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【エディンバラ大学からの便り】19450-19453:2026年10月28日(水)

4 日前
読了時間: 10分


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タイトル一覧

19450

本来的な覚りと修行の因果性――良遍『真心要決』の哲学的独創性を探る

19451

今朝方の夢

19452

今朝方の夢の振り返り

19453

仏教と暴力


19450. 本来的な覚りと修行の因果性――良遍『真心要決』の哲学的独創性を探る

                                         

一昨日、新たに執筆を計画している良遍『真心要決』に関する論文の構想を、学術的な独創性という観点から大きく深めることができた。これまでの研究質問は、本来的な覚りがすでに備わっているのであれば、なぜ段階的な修行が必要なのかというものであった。しかし、この問い自体は東アジア仏教において長らく論じられてきたものであり、良遍自身もすでに明確に認識していた問題である。したがって、研究者として目指すべきなのは、この逆説を改めて指摘することではなく、良遍がいかなる哲学的な仕組みによって解決しようとしたのかを解明することだと考えるようになった。今回の再検討で特に注目したのは、『真心要決』に見られる理と事の区別である。良遍は、理における成仏は速やかであり、事における成仏は段階的であると述べている。この記述は、覚りの本来的なあり方と、それを実現する修行の過程が、異なる観点から説明されている可能性を示している。さらに興味深いのは、良遍が三性門と三無性門という法相教学の二つの枠組みを用いて、この問題に取り組んでいることである。三無性門では真如の非生滅性が重視される一方、三性門では智慧の成熟や煩悩の除去という具体的な変容を説明できるのではないだろうか。もしそうであれば、良遍は本来的な覚りと修行による変容を単純に対立させるのではなく、異なる説明の枠組みを通じて両立させていたことになる。ただし、こうした解釈が原典全体によって支持されるかどうかは、今後さらに慎重に検証する必要がある。ここで自分が特に関心を抱いているのは、修行によって実際に何が変わるのかという問題である。覚りそのものが新しく生み出されるわけではないとしても、聞・思・修を通じて智慧が成熟し、煩悩が除去されるのであれば、修行には明確な因果的な働きがある。これは、自分が成人発達理論の研究を通じて探究してきた、人間の能力や認識の枠組みはいかに変容するのかという問いとも深く響き合っている。ただし、現代の発達理論を良遍の思想に安易に投影することなく、まずは中世日本の仏教哲学として、その議論を正確に理解したい。さらに重要なのは、こうした解釈を五姓各別説との関係から検証することである。すべての衆生に理の仏性が備わっているとしても、すべての衆生が実際に成仏するとは限らない。この法相教学に特徴的な立場は、本来的な覚りと修行の関係を考えるうえで、極めて重要な制約条件になるだろう。また、三無性門において菩提や涅槃さえも究極的には捉えられないという議論は、覚りを不変の実体として理解することへの警鐘とも読める。ここには、空の思想と実践的な変容の因果性をいかに両立させるかという、さらに深い哲学的問題が潜んでいるように思う。今回の構想の修正によって、論文の中心は、良遍が本来的な覚りと修行を両立させたという一般的な主張から、その両立を可能にする教義的な論理構造の解明へと移った。今後は蓑輪顕量氏をはじめとする先行研究を精査し、良遍独自の貢献と先行する法相教学からの継承を慎重に区別したい。良遍の思想を研究することは、過去の仏教思想を歴史的に再構成するだけではない。人間が本来的に有しているものと、長年の実践によって初めて実現されるものとの関係を問い直すことでもある。自分にとって今回の論文は、日本法相唯識の哲学的な豊かさを英語圏の研究者に伝えると同時に、人間の変容という長年の研究課題を新たな地平から深める、大切な知的挑戦になりそうである。エディンバラ:2026/10/28(水)06:14 


19451. 今朝方の夢

                                

