【エディンバラ大学からの便り】19216-19219:2026年9月8日(火)

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タイトル一覧
19216 | エディンバラの雨と風/小さなトラブルから |
19217 | 今朝方の夢 |
19218 | 今朝方の夢の振り返り |
19219 | 成長する即興音楽 |
19216. エディンバラの雨と風/小さなトラブルから
時刻は午前6時を迎え、少しずつ辺りが明るくなってきた。まだ大学が始まっていないこともあり、曜日感覚がままならず、今朝方起床した時には、今日が日曜日だと勘違いしていた。逆に言えば、自分の日常は休日のように絶えず穏やかであるということである。エディンバラの年間降水量は、なんと東京の半分ほどなのだが、日本のように梅雨のようなものはなく、集中的に雨が降らない代わりに、日頃シトシトとした雨が一時的に降ることがよくある。エディンバラは比較的風が強い街であり、特に秋から冬にかけては、その印象がかなり強くなるらしい。その理由は、北海に近く、フォース湾からの風の影響を受けやすいことと、街自体に高低差があり、開けた場所では風が抜けやすいことが挙げられる。そうしたことから、風が強くて雨が降っていると、今の手持ちの折り畳み傘では心許ないので、今日は再び街の中心部に出かけていき、“Fulton Tornado Umbrella”という大きくて、防風耐性の高い折り畳みの傘を一本購入しようと思う。先日は、折り畳み傘ではなく、しっかりとした傘を一本購入しようと思ったが、調べてみるとFultonのこの傘の方が広げた時に大きく、そして防風耐性の度合いが高いことがわかった。今後、どこで生活しようとも、雨の日にはこの傘が力を発揮するであろうから、一本持っておくことに損はないと判断した。
新天地での新生活には、色々と小さなトラブルがつきものであることを思う。新居にやって来て直面した小さなトラブルの一つとして、洗濯機がうまく回転しないという問題があった。今住んでいるのは、ラグジュアリー・アパートメントに括られるようなもので、家具付きの部屋には、新品同様の洗濯・乾燥機があった。にもかかわらず、それがどういうわけかちