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【エディンバラ大学からの便り】19446-19449:2026年10月27日(火)

5 日前
読了時間: 10分


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タイトル一覧

19446

『中道事』を扱った英語論文の投稿用ドラフトの完成

19447

今朝方の夢

19448

今朝方の夢の振り返り

19449

虹・授業・絵画


19446. 『中道事』を扱った英語論文の投稿用ドラフトの完成 

                                         

時刻は午前6時を迎えた。闇と静寂に包まれた静かな朝の世界が広がっている。昨日、良遍に帰される『中道事』を扱った英語論文の投稿用ドラフトが、ひとまず完成した。題名は「Consciousness-Only as Great Compassion in the Chūdōji: Doctrinal Gates and the Norms of Hossō Affiliation」である。わずか二頁ほどの短い仏教文献を相手に、随分と長い時間を費やしてきた。しかし、文章を追えば追うほど、そこには単なる教義の説明以上の深淵な問いが潜んでいることが見えてきた。なぜ「唯識」という認識と存在の問題を扱う教えが、「大悲の法門」と呼ばれるのだろうか。『中道事』は、まず何が存在し、何が存在しないのかを三性説によって整理する。凡夫が思い描く遍計所執性を実在視せず、縁起による依他起性と、聖智が悟る円成実性を否定しない。存在をむやみに付け加えることも、認めるべきものを消し去ることも避ける。ここでの中道は、「有」と「空」の間を曖昧に取る折衷案ではない。言葉による二分法そのものに囚われないための、精密な思考の訓練なのである。続いて、清弁は空を観じることから無分別智へ、護法は有を認めることから猛利な悲願へとつながる二つの門が示される。この箇所が研究上の大きな焦点となった。『成唯識論』にも「猛利悲願」という文言が現れるが、そこでは菩提と有情を「実有」と執することが論じられる。一方、『中道事』は「許有」と記す。「許」と「執」、「有」と「実有」の違いを飛び越えれば、両者を同じ教説として簡単に説明できてしまう。だが、その近道こそ避けるべきだと感じた。窺基の注釈では、こうした執着の役割に修行段階による限界も示されている。さらに『奥理抄』は、慈悲が空に依って起こるとも述べる。慈悲を有だけの産物とみなすことはできないのである。では、『中道事』はどのようにして唯識と慈悲を結びつけるのか。鍵は、教義の説明から、法相宗に属する者の生き方への転換にあった。文章は「我等」と語り始め、護法の系譜に連なる自覚を示す。さらに、慈悲を重んじる菩薩になりたいという願いが述べられ、弥勒は祖師として、春日は宗派を守護する神として登場する。こうした帰属意識や宗教的権威を背景に、「この宗に入る者は慈悲を本とすべきだ」という実践上の要請が姿を現す。教義から倫理が機械的に演繹されるのではないところが興味深い。しかも、慈悲の出発点は大仰な行為ではない。わずかな施しや一瞬の憐れみから始めればよいという。思想の頂点に置かれた大悲が、日常の小さな振る舞いにまで降りてくる。そして「菩提心はただ慈悲である」という強い言葉が続き、『華厳経』の金剛の譬えや注釈の言葉が引かれる。ただし、それらの引用が直接「大悲の法門は唯識である」と述べているわけではない。この最後の同定を行うのは、『中道事』そのものなのである。今回の論文では、良遍の独創性を必要以上に称揚することを控えた。先行研究がすでに見いだした論点を尊重しつつ、どこまでが原典の言葉で、どこからが解釈なのかを丁寧に分けた。著者の確定や直接の引用関係など、答えの出ない問題も残る。それでも、唯識の学びが慈悲を基盤とする実践へとどう結びつけられるのか、その論理の歩みを少し鮮明にできた気がする。投稿へ向けた確認はまだ残るが、昨日はその一歩を静かに喜んだ。エディンバラ:2026/10/27(火)06:12


19447. 今朝方の夢

             

