【エディンバラ大学からの便り】19246-19249:2026年9月15日(火)

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タイトル一覧
19246 | Sprint8の進歩から見る身体的適応と変化/宅配ルームと文献読解 |
19247 | 今朝方の夢 |
19248 | 今朝方の夢の振り返り |
19249 | 水墨画のような音楽表現 |
19246. Sprint8の進歩から見る身体的適応と変化/宅配ルームと文献読解
時刻はゆっくりと午前7時に近づいている。昨夜は少しやることがあり、気づけば就寝時間が少し遅くなっていたので、午前5時半に起床した。そこから2日に1回のアパートメントのジムに向かったところ、すでに先客が2名ほどいた。今日のSprint8のプログラムは、前回と比べてさらに適応が進んだようで、きつさがさらに軽減されていた。この調子で2日に1回続けていけば、来月にはレベルを1つ上げて、レベル17(17/20)に到達できそうである。こうして徐々に肉体が変化し、身体能力が育まれていくのを見るのは嬉しいことである。それと同様に、ここからは精神的にも知的にも、エディンバラという町およびエディンバラ大学への適応を緩やかに進めていきたい。
ジムを終えて建物から出る頃には辺りは随分と明るくなっていた。そう言えば、昨日の夕方にVRTXバンドの小さいサイズのものが3つ届けられたというメールを受けたので、受付に向かった。受付の男性曰く、宅配ルームというものがあるらしく、普段はそこに荷物が届けられると教えてくれ、そこを案内してくれた。その部屋には建物の名前ごと、大まかな部屋番号の区切りごとに棚が置かれていて、そこから自分宛の荷物を探したが、見つけることができなかった。もう一度アマゾンからの連絡を確認し、後ほど自分のメールアドレスから宅配ルームに登録しておきたいと思う。
今週はまだオリエンテーション・ウィークだが、履修予定のコースの課題文献や課題が続々と明らかになったので、時間のある今週に大部分の文献を読んでおきたい。本来は大学院に到着する前の段階で文献を読むことをこれまで課していたが、今回は仏教プログラムということもあり、実はいくつかの文献はすでに手元にあって読んだことのある状態だったので、無理に課題文献の読解を進めることを意図的にしていなかった。すでに中間課題や最終課題が明らかになっているので、その課題の問いに答える形で文献を読んでいくと効率的に知識を獲得し、理解を深めていくことができるだろう。エディンバラ:2026/9/15(火)07:00
19247. 今朝方の夢
オリエンテーション・ウィークの初日のイベントに参加した夜に見ていた夢は、次のような内容だった。両親が住む実家のリビングに自分はいて、そこで今は亡き愛犬と戯れていた。尻尾を振りながら喜ぶトイプードルの愛犬はとても可愛らしく、しばらく遊んでいると、興奮からか、突然カーペットの上で脱糞し始めた。いつもはケージの中でちゃんとトイレをするのだが、おそらく自分と遊んで楽しくなり、いつも違う意識状態になったのだろう。カーペットの上に出された糞を母がペーパータオルでサッと取り、自分は引き続き愛犬を眺めていた。愛犬はトイレを済ませた後に、犬としてのDNAの名残であろう、自分の糞便を砂で隠すような足をかく仕草を何度もして、それがまた愛らしく思えた。
次に覚えているのは、知人の若く優秀な女性が作った研修プログラムに名前をつけている場面である。彼女は新しく専門性をひとつ確立した。それは誰もまだ持ち得ていないもので、そうした専門性は希少性があり、いろいろなところから引っ張りだこな活躍ができると思ったし、彼女の専門性は広く多くの人と社会に役立つだろうという確信があった。そのような専門性が体現されたプログラムに名前をつけて欲しいと依頼を受けた時には、彼女からの信頼を感じて嬉しく思った。プログラムの内容に負けない良い名前をつけたいと意気込み、いざ名前をつけようとしたところで場面が変わった。
もう一つ覚えているのは、その女性の知人がサクソフォーンを長らく演奏しているということを教えてもらい、彼女のSNSでその演奏動画が公開されていることを知った。一連の動画を見ると、見事な演奏がなされていて大変感銘を受けた。同時に、彼女は日本人だが、彼女のSNSの投稿は基本的に全て英語で書かれていることも印象的だった。彼女が英語で情報を発信しようとする姿勢に共感する思いを持ったことを覚えている。エディンバラ:2026/9/15(火)07:13
19248. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、エディンバラで新しい学問的生活が正式に始まった日に、自分の内側で「過去の自分」と「これから世界に開かれていく自分」が静かに接続され始めたことを象徴しているのかもしれない。最初の実家と愛犬の場面は、自分の精神における最も古く、最も安心できる地層への回帰を示しているように思われる。オリエンテーション・ウィークという新天地への入口を通過した直後だからこそ、夢は逆方向へ走り、自分を実家のリビングへ連れ戻したのではないだろうか。亡き愛犬は、評価や成果とは無関係に自分を受け入れてくれる存在、すなわち無条件の親密さの象徴である可能性がある。新しい大学、新しい人間関係、新しい学問世界へ入っていく自分に対して、心の深部が「帰る場所は失われていない」と告げているようでもある。興味深いのは、その愛犬が興奮して排泄することである。