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【エディンバラ大学からの便り】19228-19232:2026年9月11日(金)

14 分前
読了時間: 10分


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タイトル一覧

19228

早朝のSprint8トレーニングを終えて

19229

ここからのSprint8トレーニングの構想

19230

今朝方の夢

19231

今朝方の夢の振り返り

19232

意図した音を鳴らす境地へ


19228. 早朝のSprint8トレーニングを終えて

                 

時刻は間も無く午前6時を迎える。今の気温は12度で、今日の最高気温は17度だ。辺りはまだ随分と暗い。そんな中、今朝はまず5時前に起床し、水分補給をし、歯磨きを終えてすぐさまアパートメントのジムに向かった。先日は先客が2人もいたが、流石に午前5時の段階では誰も人がおらず、自分でジムの電気のスイッチを入れた。そこから、備え付けの給水サーバーから水を水筒に注ぎ、今日もまたVision Fitnessのトレッドミルの上に立った。前回と同じく、Eliteプログラムのレベル1(=16/20レベル)に設定し、3分ほどのウォーミングアップを行った。この間にアキレス腱を伸ばしたり、股関節に刺激を入れたり、肩甲骨や肋骨を回すことなどをしている。それによって万全の状態となったところで今日も走り始めた。肉体の適応力は驚異的で、前回よりも明らかにキツさが軽減されていた。だからと言って、次回にレベル2(=17/20レベル)に設定することはせず、少なくとも数週間は様子を見たいと思う。数週間後、今よりも明らかに負荷が軽減されていると感じたら、次のレベルに進んでいこうと思う。この辺りもクラシックギターの練習や仏教研究と同じで、負荷量の見極めと調整が発達の鍵を握る。こうして地道に2日に1回ほどSpring8を使っていると、きっといつの日か最高レベルに達している日が来るのではないかと思う。午前5時半になるあたりでジムを後にしたところ、ようやく小鳥が鳴き声を上げ始めていた。その時になってようやく遠くの空が明るくなり始めていた。エディンバラ:2026/9/11(金)06:02


19229. ここからのSprint8トレーニングの構想 

                   

夜明けをようやく迎えようとしているエディンバラの自宅で、部屋の換気をしながら、先ほどのSprint 8について改めて考え事をしている。身体の発達には「できる」と「その負荷が自分のものになる」との間にかなりの隔たりがある。今日すでにEliteのレベル16を前回より楽に感じられたとしても、それは17へ進む合図というより、16に身体が適応し始めた合図なのだろう。そう考えると、次のレベル17へ進む時期は10月上旬から中旬あたりが一つの目安になりそうだ。今後3~5週間ほどレベル16を続け、最後の数本でもフォームが崩れず、終了後の息の戻りが早く、翌日に脚やアキレス腱へ強い疲労を残さない状態が続けば17へ進む。この頃には、今苦しいと感じる速度でも身体を過剰に緊張させず走れるようになり、心肺だけでなく、速い速度で脚を運ぶ神経系の効率もかなり高まっているはずである。そこからレベル18へ進むのは11月中旬から12月初旬頃だろうか。17を4~6週間ほど繰り返し、最後のスプリントでも「耐える」のではなく「走れている」感覚が出てきた頃が目安である。この段階では、心拍数が大きく上昇しても回復区間で再び整えられる能力が高まり、乳酸の蓄積した状態で運動を継続する力もかなり向上していると思う。日常生活の階段や速歩程度では、心肺的な負荷をほとんど感じなくなっていても不思議ではない。レベル19はさらに慎重に進み、2027年1月から2月頃を想定しておきたい。18を6~8週間ほど十分に身体へ馴染ませてからである。このあたりになると、単なる健康目的の運動というより、本格的な高強度トレーニングを継続してきた身体になっている。高速走行時のストライド、接地、体幹の安定性が洗練され、呼吸が乱れてから立て直す能力も強くなっているだろう。VO2maxそのものは測定しなければ分からないが、少なくとも高強度運動を処理する能力は現在よりかなり高い水準にあるはずである。そしてレベル20は、早くても2027年3月から4月頃でいいのではないかと思う。19で8~12週間ほど積み上げ、その負荷を特別な挑戦ではなく通常のトレーニングとして処理できるようになってから挑戦する。この頃には、40歳前後の一般的な運動習慣のある人と比べても、かなり高いインターバル走能力を持つ身体になっている可能性が高い。ただし、レベル20を「楽に」することそのものを目的にはしない。Sprint 8はそもそも高強度運動なのだから、最後まで苦しいのは当然である。苦しいにもかかわらずフォームを保ち、最後まで速度を制御し、翌日には回復している。その状態こそ、本当にそのレベルへ適応した証拠なのだと思う。そう考えると、16、17、18、19、20という数字は単なる機械の設定ではない。それぞれの段階で、自分の身体が以前なら処理できなかった負荷を受け止められるようになっていく発達の指標である。クラシックギターでも仏教研究でも、一段上の課題を焦って取りに行く必要はない。現在の負荷の中で余裕が生まれ、その余裕が次の負荷を招く。半年ほど後、まだ暗いエディンバラの早朝に同じトレッドミルに立ち、何気なくレベル20を選択している自分がいたとしたら、それは今日の午前5時の一本一本の積み重ねの結果なのだろう。エディンバラ:2026/9/11(金)06:12