今朝方は夢の中で、ロサンゼルスを走る高速列車の中にいた。時刻は朝の通勤中の時間帯だったが、列車は混んでおらず、隣に座っていたロス在住の外国人の知人曰く、この列車は快速で、賃金が他の列車と比べて少し高いので、そうしたことから割と裕福な人しか乗ることができないために空いているのだろうと教えてもらった。日本の新幹線と同等とまでは言わないが、速度も内装もそれと似ている感じがした。次々と途中駅を飛ばしていき、目的地に着実に向かう列車の中で、窓の外の景色を眺めながら、時折知人の話に耳を傾ける形で快適に過ごしていた。彼の話の中で一つ驚いたのは、この列車が日本の神戸に続いているということである。そんな長距離列車だったのかと驚いたし、何より鉄道が海を渡って日本にまで敷かれているということに驚いた。しかし、よくよく彼の話を聞いてみると、ロスのこの鉄道会社と日本でサービスを展開する会社が同じだけであり、厳密には鉄道がアメリカから日本に続いているわけではないようだった。


もう一つ覚えているのは、体育館のような場所で、日本で卒業した大学のOB・OGを集めて講演会が開かれていた場面である。壇上に登壇することになっていたのは、母方の叔父であり、叔父は自分と同じ大学出身ではないが、どういうわけか講演者に選ばれた。アナウンスがあり、建物の入り口から入ってきた叔父は極度に緊張しているのか、それとも酔っ払っているのか、地面を這いつくばって壇上に向かっていた。その姿を見て、自分は肩を貸す必要があると思ったので、叔父のところに駆け寄って、そこから一緒に壇上に向かった。壇上のマイクの前に立った叔父は、そこからゆっくりと話し始め、自分は引き続きおじを見守る形で後ろに立っておこうと思った。エディンバラ:2026/10/28(水)06:26 

19452. 今朝方の夢の振り返り                                       

今朝方の夢は、一見すると無関係な二つの場面から構成されているが、その深層には、人生の進路を切り拓くことと、他者が自らの足で歩むことを支えるという、異なる二つの発達のあり方が描かれているのではないだろうか。前半に登場する高速列車は、自分が現在歩んでいる知的探究の道を象徴しているように思われる。列車はすでに敷かれた線路の上を高速で走り、途中駅を次々と通過していく。これは、自分が長年積み重ねてきた経験や学習が一つの軌道を形成し、以前よりも迷いなく目的地へ進めるようになったことを示唆しているのかもしれない。朝の通勤時間帯にもかかわらず車内が空いている点も興味深い。多くの人が混雑した列車に乗る一方、自分は静かな車内で景色を眺めている。これは他者との競争から距離を取り、自分自身の時間と精神的な余白を確保する成熟の表れとも解釈できるだろう。ただし、その快適さには通常より高い運賃が必要である。これは、専門的な知識や独自の人生を築くためには、時間、労力、経済的資源など、相応の代償を引き受けなければならないという認識を映しているのではないだろうか。車窓から眺める風景は移り変わるが、列車そのものは揺るがない。外界の変化に接しながらも、自分の進む方向を見失わない精神の姿が、そこに重ねられているように思われる。ロサンゼルスから神戸へ鉄道が続いているという話は、さらに象徴的である。海を越えて線路が延びるという不可能な光景は、自分の知的世界において、国境や文化の境界が次第に意味を失いつつあることを暗示しているのかもしれない。しかし、実際には鉄道が物理的につながっているのではなく、運営会社が共通しているだけだった。この訂正は重要である。異なる世界を結びつけるものは、必ずしも一本の連続した道ではない。表面上は離れていても、背後に共通する原理や構造が存在するのである。これは、異なる思想や文化の間に、安易な同一性ではなく、より深い関係性を見いだそうとする自分の探究姿勢を反映しているのではないだろうか。後半では、夢の速度が一変する。高速で進む列車から、地面を這う叔父へと視点が移るのである。ここには、前進する能力と、前進できない存在に寄り添う能力との鮮やかな対照がある。叔父が卒業大学とは直接関係のない講演会に招かれることは、社会的な資格や所属だけでは測れない人間の価値を象徴しているのかもしれない。壇上に向かって這う姿は、威厳を失った存在のようにも見えるが、同時に、弱さを抱えながらも自分の言葉を届けようとする人間の根源的な努力を表しているとも考えられる。そこで自分は、叔父に代わって講演するのではなく、肩を貸して壇上まで同行する。そして、叔父が話し始めると、その背後で見守ろうとする。この行為には、他者の主体性を奪わず、その人が自らの声を発するための条件を整えるという、成熟した支援のあり方が象徴されているように思われる。二つの場面を結ぶのは、速度ではなく方向である。前半では自分が目的地へ運ばれ、後半では自分が他者の目的地への歩みを支える。夢は、自分の発達が単に遠くへ速く進むことから、他者が自らの歩幅で進める世界をつくることへと広がりつつある可能性を描いているのではないだろうか。高速列車の窓から世界を眺めていた自分が、最後には壇上の背後に静かに立つ。そこには、人生の成熟とは先頭に立つことだけでなく、誰かが自分の声で語れるよう、あえて一歩後ろに立つことでもあるという、静かな転換が示されているように思われる。エディンバラ:2026/10/28(水)06:40