今朝方は夢の中で、見慣れない山間の土地にいた。そこにはワークショップを提供するための施設があり、そこで高校時代のあるクラスメートの友人と出会った。彼はそこで働いているらしく、なんと精神変容作用のあるアヤワスカを提供しているとのことだった。彼は南米からアヤワスカを作るのに必要な二種類の植物を取り寄せ、自分で品種改良をして別種の植物として一から育て、アヤワスカの飲み物をそれを必要とする人々に提供しているとのことだった。彼に価格を尋ねると、一杯がわずか4ユーロということで非常にお手頃な値段で提供されていることを知った。私も試しに一杯飲んでみたところ、これまで飲んできたアヤワスカに比べて圧倒的に飲みやすく、これであれば吐き気を催すこともないのではないかと思った。彼の品種改良に感謝し、そこから精神の変容が起こるまでしばらく待つことにした。気がつくと、小屋の中にいて、自分の足の指に豆ができていることに気づいた。横にいた中学校時代の体育教師の先生が、すぐさまナイフと消毒用のアルコールを持ってきて、サッと豆を切り落とし、アルコールをかけた。その作業はあまりにも一瞬のことだったので、それを拒む余地も受け入れる余地もなく、気づけば治療が終わっていた。ナイフで切られた時にも不思議と痛みは全くなく、アルコールをかけられてもしみることはなかった。


次に覚えているのは、クセの強い食べ物を意識的に食べ、そこから固有の栄養を得ていた場面である。それらの食べ物を食べると、気づけば自分は高級ホテルのレストランの中にいた。そこではアフタヌーンティーが提供されており、それに合わせて甘いパンやケーキなどが振る舞われていた。自分は普段そうした食べ物を全く食べないのだが、久しぶりにブラックコーヒーと合わせて甘いパンを食べてみようと思った。むしろ、それを食べたいと思っている自分がいたのである。注文を待っている間に辺りを見渡すと、多くの客たちが楽しそうに話をしている姿が目に入った。中にはレストランで小さな講習会をしている人たちもいて、くつろぎながら何かについて理解を深めようとしている彼らの姿に学びの本質を汲み取ったような気がした。エディンバラ:2026/10/27(火)06:27 


19448. 今朝方の夢の振り返り

                 

今朝方の夢は、精神的な成長を遂げるためには苦痛や困難を乗り越えなければならないという従来の発想から、喜びや自然な営みを通じて変容が生じるという新たな発達観への移行を象徴しているのかもしれない。夢全体を貫いているのは、変容のための努力が次第に軽やかになり、最後には学ぶことと楽しむことが一つに溶け合っていくという流れであるように思われる。見慣れない山間の土地は、既存の知識や経験の地図にはまだ描かれていない精神の領域を象徴しているのだろう。そこで高校時代の友人がアヤワスカを提供していることは、自分の過去に属する存在が、未知の未来への案内人として現れたことを意味するのかもしれない。興味深いのは、彼が南米の植物をそのまま使用するのではなく、品種改良によって新しい植物を育てている点である。これは、自分が外部から受け取った思想や実践を単純に継承する段階から、それらを自分自身の土壌で育て直し、独自の方法へと発展させる段階に入りつつあることを示唆しているのだろう。一杯4ユーロという価格にも象徴的な意味があるのかもしれない。かつては特別な犠牲や努力を必要とした精神的変容が、日常生活の中で容易に手に入るものへと変わり始めているのである。飲みやすく改良されたアヤワスカは、苦痛を変容の必要条件とみなす発想そのものからの解放を表しているように思われる。続いて登場する中学校時代の体育教師は、身体を通じて規律や鍛錬を教える存在である。しかし、彼が足の指の豆を一瞬で切除する場面では、自分には抵抗する機会も同意する機会も与えられていない。これは、意識的な努力や判断が介在しなくても、心身に蓄積された摩擦が自然に解消される可能性を象徴しているのかもしれない。足は人生を歩むための基盤であり、豆は歩み続けることで生じた小さな傷とも解釈できる。痛みのない治療は、成長の痕跡を苦しみながら抱え続ける必要がないことを伝えているのだろう。その後、クセの強い食べ物から固有の栄養を得る場面は、自分にとって異質な思想や経験を排除するのではなく、それぞれに含まれる価値を吸収する姿勢を表しているのかもしれない。ここでは精神的な成長が、何かを克服する行為ではなく、多様なものを消化して自分の一部にする営みとして描かれているようである。最後の高級ホテルのレストランは、それまでの山間の施設や小屋とは対照的な空間である。そこでは治療も修行も必要なく、人々が語り合い、食事を楽しみながら学んでいる。普段は避けている甘いパンを自分から食べたいと思ったことは、自己規律によって築いてきた生活の中に、遊びや快楽を迎え入れる余地が生まれたことを意味するのかもしれない。夢の構造を振り返ると、薬による変容、身体の治療、異質な栄養の摂取、そして社交的な学びへと、変容の舞台が徐々に日常へ近づいている。これは、精神的成長を特別な体験の頂上に求めるのではなく、日々の暮らしの平原に見いだす方向への転換を示しているのだろう。自分は今、険しい山道を登り続ける修行者から、歩くことそのものを楽しむ旅人へと変わりつつあるのかもしれない。夢の最後に現れたレストランは、その旅の終着点ではなく、学びと喜びが同じ食卓につく、新たな人生の出発点なのであろう。エディンバラ:2026/10/27(火)06:38


