとしているようである。友人の部屋に散乱する無数のDVDは、他者が長年蓄積してきた記憶や関心の地層を表しているのかもしれない。人間の内面は整然とした図書館ではなく、異なる時代の作品が折り重なる古い映画館のようなものなのであろう。次の講演監修の場面では、自分の知的態度がより明瞭に表れているようである。他の理論を取り入れることを勧めながら、最終的には十分に理解された内容を深めるよう助言している。これは、知識を増やすことと理解を成熟させることが必ずしも同義ではないという認識の象徴なのかもしれない。大きな樹木が枝を無制限に伸ばすよりも、根を深く張ることで安定するように、自分の研究も広さと深さの均衡を求めているのであろう。隅田川沿いの無人の自転車は、とりわけ興味深い象徴である。自転車は通常、乗り手による継続的な操作を必要とする。しかし夢の自転車は、自ら均衡を保ち、橋さえ使わずに川を飛び越える。これは、自分が長年培ってきた能力や習慣が、意識的な努力を離れても自律的に働き始めていることを暗示しているのかもしれない。川は既知と未知の境界であり、跳躍は従来の手順を超えた創造的な転換の象徴とも解釈できよう。最後の成田空港は、人生の新しい航路が交差する場所である。面接時刻を誤認していたにもかかわらず、実際には十分な時間が残されていた。これは、自分が抱く時間的な焦りと、現実に開かれている可能性との隔たりを映しているのかもしれない。そしてJALへの入社を疑問に思った瞬間の覚醒は、社会から与えられる進路と、自分自身が選び取る使命との違いを問い直す契機のようである。夢全体は、自分に対して、蓄積した知を丁寧に吟味し、成熟した能力を信頼しながら、他者が用意した航路ではなく、自らの内側から生まれる方向へ進むことを促しているのかもしれない。エディンバラ:2026/10/30(金)06:43


19463. 安定した演奏に向けて習熟度を高めること 

                     

クラシックギタリストのブランダン・エイカー氏から届いた、ギターの練習に関するメッセージを読んだ。一度は美しく弾けた難しい一節が、次の瞬間には弾けなくなる。そんな経験は決して珍しくない。しかし、一度成功した途端にその箇所を習得したと思い込み、先へ進んでしまうことこそが、上達を妨げる落とし穴なのだという。この指摘は、サグレラスの教則本やバッハの作品に取り組む際の自分の練習を振り返るうえでも示唆的である。指が偶然うまく動き、音の流れが思い描いた通りにつながると、そこに小さな達成感が生まれる。昨日まで難しかった場所が突然開けたように感じられるのである。しかし、その扉はまだ自分の鍵で開けられるとは限らない。たまたま風に押されて開いただけかもしれない。エイカー氏が強調しているのは、「弾ける可能性があること」と「必要なときに確実に弾けること」の違いである。一度の成功は無意味ではない。むしろ、その動きが自分の身体にとって実現可能であるという重要な証拠である。ただし、それは登山で一度頂上に到達したようなものだ。道順を覚えていなければ、翌日また同じ山に登れるとは限らない。演奏技術とは、幸運な一回を収集することではなく、そこへ繰り返し戻れる道を身体の中に作ることなのだろう。しかも、人間の記憶には厄介な性質がある。何度も失敗したことより、たった一度の鮮やかな成功を強く覚えてしまうのである。その結果、実際の習熟度よりも自分が上達しているように感じることがある。練習において重要なのは、最も優れた演奏を自分の実力だと考えることではなく、普段どれほど安定して演奏できるかを見極めることなのだろう。特に印象に残ったのは、各試行のあとに「うまくいったか、それとも散々だったか」と率直に問いかけるという助言である。この問いは、自分という人間の価値を判定するものではない。その一回の演奏で何が起きたかを確かめるためのものである。失敗しても自己否定する必要はないし、成功してもそこで安心してはいけない。どちらも次の試行に役立つ情報であり、成功したときこそ、その動きをもう一度再現できるか確かめる必要がある。だからといって、無闇に同じ箇所を弾き続ければよいわけでもないだろう。崩れる場所があればテンポを落とし、運指や右手の動きを確認し、短い単位で弾き直す。うまくいったときは、同じ条件でもう一度試し、少し間を置いても再現できるか確かめる。偶然の成功と安定した習得の差を、感覚ではなく反復の中で見極めるのである。この考え方はギターに限らない。研究でも、ある議論を一度明晰に説明できたからといって、本当に理解したとは限らない。翌日も、別の問い方をされても、同じ論理を自分の言葉で組み立て直せてこそ、その理解は頼れるものになる。学びの質を決めるのは、最高の瞬間の輝きだけではなく、平凡な日にもそこへ到達できる再現性なのだと思う。今日は、練習の目的を少し言い換えてみたくなった。「一度うまく弾く」ことから、「うまく弾ける状態を自分のものにする」ことへ。音楽が美しく響いた瞬間を記憶の中で飾るのではなく、その響きを何度でも呼び戻せるようにする。驚きとして現れた成功が、やがて信頼できる日常になる。 その静かな変化にこそ、長い時間をかけて楽器を学ぶ喜びがあるのだろう。:エディンバラ:2026/10/30(金)07:24 


