【エディンバラ大学からの便り】19454-19459:2026年10月29日(木)

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タイトル一覧
19454 | トレーニングと研究・協働の進展を感じながら |
19455 | 今朝方の夢 |
19456 | 今朝方の夢の振り返り |
19457 | 良遍の教義的調停を通じて、仏教研究の方法を考える |
19458 | クラシックギターのグレードとサグレラスの教則本――友人イーサンとの新たな共通点 |
19459 | 無我から倫理的変容へ、仏教倫理研究の新しい方向性 |
19454. トレーニングと研究・協働の進展を感じながら
時刻は午前6時半を迎えようとしている。今日のエディンバラは朝から気温が比較的高く、9度もある。体感として5度以下になると、外に出た時に強い肌寒さを感じるが、9度だと全くそのようなことがない。今日も午前5時半あたりにアパートメントのジムに行ったのだが、半ズボンでもそれほど寒さを感じなかったことがそれを証明している。来週からは最低気温が2度~4度で推移するようなので、少し寒さが増す形となる。来週から大学に行く際には、ようやくジャケットを羽織っていく必要があるだろう。今日のジムでのトレーニングは、Vision FitnessのトレッドミルのSprint8のプログラムのレベル17はもうかなり板につき、安定したパフォーマンスを発揮できるようになっていることを感じた。当然その日の体調や精神状態によって若干の変動はあるものの、そうした変動を見込んでも、このレベルはもう十分にこなせている感じである。今日は最後のラウンドで、時速18.5kmまで速度を上げ、来るレベル18以降のレベルに少しずつ適応させる工夫をしてみた。本来は5ラウンドから8ラウンドまでは時速16.9kmなので、今日ほどに速度を上げる必要はないかもしれないが、ラウンド7から少し速度を上げることを試し、レベル18に備えたいと思う。今日も先客はおらず、自分でジムのフロアの明かりをつけたが、途中のラウンドあたりで1人男性が入ってきて、隣のトレッドミルでトレーニングを開始した。近くに人がいることによって、普段の意識状態とは違い、他者の存在があるからこそ、普段とは力の発揮のされ方に変化が見られることも興味深い現象であった。
今日は大学に行く必要がないので、家で研究を前に進めていこうと思う。とは言え、現状進められるプロセスをほぼ自ら進めており、ここからは少し教授陣たちのフィードバックが必要なフェーズにあるものが多いし、ILLのサービスから日本語の文献のPDFを2つほど送ってもらうことを待っている状態でもある。そうしたことを鑑みると、自分で行える箇所をさらに進めていくために必要な2つの文献が揃ってから、研究を前に進めたいと思う。それは今日か明日には届くのではないかと思うので、楽しみに待ちたい。それを踏まえて、今日は仏教研究以外の事柄に着手しよう。新たに協働が始まるある会社さんとの契約書を精査することと、DHBRで連載中の記事の執筆・編集を進めていければと思う。エディンバラ:2026/10/29(木)06:33
19455. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、今は亡き愛犬と楽しく戯れていた。愛犬と自宅で遊んだ後に、一緒に散歩に出かけることにした。その時に、普段散歩する公園ではなく、あえて人通りが多い街中を散歩することにした。見慣れた街ではあったが、愛犬と散歩することで気持ちが違ったのか、これまで見過ごしていた街の素晴らしさを随所に発見した。愛犬も普段とは違うルートに刺激を得ているのか、とても嬉しそうな表情を終始浮かべているように見えた。散歩の途中でふと、こうして自分は慣れ親しんだ街を歩いているが、異国の地での生活がもう目の前に迫って来ていることをふと悟った。それは自分にとって重要な挑戦であったし、自分の人生は絶えず異国性と隣り合わせで形成されていくものだという認識があった。新たな挑戦が始まると、愛犬とはしばらく会えそうになかったが、それでも彼は自分の心の世界の中に居続けるという確信があった。その確信さえあれば、自分はこの世界のどこにいても、そして宇宙のどこにいても、自らの固有性を失わず、輝き続けられるだろうと思った。