糞便は夢において、不要になったものの排出や、内部に蓄積されたものを外へ出す象徴として現れることがある。しかも自分はそれを不快に感じず、母が淡々と処理している。これは、新しい段階へ移る過程で古い緊張や役割や自己像が排出されても、それを大事件にする必要はないという示唆なのかもしれない。愛犬が後ろ足で砂をかけるような仕草をする姿は、文明化された現在の背後から、古い生命の記憶が一瞬顔を出す光景でもある。自分の知性が高度に専門化していくほど、その地下にはもっと素朴で動物的な生命が流れている。その生命を自分が愛らしいと感じている点は重要であり、知性と本能を対立させず抱え込もうとしている可能性がある。続く女性の専門性と研修プログラムの場面は、今度は未来へ向かう夢であるように思われる。誰も持っていない専門性を確立し、それを社会へ届ける女性は、自分自身のこれからの研究者像を少し外側に投影した存在なのかもしれない。既存の領域に席を探すのではなく、複数の領域を結び、新しい専門領域そのものを作るという方向性である。そして自分がそのプログラムに名前を与える役割を任されることは、自分が単に知識を受け取る側ではなく、まだ輪郭のないものに言葉を与える側へ移行しつつあることを象徴しているように見える。名前とは、霧の中の島に初めて地名を書き込む行為に近いのである。最後のサクソフォーンと英語発信も同じ流れにあるのではないだろうか。サクソフォーンは、蓄積された訓練がその人固有の声として外へ流れ出す楽器にも見える。さらに日本人でありながら英語で発信する彼女への共感は、自分自身の知的活動を日本語圏だけに閉じず、より広い世界へ響かせたいという願いの反映かもしれない。夢全体を一つの楽章として見るなら、「根へ戻ること」「不要なものを排出すること」「新しい専門性に名前を与えること」「世界へ向けて自分の声を鳴らすこと」が連続している。エディンバラで始まった新生活は、単なる留学ではなく、自分という古い樹が根を保ったまま、これまでとは違う方向へ枝を伸ばし始める転換点として、無意識に経験されているのかもしれない。エディンバラ:2026/9/15(火)08:20
19249. 水墨画のような音楽表現
ブランダン・エイカー氏のメッセージを読んで、音楽における「表現」とは、何かを加えること以上に、何を加えないかを判断することなのだと改めて考えさせられた。今回取り上げられていたのは、クラシックギターにおける二音の和音を少しずらして鳴らす奏法である。低音を鳴らしてから上声を響かせれば、そこにためらい、優しさ、重み、あるいは呼吸のようなものを与えることができる。しかし、それが美しいからといって、あらゆる和音で同じことをしてしまえば、その美しさ自体が失われていくという。エイカー氏がこれをケチャップにたとえているのが面白い。ケチャップそのものは美味しい。しかし、朝食にも昼食にも夕食にも何にでもかければ、料理それぞれの味が見えなくなる。音楽表現も同じなのだろう。アルペジオもヴィブラートもルバートも強弱も、それ自体に表現力が宿っているのではない。それを「使わなかった可能性」と対比されたとき、初めて意味を持つのである。特に心に残ったのは、「meaning needs contrast」という発想である。音楽は差異によって語る。すべてが大きな音ならフォルテは存在しないのと同じであり、すべてのフレーズで時間を伸縮させれば、ルバートはもはや自由な呼吸ではなく癖になってしまう。沈黙があるから音が際立ち、静止があるから動きが感じられる。表現とは、白い紙を色で埋め尽くすことではなく、余白を残しながら必要な場所だけに筆を入れる水墨画に近いのかもしれない。これは最近取り組んでいる即興演奏にもそのまま当てはまりそうである。即興では自由に音を選べるからこそ、次々と何かを付け足したくなる。しかし、本当の創造性とは、選択肢の多さではなく、その中から何を選び、何を捨てるかに現れるのだろう。弾ける音をすべて弾くことと、必要な音だけを弾くことの間には大きな隔たりがある。そしてこれは研究や文章にも通じる。知識が増えれば引用したい概念も増え、説明できることも増える。しかし成熟とは、それらをすべて提示することではなく、議論の核心を生かすために不要なものを静かに削る能力でもある。以前は能力が増えることを成長だと思いがちだったが、能力を持ちながら使わないという選択もまた高度な能力なのである。ギターの上で一本の音をあえてそのまま置いておく。その何もしないという選択の背後には、実は無数の可能性を検討した判断がある。熟達とは装飾を増やしていく道ではなく、最後には必要なものだけが残るところまで削っていく道なのかもしれない。少しだけケチャップを減らし、音楽そのものが語り始める余地を残したいと思う。エディンバラ:2026/9/15(火)18:55
Today’s Letter
From today, I’ll approach the course readings with joy. My focus will be on connecting everything I read to my research topics. With this approach, I believe my knowledge will steadily become deeper and more robust. Edinburgh, 9/15/2026


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