19464. 善行の背後に残る我執をどう考えるか

                         

午前中の研究はうまく進んでいる。仏教倫理のファイナルペーパーについて、追加で入手した6つの研究文献の精読結果を確認した。調査を重ねるうちに、当初の大きな構想が、かなり具体的な問いへと変わってきた。最初は、中観の空によって倫理主体の実体化を避け、唯識の種子や阿頼耶識によってその連続性を説明しようとしていた。しかし、WesterhoffやGarfieldらの研究を見れば、実体的自己なしに倫理的実践を説明する試みには、すでに厚い蓄積がある。中観には倫理的連続性の説明が欠けていると想定して唯識で補うのも、両派の違いを単純化しすぎる。フラー博士からは、無我は倫理的行為にとって障害ではなく、むしろその条件なのではないかと問われた。その指摘は今も重要だ。けれども、自己への執着を捨てることと、日々の修行に必要な「自分がこれを実践する」という意識まで消し去ることは同じではない。Hannerは、将来の自分を気遣い、誓願を守り、善行を続けるうえで、自己同一化が果たす役割を論じている。しかも彼は、修行が進んだ段階では妄執に基づかない倫理的行為があり得ることも認めている。これを見落として批判すれば、単なる藁人形論法になってしまう。そこで今回の焦点となったのが、『成唯識論』における善行と我執の関係だ。人は我執を完全には断っていなくても、布施などの善行を行える。しかし、その行為が善であるからといって、同時に働いている我執まで善になるわけではない。『成唯識論』は、末那識に伴う煩悩を無記としながら、解脱の道を妨げるものとしても説明する。また、善なる行為がなお有漏であり得ることを論じる。善・無記・有漏という区別を丁寧に読むと、日常的な道徳性と、我執を克服していく修行の過程とが、単純な二者択一ではないことが見えてくる。ただし、ここで慎重でなければならないことがある。ある心的状態が善行と共存すること、その行為を動機づけること、そしてその状態自体が倫理的に望ましいことは、別々の主張だ。原典は、善行を引き起こす煩悩と、同時に働いて行為を汚染する作用も区別しており、我執こそが善行の直接の原因だと断定することはできない。今回の論文で評価したいのは、この区別を踏まえて、自己同一化の実践上の有用性が、我執を維持すべき理由になるのかという問題である。追加で読んだWesterhoffは、実体をもたない人格にも有用な機能を認め、Fullerは執着を離れることが思考や実践の放棄を意味しないと論じている。Finniganの議論も、因果的に役立つことと倫理的に正当化されることの区別を考える助けになる。こうした先行研究がある以上、斬新な理論を発見したと主張する必要はない。むしろ、Hannerの議論を公平に受け止め、『成唯識論』の限られた箇所から何が言え、何が言えないのかを示すことに、今回の独立した貢献がある。3000語という制約を考えれば、中観と唯識の大きな統合理論を目指すより、この一つの問題を深く掘り下げる方がよいだろう。良遍の大悲や誓願の思想は、別の研究としてじっくり扱おう。今の課題は、善行を可能にする条件と、修行によって克服されるべきものが、なぜ同じ心の中に共存し得るのかを明らかにすることだ。文献を増やす段階から、論証の境界を定める段階へ。研究がようやく、自分の問いとして輪郭を帯びてきた。エディンバラ:2026/10/30(金)09:41


Today’s Letter 

I cannot imagine my life without Buddhist studies and playing classical guitar. Both are harmoniously intertwined, making my life vibrant and fulfilling. I am deeply grateful for both. Edinburgh, 10/30/2026

 
 
 

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