もう一つ覚えているのは、母校の学士課程に再入学するために、大学入試を受けている場面である。卒業して15年となる節目でもう一度母校に通いたいという思いが湧き立ち、大学入試に向けて準備を進めていたものの、実際には昨年は不合格になり、今年も結果はどうも振るわなそうであった。卒業生の再入学に際しては入試要件を変えた方が良いのではないかと思い、それは卒業生にとっても、大学側にとっても意味のあることに思えた。依然として旧態依然とした入試制度を持っている母校及び日本の大学にやはり幻滅感を覚え、今後は入試を受けることはやめにした。自分には、日本の教育の選抜試験では測定できない才能があることを自分は知っており、母もそれを認識し、自分の才能を伸ばすことへの応援をこれまでも、今も、そしてこれからも行ってくれることに感謝の念を改めて持った。エディンバラ:2026/10/29(木)06:46
19456. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、一見すると異なる二つの物語から構成されているが、その深層には、自分の存在を支えるものは何か、そして自分の価値を決定する権限はどこにあるのか、という共通の問いが流れているのかもしれない。愛犬との散歩と母校への再入学は、それぞれ愛情と評価という異なる回路を通じて、自分の固有性を再発見する心の営みを象徴しているように思われる。亡き愛犬との再会は、失われた過去が現在の生命を養い続けるという、時間の不思議な重なりを表しているのではないだろうか。愛犬はもはや物理的世界には存在しないが、夢の中では生き生きと自分に寄り添っている。これは、愛する存在との関係が、その不在によって消滅するのではなく、自分の内面に姿を変えて生き続けることを意味しているのかもしれない。愛犬は過去の記憶というより、自分の存在を内側から照らす小さな太陽なのである。興味深いのは、いつもの公園ではなく、あえて賑やかな街中を選んだことである。公園が慣れ親しんだ安心の領域を象徴するならば、街は未知の他者や偶然との出会いに満ちた開かれた世界を象徴しているのかもしれない。しかも、愛犬と歩くことで、見慣れた街が初めて訪れる土地のように輝き始める。これは、世界の新しさが必ずしも場所の変化から生まれるのではなく、世界に向ける眼差しの変化から生まれることを示唆しているようである。異国への旅立ちを意識する場面も象徴的である。自分にとって異国性とは、単に国境を越えることではなく、既知の世界を絶えず未知の世界へと開いていく生き方そのものなのかもしれない。愛犬が心の中に存在し続けるという確信は、外的環境がどれほど変化しても、自分の存在を支える関係性は失われないという内的な安定を表しているのだろう。宇宙のどこにいても輝けるという感覚は、固定された場所に根を張る樹木ではなく、根そのものを携えて旅する生命の姿を思わせる。一方、母校への再入学という第二の夢は、自分の価値を外部の制度に認めさせようとする試みと、そこからの解放を描いているように思われる。卒業から15年を経て再び入試を受けることは、過去の自分が通過した門を、成長した現在の自分がもう一度くぐろうとする行為なのかもしれない。しかし、その門は依然として昔の物差しで人間を測ろうとしている。ここには、発達し続ける人間と、変化しにくい制度との間に生じる根本的な緊張が表れているようである。入試を断念する決断は、敗北ではなく、自分の可能性を測定する権限を制度から取り戻す象徴的な行為と解釈できるだろう。母親の変わらぬ理解と応援は、愛犬の存在と響き合っている。両者は、自分の価値が成果や合否によって決定される以前から、自分の存在を肯定してくれる関係を象徴しているのかもしれない。こうして見ると、二つの夢は美しい対称性を持っている。愛犬との散歩では、外の世界が変わっても内なる愛情は失われず、母校での試験では、外からの評価が得られなくても内なる才能は失われない。自分の存在を支えるものは、過去への所属でも制度からの承認でもなく、変化の中で育まれてきた関係と能力なのであろう。この夢は、自分の人生が新しい土地へと展開するなかで、帰る場所を失うのではなく、自分自身が帰る場所になっていくという、静かな成熟の物語なのかもしれない。エディンバラ:2026/10/29(木)06:59
19457. 良遍の教義的調停を通じて、仏教研究の方法を考える
