【エディンバラ大学からの便り】19236-19239:2026年9月13日(日)

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タイトル一覧
19236 | 穏やかな日曜日の朝のHIITトレーニング |
19237 | 今朝方の夢 |
19238 | 今朝方の夢の振り返り |
19239 | 楽器演奏による英語のリスニング能力の向上を実感して |
19236. 穏やかな日曜日の朝のHIITトレーニング
時刻は間も無く午前6時半を迎えようとしている。エディンバラに到着しての2回目の日曜日は、とても穏やかではあるが、まだ辺りは随分と暗い。気温も10度しかなく、秋が深まりを見せ始めている。英国のサマータイムが終了するのは、10/25の日曜日なので、まだ随分と日にちがある。そこまでは日の出の時間がもっと遅くなり、日没の時間は早まっていくだろう。
今日もまた早朝のアパートメントのジムでVision FitnessのトレッドミルのSprint8のプログラムを行った。午前5時半過ぎにジムに到着してみると、今日は先客が誰もおらず、灯りを自分で付けて、そのプログラムを行った。引き続きEliteコースのレベル1(=16/20レベル)を始めたところ、少しずつ適応が進んでいるのがわかる。興味深いのは、4セット目あたりで一度きつさがやってくるのだが、その峠を越えてしまうと、そこからさらに速度が上がったとしても対してきつさはない。おそらくこれは、身体的なきつさというよりも心理的なきつさなのかもしれない。心肺機能がきつさを感じるよりも先に、心がそれを感じるのである。あるいは、それをきついと思ってしまう心のメカニズムがスッと働くようなのだ。それをうまくコントロールし、心にきつさを感じさせないようにする心の持ちようを考えていきたい。いずれにせよ、今日もまた傾斜かくど6%の中、最大速度は時速16.1kmに到達するプログラムを無事に完了した。前回同様に余力があったので、それを出し切ることはしないまでも、もう少し追い込んでおきたいと思ったので、クールダウンの2分30秒のうち、1分ほどを傾斜角度3%、時速12kmでゆっくり走った。今日はプログラム中に誰かがジムにやってくることはなく、ジムを後にするときには電気を消してその場を去った。日曜日のスタートは、こうした運動のおかげですこぶる良好であり、身体の調子が整うと、内からエネルギーが湧いてくる。明日からはいよいよエディンバラ大学での修士プログラムがいよいよ始まる。その始まりに向けて準備は万全である。エディンバラ:2026/9/13(日)06:35
19237. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、小中高時代の2人の親友(SI & NK)と一緒に、彼らの家がある近所のレストランに向かっていた。実際には、片方の親友の母に車で送ってもらっていたのだが、そのときに自分の脳内では、自分がこの山道を車で運転している情景がイメージされていた。自分は車の運転が好きではなく、免許を取得して以降一度も運転をしていないこともあって、イメージの最初はフラフラする運転が想像された。そこから徐々に感を取り戻したのだが、それでも車の運転は神経を使うこともあり、自分はあまり好きではないと思った。そうこうしているうちに、車はレストランに到着した。レストランに到着したはずだが、そこではフットサルが室内で行われていて、私たちも参加することにした。親友の片方は、今なお運動を続けており、体力が尋常ではないほどにあった。確かに自分も同じ年齢の中では群を抜いた体力を持っているが、彼はプロのフットサル選手としてやっていけるだけの体力と技術があったので、その点非常に尊敬していた。彼に尋ねてみると、体力の衰えを感じることは一切ないとのことだった。それは大変頼もしい発言で、彼がいれば試合を優位に進められるだろうと思った。いざ試合が始まってみると、相手はとんでもないラフプレーを仕掛けてきて、それはもはやフットサルのルールを逸脱するどころか、ある種の格闘技のようでもあった。気がつくと、私たちはフットサルコートにはおらず、レストランでの食事を終えて、山間の近所を散歩していた。そのときに、自分が寺院に通って仏教を学んでいることを伝えると、1人の友人がキリスト教について実は関心があると述べた。その寺院は、実際には教会もあり、さらには英語学校もあった。なので片方の友人にはそこの教会に通うことを勧め、海外留学に関心のあるもう1人の友人には英語学校を勧めた。
もう一つ覚えているのは、日本での母校一橋大学を小中高生にもっと知ってもらおうという民間企画に参画していた場面である。父も同じ大学の卒業生なので、父と一緒に親子で動画に出演することになった。親子対談という形で、親子で対談をし、そこにMCの方が加わってもらうことによって、大学の魅力を親子で通ったからこそ話せる内容もあるのではないかと期待感が募っていた。エディンバラ:2026/9/13(日)06:56
19238. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分がこれまで歩んできた人生の道と、これから自分が担おうとしている役割とが、一つの大きな地図の上で重なり始めていることを象徴しているのではないかと思う。冒頭の山道を走る車は、自分の人生を前へ進めるための「操縦」の象徴なのかもしれない。実際には親友の母が運転しているにもかかわらず、自分の頭の中では自らハンドルを握っている。この二重構造は、自分が誰かに運ばれている人生から、自分自身で進路を定める人生へと心理的に移行していることを示しているように思われる。最初に車がふらつくのは、新しい土地、新しい学問、新しい生活を始めた現在の自分が、まだ山道のカーブに身体を馴染ませている姿なのかもしれない。しかし徐々に感覚を取り戻すところには、未知の環境でも自分なら適応できるという深層の確信が表れているように思う。同時に、運転を好きになれないという感覚は、人生をすべて自分で統御しようとすることへの違和感を示している可能性もある。