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【エディンバラ大学からの便り】19416-19419:2026年10月21日(水)

11 分前
読了時間: 9分


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タイトル一覧

19416

今日の計画

19417

今朝方の夢

19418

今朝方の夢の振り返り

19419

仏教倫理の五戒と、友人との思いがけない共通点


19416. 今日の計画 

                           

時刻は午前6時を迎えた。今日は珍しく、早朝より小雨が降っているようで、午前中一杯は雨が降るようだ。今日もまた午前9時からのクラスに向けて大学に行く必要があるので、傘を指していくことになるあろう。幸いにも雨風共に強くないようなので、折り畳み傘を指しながら歩いても問題なさそうである。今日はまず、1時間ほどの仏教倫理のレクチャーを受け、正午から同じコースの大学院生用のセミナーに参加する。午前中のレクチャーは、ポール・フラー博士とインタラクティブに行われることもあり、退屈することはない。今日もまた積極的に質問しながら、得られることをできる限り得たいと思う。レクチャーが終わったら、2週間前と同じく、仏教プログラムのメンバーでかつこのコースを受講しているゲイブとイーサンと一緒に、大学院生用の学習ルームに移動し、そこで会話を楽しみたい。会話の途中で昼食を早めに摂り、正午からのセミナーに備えたい。セミナーは隔週において開催され、今日が2回目である。前回はアメリカ人のジャニータが参加していなかったこともあり、ゲイブとイーサンと自分を合わせて3人だけの参加となった。非常に少人数であることから、常に発言するチャンスが溢れており、そのおかげでこちらも伝えたいこと・取り上げたいことを自由に話せることが有り難い。1時間ほどのセミナーを終えたら、指導教官の森里先生から案内いただいたワークショップに参加する。ちょうど京都大学から京都学派を研究している日本人の先生がお越しとのことで、その先生の話を聞きにゲイブと一緒にオールド・カレッジの方に移動して、ワークショップに参加して行こようと思う。このように、自分の研究分野を少しずつ横に広げていくことを意識した活動をこれからも無理のない範囲で継続していこうと思う。エディンバラ:2026/10/21(水)06:07 


19417. 今朝方の夢     


今朝方は夢の中で、見慣れない湖でブラックバスを釣っていた。私の近くには父と友人がいて、彼らと話しながら釣りを楽しんでいると、ルアーに当たりが感じられたので引き上げた。すると、立派なブラックバスが釣れたのだが、引き上げている最中にブラックバスの体が水中の岩にぶつかってしまったようで、体から血が出ていた。それを見て、随分とかわいそうなことをしてしまったと思い、父にルアーを口から外してもらっている間に、自分はブラックバスの体を治癒することにした。自分の手から不思議なヒーリングの力を発することができたので、それをブラックバスの体に当てていた。


次の場面では、今は亡きトイプードルの愛犬がミートボールほどの大きさになり、家の中を歩き回る愛犬の様子を見守っていた。愛犬は日本語を話すことができたので、見守るというよりも一緒に話しながら家の中を歩き回っていたと述べた方が正確かもしれない。ミートボールほどの大きさでは自力で超えられない箇所は、自分が手助けすることを行っていた。


その他には、風の音色を聞いていると、そこによく知っている楽曲が耳に流れてきて、そこから自分の中で楽想が芽生えたのですぐに作曲をすることにした場面があった。自分はどうやら日々を生きる中で、この世界を交流することを通じて生み出される音楽に敏感であり、それを作曲として曲の形にすることができる深層的な能力を持っているようだった。この夢に続いて、日本語での高度な意思決定に特化したAIを開発する場面があったことを覚えている。自分はAIの専門家ではないが、知性発達の専門家ではあるので、その観点から開発に携わることになり、無事に開発されたそのAIは非常に高度で、人々そして社会に貢献するものになっていたことを嬉しく思った。エディンバラ:2026/10/21(水)06:22


19418. 今朝方の夢の振り返り 

                               