エディンバラ大学の仏教研究手法のコースのResearch Essayについて、ここ数日でかなり研究を進めることができた。3,000語のエッセイではあるが、一次資料の精読、先行研究の検討、哲学的な論証の再構成、そして研究方法そのものの批判的評価に取り組んできた。現在は第3稿まで完成し、ようやく教員からのフィードバックを得る段階に入った。今回取り上げたのは、鎌倉時代の法相僧、良遍(1194–1252)の『真心要決』である。中心となる問いは、良遍が一乗と五姓各別という、一見すると相容れない教義をどのように調停しようとしたのか、というものだ。一乗の教えは、すべての衆生を成仏の可能性から排除しないように見える。一方、五姓各別では、衆生の種姓や修行の能力に違いがあり、成仏に関して制約を受ける者もいる。この二つを、良遍はどのように両立させようとしたのだろうか。『真心要決』では、三性門と三無性門という二つの観点が重要な役割を果たしている。良遍は、理の観点から普遍的な仏性を肯定する一方で、事の観点では成仏に必要な条件の違いを認めている。最初は、理と事を異なる次元として区別すれば、二つの教義の矛盾は解消できるようにも思えた。しかし、原典を読み進めるにつれて、それほど単純ではないことがわかってきた。良遍は理と事を完全に切り離しているわけではない。むしろ、その不即不離を強調している。しかも、すべての衆生が成仏すると述べる一方で、ある種の衆生については「終不能成」とも記している。単に異なる観点から述べているというだけで、この緊張関係を十分に説明できるのだろうか。ここで、哲学的分析の重要性と限界が見えてきた。哲学的分析によって、二つの主張がどのような条件のもとで論理的に両立しうるのかを明らかにできる。しかし、現代の研究者が整合的な説明を作り上げることと、良遍自身がその説明を提示していたことは同じではない。そのため、今回の研究ではTextual AnalysisとPhilosophical Analysisを組み合わせた。前者は原文の語句、引用経典、文脈、異本を確認する。後者は、そこから再構成された議論の前提や推論を検証する。実際、原文の「三世門」と「三性門」の関係を調べる過程では、京都大学所蔵の写本にも「三世門」が見られることがわかった。都合よく誤植として修正することはできない。また、「行相」や「成佛機」といった語句も、訳し方によって哲学的な結論が変わりうる。このような問題は、哲学的な整合性だけを追求していたら見落としてしまうだろう。研究を進めるなかで、三つの解釈を比較することにした。Reading Aは、理に基づく普遍的な成仏の肯定と、事における修行上の制約を、異なるが関連する説明として理解するものである。Reading Bは、二つの教説が異なる救済論的・実践的な機能を果たすという解釈である。Reading Cは、最終的にはすべての衆生が必要な条件を獲得し、実際に成仏するという、より強い解釈だ。現時点ではReading Aが最も有力だと考えている。ただし、Reading Cが間違っていると証明したわけではない。その解釈を支持するための十分な根拠が、今回の対象箇所からは得られていないということだ。そして今日までの研究で、とりわけ大きな進展があった。以前から探していた山崎慶輝の1959年の論文「良遍の唯識教学の特異性―事理の不即不離に関連して」を入手できたのである。山崎は、理を事とは別に存在する実体として捉えるのではなく、縁起する諸現象の真理として理解している。また、普遍的な理仏性があるからといって、成仏に必要な無漏の種子やその他の条件がすべて備わるわけではないことも説明している。これは非常に重要な区別だ。あるものが成立するために必要な基盤が存在することと、そのものが実際に成立するための十分な原因が存在することは同じではない。この区別によって、良遍の教義的調停には、単なる言葉の使い分け以上の哲学的な根拠があることを理解できた。良遍自身も、修行の達成段階とは異なる観点から仏と呼ぶ理由を説明しながら、修行の段階や因果的条件を維持している。もっとも、山崎の先行研究が得られたことによって、自分の解釈が完全に証明されたわけではない。山崎の議論もまた、複数の一次資料を組み合わせた解釈であり、その妥当性を検討する必要がある。ここまで研究を進めてきて、興味深いことに気づいた。論理的な無矛盾性、教義的調停の妥当性、歴史的な著者への帰属、そして実際の歴史的受容は、それぞれ異なる問題なのだ。ある説明が論理的に整合的であることは、それが良遍自身の議論だったことを意味しない。