19449. 虹・授業・絵画  

                     

今日のエディンバラは風が強く、天候の移り変わりが激しい一日だった。突然雨が降り始めたかと思えば、雲の隙間から太陽の光が差し込み、美しい虹が空に架かっていた。天気雨という現象は、相反するものが同時に存在する自然の不思議を感じさせる。雨と晴れは必ずしも対立するものではなく、むしろ両者が共存することによって虹という美しい現象が生まれる。こうした光景を眺めていると、仏教哲学が説く縁起の思想を思い起こさずにはいられない。虹もまた、それ自体で独立して存在する実体ではなく、太陽光や水滴、観察者の位置など、さまざまな条件が重なることで現れる現象なのである。今日はジョナサン・スペンサー教授の授業で、スリランカにおける仏教ナショナリズムについて学んだ。仏教は一般的に慈悲や非暴力、執着からの解放を重視する宗教として理解されている。しかし、歴史的な現実に目を向けると、仏教が民族的アイデンティティや政治的権力と深く結びついてきたことが分かる。スリランカにおけるシンハラ仏教ナショナリズムは、宗教が共同体の文化や伝統を維持する力になる一方で、他者との境界を強化する力にもなり得ることを考えさせる事例である。ここには、仏教思想と仏教の歴史的実践を区別して考える必要性が表れているように思う。宗教が慈悲を説いているからといって、その信奉者が必ずしも慈悲深く行動するとは限らない。また、宗教的な帰属意識が人々に連帯をもたらす一方で、その連帯が排他性へと転化することもある。こうした問題を考えると、宗教を理解するためには、教義の哲学的分析だけではなく、それが政治的、社会的な文脈の中でどのように解釈され、利用されてきたのかを検討することが不可欠なのだろう。授業が始まる前には、建物の一階で友人のイーサンと出会った。彼は昨夜、絵画の制作に没頭していたらしく、今朝は4時に目が覚めたという。話をしているうちに、カンディンスキーやミロの作品が好きだと分かり、思いがけない共通点を発見した。仏教学を学ぶ友人と抽象絵画の好みまで似ているというのは、何とも嬉しいことである。カンディンスキーの絵画には、色彩や形態を通じて目に見えない精神的な世界を表現しようとする志向がある。一方、ミロの作品には、現実の対象を自由に変形させ、まるで夢の中を歩いているかのような世界を生み出す魅力がある。二人の作品を眺めていると、世界をありのままに見るとは何を意味するのか、そもそも人間は何を現実として経験しているのかという問いが自然に浮かんでくる。こうした問いは、唯識思想への関心ともどこかで通じ合っているように感じられる。今日という一日を振り返ると、自然、宗教、芸術という異なる領域が、不思議なほど緩やかにつながっていたことに気づく。空に現れた虹は、異なる条件が出会うことで生まれる美しさを教えてくれた。スリランカの事例は、共同体を形づくる境界が、ときに深刻な対立を生み出すことを考えさせた。そしてイーサンとの何気ない会話は、異なる人生を歩んできた人間同士が、芸術への感性を通じて自然につながれることを実感させてくれた。学びとは、教室の中で知識を獲得することだけではないのだろう。風の音に耳を傾け、空を見上げ、友人と言葉を交わすこともまた、世界への理解を深める大切な営みなのである。エディンバラ:2026/10/27(火)12:49


Today’s Letter 

I saw a rainbow on my way home. It reminded me of dependent arising: a rainbow appears through various conditions but has no inherent existence. In this sense, we are like rainbows. Edinburgh, 10/27/2026 

 
 
 

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