自分にとって人生とは、完全に操縦する乗り物というより、流れを読みながら進む舟に近いのかもしれない。レストランが突然フットサルコートへ変わる展開も興味深い。食事の場は滋養を受け取る場所であり、競技場は力を試す場所である。つまり現在の自分にとって、学びや交流そのものが、ほどなく実践の場へ変わっていくことを暗示しているのではないかと思う。圧倒的な体力を持つ親友は、自分の中に存在する「まだ衰えていない生命力」の投影なのかもしれない。年齢という時計とは別に、自分の内部には依然として強いエンジンが回っている。その友人への尊敬は、自分自身の潜在的な活力に対する驚きでもあるように思われる。しかし試合は格闘技のような荒々しさへ変貌する。これは、人生の次の局面では能力だけでは対処できない、不合理さや予測不能な衝突も待っていることを示しているのかもしれない。興味深いのは、その戦いが決着せず、場面が散歩へ移ることである。夢は勝敗よりも、戦いの外側へ歩き出すことを選んでいる。自分にとって成熟とは、すべての勝負に勝つことではなく、そもそもどのゲームに参加するのかを選べるようになることなのかもしれない。その後に現れる寺院、教会、英語学校は、自分が近年身につけつつある「媒介者」としての役割を象徴しているように思う。自分自身が仏教を学ぶだけではなく、相手の関心に応じて、ある者にはキリスト教、ある者には英語という異なる扉を示している。ここで自分は教師というより、駅の案内板のような存在になっているのである。それぞれの人が進むべき列車を決めるのではなく、その人に合ったホームを指し示している。一橋大学の場面は、その役割がさらに世代を超えて広がっていく予兆なのかもしれない。父から自分へ、そして小中高生へと経験が受け渡されていく構造には、一本の川が上流から下流へ水を運ぶような継承性がある。今回の夢全体を貫いているのは、自分が一人で山道を走る存在から、人と人、世代と世代、文化と宗教、過去と未来をつなぐ「交差点」へ変化しつつあるという感覚なのではないかと思う。エディンバラ:2026/9/13(日)09:24
19239. 楽器演奏による英語のリスニング能力の向上を実感して
最近、楽器の演奏を始めてから、英語のリスニング能力が少しずつ向上しているように感じている。最初は単なる気のせいかと思っていたが、調べてみると、どうやらこの感覚には一定の研究的な裏付けがあるようである。音楽と語学は、一見するとまったく別の能力のように見える。しかし実際には、どちらも音の高さ、長さ、リズム、強弱、音色、そして時間的な変化を細かく捉えることを要求する。楽器を演奏していると、自分が出した音が意図した音程になっているか、タイミングがずれていないか、音の立ち上がりや響きが適切かを絶えず耳で確認することになる。これは耳の中に高性能な顕微鏡を据え付け、これまで一つの塊として聞こえていた音を、より細かな粒子へと分解していくような作業なのかもしれない。英語のリスニングでも似たことが起きる。英語は単語が辞書どおりの形で一語ずつ発音されるわけではなく、音がつながり、弱まり、ときには消える。日本語話者にとって難しいのは、単語を知らないこと以上に、その連続した音の流れの中から単語の境界を見つけることである。楽器演奏によってタイミングや音高の微細な差を拾う能力が磨かれるなら、その能力が英語の音声処理にも波及することは十分に考えられる。研究でも、音楽経験のある人は、音声のピッチ変化や韻律、雑音の中での会話の聞き取りなどにおいて優位性を示すことが報告されている。特に興味深いのは、楽器演奏が単なる受動的な聴取ではない点である。頭の中で予測した音を指で鳴らし、実際に出た音を聞き、その差を修正する。この予測と誤差修正の循環を何度も繰り返すことで、聴覚と運動を結びつける回路そのものが鍛えられていくのだろう。そう考えると、最近英語が以前よりも輪郭を持って聞こえる感覚にも納得がいく。以前は英語の音が川の流れのように一気に通り過ぎていたものが、今ではその流れの中に石や渦や小さな波が見えるようになってきたのかもしれない。もちろん、現在は日常的に英語に触れる環境にいるため、改善のすべてを楽器演奏の効果と考えることはできない。しかし、英語環境での大量のインプットと、楽器による精密な聴覚トレーニングが同時に進んでいることには大きな意味がありそうである。両者は別々の訓練というより、一方が他方を静かに底上げする相乗効果を生んでいるのかもしれない。そうすると、25分ほどギターを練習し、その後に25分ほど研究をするという現在のリズムにも新しい意味が生まれる。ギターの時間は単なる気分転換ではなく、耳と注意力を研ぎ澄ます時間にもなっている可能性がある。その研ぎ澄まされた感覚を携えたまま英語の講義や会話に入ることで、これまで取りこぼしていた音を少しずつ拾えるようになっているのかもしれない。楽器を学ぶことが、そのまま英語を学ぶことになるわけではない。しかし、音楽によって耳そのものの解像度が上がれば、その耳で世界を聞いたとき、英語も以前とは違った姿で現れてくるのであろう。最近感じている変化は、語学力だけが伸びているのではなく、自分の「聞く」という行為そのものが少しずつ変化している兆候なのかもしれない。エディンバラ:2026/9/13(日)09:29
Today’s Letter
Gradual progress rather than haste is crucial in my life. I prefer to deepen both my expertise and myself little by little. There is something profound, even mysterious, hidden in the process of gradual learning and practice. Edinburgh, 9/13/2026


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