良遍自身がその議論を提示していたとしても、それが異なる教義の要求を十分に満たしたとは限らない。さらに、良遍が教義的調停に成功したとしても、当時の他宗派がそれを受け入れたことにはならない。一つひとつの主張に、それぞれ異なる証拠が必要になる。考えてみれば、今回の研究プロセスそのものが、エッセイの主題を具体的に示している。哲学的なモデルを立て、原典によってその限界を発見し、再び哲学的に検討する。先行研究によって解釈が強化されることもあれば、当初の理解を修正する必要も生じる。Textual AnalysisとPhilosophical Analysisは、単純に役割を分担するだけではない。互いの行き過ぎを修正しながら、研究者がどこまで主張できるのかを明らかにしてくれる。ここに、今回のResearch Essayの最も重要な方法論的な成果があるように思う。一方、まだ考えるべき問題も残っている。そもそも、教義的調停が成功したと判断するために、どのような基準を設けるべきなのだろうか。論理的整合性を重視しすぎると、中世仏教の解釈学や宗教的実践の意味を見失うかもしれない。逆に、宗教的な意義を尊重するあまり、論証そのものを批判的に評価しなくなるのも問題だ。この点については、Week 11の発表で先生たちに意見を伺いたい。エディンバラ:2026/10/29(木)12:56
19458. クラシックギターのグレードとサグレラスの教則本――友人イーサンとの新たな共通点
先日、友人のイーサンが話していたクラシックギターの腕前について、改めて考えてみた。彼は4、5年ほどギターを学んでおり、英国の検定制度で8段階中のグレード5程度だという。仏教を共に学ぶ友人が、自分と同じようにクラシックギターを愛好しているというだけでも嬉しいが、その言葉を耳にして、彼が普段どのような曲を弾いているのか、ますます知りたくなった。英国で広く知られるABRSMやTrinityのグレード5は、一般に中級程度の演奏力を示す水準である。単に音符を追えるというだけでなく、旋律と伴奏を弾き分け、音色やフレージングにも気を配りながら、独奏曲をまとめ上げていく力が求められる。ただし、グレード5だからといって、あらゆる中級曲を自在に弾けるわけではないし、八段階の五番目という数字を、単純に技術の達成率へ置き換えることもできない。自分にとって馴染み深いサグレラスの教則本に照らしてみると、おおまかな感覚として第3巻の後半から第4巻に取り組む辺りなのかもしれない。サグレラスは巻を追うごとに、左右の指の独立性、ポジション移動、複数の声部の扱いなど、演奏上の課題を段階的に深めていく。しかし、英国のグレード検定とサグレラスの各巻には公式の対応表があるわけではない。前者が課題曲の演奏に加えて音楽的な完成度を評価するのに対し、後者は具体的な技巧を積み上げる教材でもあるため、両者を一対一に対応させることには限界がある。サグレラスの練習曲を思い浮かべると、短い曲の中に実に多くの学びが凝縮されていることに気づく。右手のアルペジオが安定していても、左手の移動で旋律が途切れてしまうことがある。逆に、運指は正確でも、各声部の表情をつける余裕がない場合もある。そうした小さな課題を一つずつ乗り越える営みこそ、楽器を長く学ぶ醍醐味なのだろう。巻数や資格の数字は現在地を示す地図にはなるが、実際に歩いてきた道の豊かさまでは語ってくれない。そもそも、ギターの技量とは一本の物差しで測れるものではないだろう。難しい速いパッセージを滑らかに弾く力と、ゆったりした旋律を美しく響かせる力は、重なり合いながらも別の側面を持つ。音色に敏感な演奏家もいれば、声部の構造を鮮やかに捉える演奏家もいる。イーサンが建築一家に育ち、ミニマリズムの美学を研究してきたことを思うと、彼がどのような間合いや響きを大切にするのかも気になってくる。もちろん、研究上の関心から演奏の特徴を決めつけることはできないが、音楽の好みについて語り合うきっかけにはなりそうである。次に会ったときには、どの教則本を使い、どの作曲家の作品を好んで弾いているのか尋ねてみたい。同じ曲を弾いたとしても、そこに現れる音楽は決して同じではない。大学で交わす仏教哲学の議論とはまた違う形で、ギターを通じて互いの感性に触れられるかもしれない。人と人との共通点は、発見された瞬間に完成するものではなく、その後の対話によって少しずつ豊かになるものである。先日知ったグレード5という小さな情報が、これから新しい音楽的交流の扉を開くのだとしたら、何とも楽しみなことである。エディンバラ:2026/10/29(木)15:56
