【エディンバラ大学からの便り】19225-19227:2026年9月10日(木)

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
19225 | 自分自身と対話する媒体としてのギターへ |
19226 | 今朝方の夢 |
19227 | 今朝方の夢の振り返り |
19225. 自分自身と対話する媒体としてのギターへ
今朝方、ブランダン・エイカー氏から届いたメッセージを読みながら、これは単に「30日後にはギターが上手くなっています」という予告ではないのだと思った。むしろ彼が描いているのは、音楽を外から与えられるものとしてではなく、自分の内側から生まれてくるものとして経験するまでの、小さな変容の物語である。最初に現れるのは、たった一本のシンプルな旋律だという。ここが面白い。いきなり複雑なコードや華麗な技巧から始まるわけではない。一本の線を、自分の耳で聴き、自分の指で確かめながら進んでいく。その姿は、知らない森へ入るときに、まず一本の細い小径を見つけることに似ている。道はまだ狭い。しかし、その一本を辿っていくうちに、やがて景色そのものが開けてくる。そしてエイカー氏は、音が次第に「blossomする」と書いている。花が開くように、単音だった音楽が厚みを帯び、共鳴し、ついにはハープのような響きを持ち始める。これは技術が増えるという以上に、自分の耳が変わっていくことを意味しているのだろう。同じ六本の弦しかないのに、以前には聞こえなかった色彩が聞こえ始める。マイナーの内向的で柔らかな陰影と、メジャーの開放的な明るさを、自分の感覚として味わえるようになる。音楽理論の知識が、少しずつ感情の言語へ変換されていくのである。最も印象的なのは、ある瞬間、自分で弾いた音を聞いて思わず手を止めるかもしれない、というくだりである。そこで驚く理由は、その曲が難しかったからでも、誰かの名曲を完璧に再現できたからでもない。「Because it came from you.」――それが自分自身から出てきたからである。ここには、演奏と創造の境界線を越える瞬間が描かれているように思う。これまではギターを弾くとき、どこかに正しい音があり、それを再現するという意識が強かったかもしれない。しかし即興では、まだ存在していない音楽の次の一音を自分で選ぶ。するとギターは「作品を再生する装置」から「自分自身と対話する媒体」へと変わっていく。PSにある、最後の一音が部屋の中に消えていき、ギターを抱えたまま「今の音楽は本当に自分が作ったのだろうか」と感じる場面も美しい。それは、自我が「自分が作った」と主張するより先に、音楽がひとりでに現れたように感じる瞬間なのだろう。よい即興とは、意志で音を押し出すことではなく、耳と指と感情が一つの流れになり、その流れの中から音が自然に姿を現すことなのかもしれない。9月14日から始まる30日間のプログラムで目指すものは、結局、たくさんのフレーズを覚えることではないのだと思う。「自分の中には、まだ聞いたことのない音楽がすでに眠っている」ということを、自分自身の耳で発見することなのだろう。エイカー氏が約束しているのは技術の獲得以上に、その発見の瞬間なのである。エディンバラ:2026/9/10(木)06:58
19226. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、バスケの試合を終えて、いつもは振り返りをメンバーと一緒にするところ、その日は夜遅かったので、その場で解散することになっていた。寝る時間が迫ってはいるが、試合で使ったエネルギーを補給する意味で、栄養を簡単に摂っておくべく、地面に落ちていた胡麻おにぎりを食べようと思った。地面に落ちていたとはいえ、決して不衛生ではなく、むしろとても綺麗で何の違和感もなくおにぎりに手が伸びた。おにぎりを齧り、胡麻の風味に舌鼓を打っていると、他のメンバーたちは全員どこかに食事に出かけたことに気づいた。自分は真っ先に家に帰って休養を優先させようと思ったとはいえ、何の誘いもなかったことが少し寂しかった。スマホを確認しても、誰からも誘いのメッセージが届いておらず、その気持ちは増した。しかし、メンバーたちは休養を優先させるという自分の考えややり方を大切にしてくれたのかもしれないと思い、寂しい気持ちは徐々に消えていった。
次に覚えているのは、小学校時代に所属していたサッカーチームのメンバーだけではなく、野球部のメンバーを迎え入れて大会に出場しようとしている場面である。自分の期待としては、サッカーが上手い野球部のメンバーを迎え入れて、彼らと一緒にプレーできることが楽しみだったが、監督のチーム編成は期待通りにはいかず、2チームのうち片方はこれまでのメンバーで構成され、もう片方に野球部のメンバーが集められる形となった。ぜひこちらのチームに来て欲しかった野球部の2人のメンバーは、スリートップの2つのポジションに配置され、それがとても強力に思えたので、なおさら彼らと一緒にプレーしたいという思いが強まった。試合会場のコートに到着すると、そこはいつも自分たちが練習しているグラウンドだった。そこではすでに試合が行われており、なんとスペインの名門チームの下部組織同士が戦っていたのである。さらに驚いたことに、彼らは全員頭だけの存在となっていて、地面に頭が置かれた形で頭だけが動いていたので、その光景は滑稽に思えた。その試合の観戦を続けていると、気づけば頭だけの存在はちゃんとした人間の体となった。そこである長身のゴールキーパーがフィールドに上がっていき、スローインを担当することになった。彼のスローインはなんと50mを超えるほどの飛距離を持ち、それがそのまま武器になっていた。これからこうした特殊な能力を持つ相手と対戦できることが楽しみであり、試合を通じて自分はさらに能力を高めるだろうという期待があった。エディンバラ:2026/9/10(木)07:12
19227. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の最初のバスケットボールの場面で印象的なのは、試合そのものではなく、試合後の時間である。普段なら仲間と振り返りを行うところ、その日は解散し、自分は食事よりも休養を優先しようとしている。これは現在の自分が、外側の活動量が増えるほど、内側では自分独自の生活リズムを守ろうとしていることを象徴しているのかもしれない。そこで現れる地面の胡麻おにぎりは興味深い。普通なら避けるはずの「落ちた食べ物」が、不思議なほど清潔で美味しく感じられている。これは、社会的には少し変わって見える選択であっても、自分にとって本当に滋養になるものなら迷わず受け取れるようになっていることの暗示ではないか。豪華な宴ではなく、小さなおにぎりで十分なのである。胡麻の粒は、目立たないが凝縮された栄養を持つ。自分が今求めているものもまた、大きな刺激より、研究、読書、睡眠、運動といった小さく濃密な滋養なのかもしれない。しかし仲間たちが自分を誘わず食事に行ったことには寂しさが生じている。ここには、自立を選ぶ自分と、それでも共同体から求められたい自分との微かな緊張があるように思われる。ところが最後には、「自分のやり方を尊重してくれたのかもしれない」と解釈が変わる。これは孤独を拒絶ではなく尊重として読み替える力が育っている兆しかもしれない。孤独が閉ざされた部屋ではなく、自分だけの呼吸を取り戻す静かな書斎へ変わりつつあるのである。後半では、サッカー部に野球部の選手を迎えるという異種混成が始まる。これは、自分が既存の専門領域だけに留まらず、異なる知識や能力を取り込みたいという欲求を表しているのではないか。ところが期待した選手たちは別チームへ配置される。ここには「欲しいものを直接所有する」のではなく、「優れた他者と競うことで自分を高める」という次の発達段階への移行が示されているようにも思える。その象徴が、スペインの名門下部組織であろう。しかも最初、選手たちは頭だけでプレーしている。これは高度な知性や理論が、まだ身体化されていない状態の戯画かもしれない。頭だけのサッカーは滑稽なのである。しかし観察を続けるうちに身体が現れる。知識が実践と結びつき、思想が「生き方」へ降りてくる過程を夢が描いている可能性がある。最後の長身GKの50メートルを超えるスローも象徴的である。本来守る存在であるGKが、特殊能力によって攻撃の起点となる。つまり、一見脇役的な資質や異質な能力であっても、磨けば決定的な武器になるということであろう。そして自分はその強敵を恐れず、むしろ対戦を楽しみにしている。今回の夢は、新しい環境を「試験場」ではなく「鍛錬場」として捉え始めた心を映しているのかもしれない。自分という選手は、いま新しいリーグに昇格したばかりなのである。エディンバラ:2026/9/10(木)08:19
Today’s Letter
Every moment of my present life seems like a dream. Reality itself seems to be made of dreamlike substance—or perhaps it is a dream. Edinburgh, 9/10/2026



コメント