19453. 仏教と暴力 

                               

今日の仏教倫理の授業のテーマは、仏教と暴力だった。第6週に入り、教室に姿を見せる学生の数は少しずつ減っている。学期の初めには賑やかだった空間に、いくつかの空席が目立つ。教室が静かになったぶん、かえって一つの疑問が自分の中で大きく響いた。仏教における暴力は、そもそも何が仏教的なのだろうか。歴史を振り返れば、仏教徒もまた戦争に参加し、国家に協力し、異なる集団への敵意を正当化してきた。しかし、宗教的権威によって集団の境界を引き、敵を危険な存在として描き、暴力を共同体の防衛と結びつける仕組み自体は、仏教に固有ではない。民族、領土、権力、不安、集団への忠誠といった要素は、ほかの宗教にも世俗の政治にも見いだせる。暴力の行動様式だけを観察しても、その宗教の特徴は見えてこないのではないか。そこで考えたいのは、暴力が起こる原因よりも、それがどのような言葉で正当化されるのかという問題である。仏教は不殺生を重んじ、慈悲を説く。それにもかかわらず暴力が許されるとき、そこでは何らかの解釈上の橋が架けられているはずだ。その橋を支える柱には、空性、無我、慈悲、方便、業といった、仏教の思想的資源が用いられることがある。たとえば大乗仏教には、菩薩が多数の人々を救い、加害者自身の重い悪業を防ぐために、あえて殺生を行うという物語がある。そこでは殺害という行為だけでなく、その意図や予想される結果が倫理的判断を左右する。暴力を慈悲の名で捉え直す論理は、単純な善悪二元論を揺さぶる一方で、危険な抜け道にもなりうる。自分の行為が真に慈悲から生じたのか、それとも怒りや恐怖を慈悲と呼び換えているだけなのか。誰が、何を根拠に、それを見分けられるのだろう。空性についても同様である。あらゆる存在に固定的な実体がないという教えは、本来、他者の苦しみを軽視することを意味しない。むしろ縁起への理解を通じて、苦しみへの応答を深める方向にも働きうる。それでも、もし「究極的には殺す者も殺される者も存在しない」という理解が、世俗的な苦痛や責任を消し去る口実として使われるなら、哲学は暴力を覆う薄いヴェールに変わってしまう。空性そのものが暴力を命じるのではなく、空性をどのように読み替え、現実の行為につなぐかが問題なのである。こう考えると、仏教的暴力の際立った特徴は、暴力の形態ではなく、それを正当化する教義的な文法に現れるのかもしれない。ただし慈悲による例外的な殺害の正当化も、他宗教の「より大きな善」の議論と完全に異なるわけではない。重要なのは、独自性を急いで宣言することではなく、似た構造の内部にある微妙な違いを見極めることだ。学生の少なくなった教室で、自分が持ち帰ったのは結論ではなく、問いの精度だった。仏教はなぜ暴力を生んだのか、と問うだけでは足りない。非暴力を理想とする思想が、どのような条件のもとで暴力を善行として語りうるのか。今日の授業は、その危うい境界を考える時間になった。エディンバラ:2026/10/28(水)11:37


Today’s Letter 

I was thinking about the conceptual framework used to justify violence in Buddhism. Any concept can be misunderstood, distorted, or weaponised. Even concepts intended to promote compassion can become tools for justifying harm. In this sense, every concept carries a potential danger of misuse. Edinburgh, 10/28/2026 

 
 
 

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