19459. 無我から倫理的変容へ、仏教倫理研究の新しい方向性
今日は、仏教倫理のファイナルペーパーについて、ポール・フラー博士からいただいたフィードバックを改めて考えた。当初の構想は、無我を徹底すると倫理的行為の主体が消えてしまうのではないか、という疑問から始まっていた。意図し、行為し、業の結果を受け取り、修行を通じて変わっていくのは、いったい誰なのか。その問いに対して、中観の空によって主体の実体化を避け、護法系唯識の種子・薫習・阿頼耶識によって倫理的連続性を説明するという構成を考えていた。しかし、博士のコメントは問題の立て方そのものを揺さぶるものだった。実体的な自己が存在しないことは、倫理にとって解決すべき困難なのだろうか。むしろ、自己を固定的な存在として捉えないことが、倫理的行為を可能にする積極的な条件なのではないか。これまで自分は、無我であっても道徳的責任は成立すると論じようとしていた。しかし、無我の理解は道徳的責任や他者への配慮に何をもたらすのか、と問う方が、仏教倫理学として一段深い議論になるのかもしれない。この転換によって、中観の役割も少し違って見える。空は単に、実体的な行為者など存在しないと告げる理論ではない。人間は縁起によって成立するからこそ、善人や悪人という固定的な本質に閉じ込められず、変容しうる。ただし、自己に実体がないと理解しただけで、他者を助ける義務が自動的に生じるわけではない。自己と他者の区別を絶対視しないことと、他者の苦しみに応答すべき理由を示すことは、区別して考える必要がある。授業で読んだシャーンティデーヴァの慈悲をめぐる議論とも、ここで再び向き合えそうだ。唯識の役割は、こうした理解を実践の時間的な広がりへと接続することにある。過去の意図や行為は種子として将来の傾向に関わり、繰り返される実践は薫習を通じて習慣を変えていく。阿頼耶識を不変の自己に置き換えるのではなく、条件づけられ、変わり続ける連続性として理解する。倫理とは、すでに完成した主体が正しい選択をすることだけではなく、行為の積み重ねによって、その主体のあり方自体を変容させていく営みなのだろう。もっとも、因果的につながっているという事実と、道徳的責任を負うべきだという判断は同じではない。種子や薫習が説明するのは、行為がどのように将来へ作用するかという仕組みであって、なぜ善を選ぶべきかという規範的理由のすべてではない。だからこそ、今回の論文では、無我、意図、因果的連続性、倫理的変容の関係を混同せずに考えたい。無我でなければ真の倫理は不可能だ、と言い切ることにも慎重でありたい。それは博士が検討を促してくれた仮説であって、証明された結論ではない。一時は、今回のエッセイで良遍の独自の倫理思想まで扱おうかとも考えた。しかし、良遍が護法系唯識をどのように受け継ぎ、大悲や誓願へと結びつけたのかを論じるには、原典の精読と他の思想家との比較が欠かせない。3000語で急いで結論を出すより、まず中観と唯識を通じて理論的な問いを磨き、その後の独立した査読論文で良遍に向き合う方がよいと判断した。今回のフィードバックによって、研究の方向が否定されたわけではない。むしろ、倫理主体がどのように成立するかという問いから、その主体がなぜ、どのように倫理的に変容しうるのかという問いへと、研究の重心が移ったのだ。次は資料を絞り、それぞれの思想から本当に言えることと言えないことを見極めながら、3000語の中で一つの説得力ある議論を完成させたい。エディンバラ:2026/10/29(木)18:44
Today’s Letter
I should not rush my research or other work. Steady, gradual progress is much more important than rapid progress. I should be careful not to overwork myself every day. Making steady progress is a wise approach. Edinburgh, 10/29/2026



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