今朝方の夢は、自分の内側で育まれてきた知性が、生命への慈悲、世界との共鳴、そして社会への創造的貢献へと展開していく過程を象徴しているのかもしれない。興味深いのは、夢の各場面において、自分が何かを獲得する存在から、傷ついたものを癒やし、小さなものを支え、世界に潜む可能性を形にする存在へと変容している点である。見慣れない湖は、自分がまだ十分に探索していない無意識の深みを象徴しているのではないだろうか。そこから釣り上げられた立派なブラックバスは、深層意識に眠る力強い可能性の具現化とも考えられる。しかし、その魚が岩に衝突して傷ついたことには重要な意味がありそうである。自分が未知の可能性を意識の世界へ引き上げようとするとき、その行為自体が対象を傷つけることもあるという逆説である。これは、知性によって世界を理解しようとする営みが、ときに生命の繊細さを損なう危険性を暗示しているのかもしれない。そこで自分が魚を治癒しようとしたことは、分析する知性から、生命をいたわる智慧への転換を示唆しているように思われる。父が針を外し、自分が傷を癒やすという役割分担も、受け継がれた力と新たに育まれる慈悲との協働を表しているのではないだろうか。亡き愛犬が極端に小さくなって現れる場面は、生命の価値が大きさや能力によって決まらないことを象徴しているのかもしれない。かつて自分と生活を共にした存在が、今度は自分の手助けなしには障害を越えられない姿で現れる。それでも愛犬は言葉を話し、自分と対等に交流する。ここには、身体的な弱さと精神的な豊かさが矛盾なく共存する世界観が表れているようである。愛犬の小さな身体は、失われた生命が記憶という小宇宙の中で生き続けることの比喩とも解釈できよう。風の音から音楽が生まれる場面では、自分と世界との関係がさらに変化しているように見える。ここで自分は世界を観察する主体ではなく、世界そのものを楽器として響かせる共鳴体になっているのかもしれない。作曲とは、外界から受け取った振動を内面で熟成させ、新しい秩序として世界へ返す営みである。これは、自己と環境が互いを形成し続ける創造的循環を象徴しているのではないだろうか。最後のAI開発も、この循環の延長線上に位置づけられそうである。自分の専門知を人間以外の知性と結びつけ、社会に役立つものを生み出す姿は、個人的な能力の完成よりも、関係性の中で智慧を働かせることへの志向を示しているのかもしれない。夢全体を貫くのは、生命を傷つけずに世界と関わることは可能か、という根源的な問いであるように思われる。湖の魚、亡き愛犬、風の音楽、人工知能は、一見異なる存在でありながら、いずれも自分との交流によって新たな意味を帯びている。自分という存在は、世界から何かを取り出す漁師であると同時に、傷を癒やす者であり、微かな声を聴く者であり、未来を作曲する者でもある。この夢は、知性の成熟とは世界を支配する能力の拡大ではなく、世界の多様な生命や可能性が、それぞれの声で響けるようにすることなのだと、象徴的に語りかけているのかもしれない。エディンバラ:2026/10/21(水)06:33


19419. 仏教倫理の五戒と、友人との思いがけない共通点

     

今、エディンバラ大学神学部の図書館にいる。今日の仏教倫理の授業では、仏教における五戒(Five Precepts)について学んだ。不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒という五つの戒めは、仏教徒の倫理的実践を支える基本的な指針である。しかし、ポール・フラー博士によれば、これらの戒めの典拠を単一の経典に特定することは難しいらしい。この指摘は、仏教倫理の歴史的形成を考えるうえで興味深いものであった。五戒は、ある一つの経典で初めて体系化され、そのまま仏教世界全体へ広まったというよりも、複数の経典や律の伝承の中で繰り返し説かれ、共有されてきた倫理的規範と理解するのが適切なのだろう。実際、初期仏教文献には五戒に相当する個々の戒めや、その組み合わせがさまざまな形で登場する。したがって、五戒を理解するには、その内容だけでなく、異なる文献や共同体において、それらがどのように位置づけられてきたのかを検討する必要がある。このことは、仏教倫理を固定的な規則の集合としてではなく、歴史的に形成され、解釈され続けてきた実践の伝統として捉える視点につながるように思う。とりわけ唯識思想の観点から考えると、戒めを守ることは単に外面的な行為を制限することではなく、反復的な行為を通じて心の習慣や種子を変容させる営みとしても理解できるだろう。五戒の歴史的成立という問題が、思いがけず自分の関心である倫理的形成の問題へと結びついた。授業後のカフェでの会話では、友人のイーサンについても新しい発見があった。彼は建築に携わる一家に生まれ、学士論文ではミニマリズムの美学を構造主義と実存主義の観点から分析したという。建築、ミニマリズム、構造主義、実存主義という組み合わせは、実に興味深い。建築におけるミニマリズムは、単に装飾を削ぎ落とすことではなく、空間を構成する要素同士の関係や、その空間を生きる人間の経験を問い直す営みでもあるだろう。構造主義が要素間の関係に注目する一方、実存主義はその空間の中で生きる主体の経験や意味形成に光を当てる。両者を通じてミニマリズムを検討するという研究には、なかなか独創的な可能性があるように感じられた。さらに驚いたのは、イーサンもクラシックギターを4、5年ほど演奏しているということである。仏教研究という共通の関心を通じて出会った友人が、音楽の世界でも自分と接点を持っていたとは思わなかった。クラシックギターは、一つひとつの音の響きや、音と音の間に生まれる静寂を大切にする楽器である。その意味では、彼が研究してきたミニマリズムの美学とも、どこか深いところで通じ合うものがあるのかもしれない。今日の出来事を振り返ると、五戒の文献的起源を単一の経典に還元できないことと、イーサンという一人の人間を仏教学の学生という属性だけでは捉えきれないことが、不思議な共鳴を生んでいるように思う。仏教の思想も、人間の個性も、一つの起源や固定的な本質から説明し尽くせるものではない。さまざまな歴史、経験、関係性が重なり合い、その都度新たな姿を現すのである。学問を深めることと、人との出会いを深めることは、決して別々の営みではないのだろう。今日もまた、知的な発見と人間的な交流が自然に重なり合う、豊かな一日となった。それでは今から、仏教倫理の大学院生向けのセミナーに向かいたい。エディンバラ大学神学部図書館:2026/10/21(水)11:54


Today’s Letter 

Interestingly, ever since I started broadening my academic horizons, I’ve been hearing about more and more academic conferences and opportunities to submit articles to scholarly journals. I want to make the most of every opportunity that comes my way. Edinburgh, 10/21/2026

 
 
 

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