19230. 今朝方の夢

                                       

今朝方は夢の中で、実際に通っていた中学校の体育館にいた。そこで私はバスケのシュート練習を始めた。しかし、自分の手にフィットするようなサイズのボールがなく、それに加えて空気の抜けているボールやツルツルするボールが多く、練習に手こずった。本来は、試合で使う正式なボールで練習をしたかったのだが、ないものは仕方ないので、色々と工夫しながらシュート練習をすることにした。すると、バスケ部の後輩たちが体育館にやって来て、自主練に加わった。彼らにも忠告として、あまり良いボールがないことを伝えた。自分の練習のみならず、後輩たちの練習の質を考えると、やはりちゃんとしたボールがあった方がいいと思ったので、後ほど顧問の先生のところに行って、正式なボールを少なくとも5個ほど新しく購入してもらおうと思った。体育館を後にしようとしたところ、そこでふと、すでに体育の授業が外で始まっていることに気づいた。しかし、自分はもはや誰かが策定したカリキュラムに沿って学ぶことが嫌になっており、学校を中退しようと思った。学校を辞めても、自分は自分なりのペースで学習と実践を進めていける確固たる自信があったのである。自分の学力に見合わない形で学習が進む窮屈な学校に行かなくていいと思うと、気持ちが晴れ晴れした。


次に覚えているのは、夜の時間帯に見慣れない観光地を歩いていた場面である。大学時代のサークルの2人の友人と偶然出会い、彼らとお茶屋さんに立ち寄った。そこは夜でも繁盛しており、気持ちの良い夜風を浴びながら、お茶をすすりつつ話をした。話の中で、ある女性友達のYouTubeチャンネルの話題となった。彼女はちょうどライブ配信をしており、今自分たちがいる観光地に来ているようで、お洒落な和風レストランで食事をしており、真正面から顔を映すのではなく、あえて後ろから撮影をしている点が印象的だった。エディンバラ:2026/9/11(金)06:34 


19231. 今朝方の夢の振り返り 

                         

今朝方の夢には、自分が「与えられた学習環境の中で成長する者」から、「成長する環境そのものを設計する者」へ移行しつつある心理が映し出されているのかもしれない。最初に現れた中学校の体育館は、自分の能力形成の原点を象徴しているように思われる。ところが、そこには自分の手に合う正式なボールがない。空気が抜けていたり、表面が滑ったりしているボールは、現在の自分の能力に対して、既存の教材、制度、訓練環境が十分に応えていないことの比喩なのかもしれない。それでも練習をやめず、道具に合わせて工夫する姿からは、自分が環境の不完全さを学ばない理由にはしなくなっていることがうかがえる。いわば、切れ味の悪い刃物でも料理を完成させながら、同時により良い包丁を調達しようとしている状態である。さらに興味深いのは、後輩たちが現れることである。自分はもはや一人の学習者ではなく、後から来る者の学習環境まで気に掛けている。正式なボールを5個購入してもらおうとする発想は、自分だけが良い道具を得ればよいのではなく、共同体の学習インフラそのものを改善したいという意識を象徴している可能性がある。研究、教育、出版などを通じて、自分が知識を得る側から、他者が成長できる場を整備する側へ移りつつあることとも重なりそうである。その直後に「体育の授業」が外で始まっているのも象徴的である。体育館では自分の目的に沿って主体的に練習していたのに、外では誰かが定めた時間割が進行している。そして自分はそこへ戻らず、学校そのものを辞めようとする。これは文字通り学校教育を拒絶する夢というより、「自分の発達速度を外部のカリキュラムに預けない」という独立宣言なのかもしれない。既製の線路から降りても、自分なら地図と羅針盤を持って歩けるという感覚が育っているのであろう。学校を辞める想像によって晴れ晴れしたのは、自由とは何もしないことではなく、自分で負荷と方向を選べることだからではないかと思われる。後半では舞台が夜の観光地へ移る。昼の学校が制度化された成長を表すなら、夜の未知の街は、まだ輪郭の定まらない人生の次章を象徴しているのかもしれない。そこで昔の友人と偶然再会し、夜風の中で茶を飲む場面には、前進しながらも過去とのつながりを穏やかに統合していく感覚がある。そして最後の女性友達のライブ配信が、真正面ではなく後ろ姿を映している点が印象深い。これは「自分とは何者か」を正面から説明するより、自分がどこへ向かっているのかを生き方そのもので示すことへの関心を暗示しているのかもしれない。今回の夢全体は、顔をカメラに向けて自己紹介する段階から、背中で方向を示す段階へ、自分が静かに移行していることを描いているようにも思われるのである。エディンバラ:2026/9/11(金)10:42


19232. 意図した音を鳴らす境地へ 

                                     

ブランダン・エイカー氏のメッセージを読んで、クラシックギターにおける「良い音」というものを、自分はこれまで少し抽象的に捉えすぎていたのかもしれないと思った。暖かい音、丸い音、澄んだ音、歌うような音、美しい音。こうした言葉は確かに、自分が耳で感じた印象を表現するには便利である。しかし、それらは出来上がった料理の感想を述べているだけで、どのような火加減や材料の扱いによってその味が生まれたのかまでは教えてくれない。とりわけ印象に残ったのは、「どうすればもっと美しい音になるのか」と問うのではなく、「今聞こえた音は、何によって生み出されたのか」と問うという発想である。この二つは似ているようで、練習の方向性を大きく変える問いなのだと思う。前者では、美しい音というゴールを遠くに置き、そこへ感覚的に手を伸ばしている。それに対して後者では、今まさに鳴った一音を観察対象として、自分の指が弦にどのように触れ、どちらの方向へ力が加わり、どの地点で弦を解放したのかを丁寧に振り返ることになる。ギターの面白さは、詩的な響きの背後に、驚くほど物理的な世界があることなのだろう。弦は物体であり、自分の指がそれを動かすことで振動が生まれる。爪の形、接触する場所、指の角度、弦を押す方向、離れる速度。それらの微細な差が、最終的には「暖かさ」や「透明感」として耳に届く。美しい音とは霧の向こうにある神秘的なものではなく、無数の小さな身体操作が集まって生まれる現象なのである。これは、自分が最近学んでいる即興にも通じるように思う。偶然うまくいった演奏を「今日は調子が良かった」で終わらせてしまえば、再現性は生まれない。しかし、なぜこのフレーズは自然に流れたのか、なぜこの一音には説得力があったのかを観察すれば、偶然だったものが少しずつ技術へ変わっていく。音色についても同じである。耳で聴き、身体で感じ、原因を確かめる。その循環を繰り返すことで、「たまたま美しい音が出た」という状態から、「意図した音を作る」という段階へ移っていけるのだろう。そして何より興味深いのは、物理を理解することが芸術性を損なうどころか、むしろ自由を広げるという点である。画家が絵具の性質を知ることで表現の幅を広げるように、ギタリストも弦がどのように振動するかを身体で理解することで、音色をより自由に描けるようになる。これからは「美しい音を出そう」と力むよりも、自分の手が今この弦に何をしているのかを静かに観察したい。その積み重ねの先に、エイカー氏の言う「自分が意図した音を鳴らす」という境地が待っているように思う。エディンバラ:2026/9/11(金)11:41


Today’s Letter 

My classical guitar practice and academic research come together in a kind of symphonic harmony. I believe they will eventually lead me to a profound culmination. Yet that culmination will not be an end, but the beginning of something new. Edinburgh, 9/11/2026

 
 
 

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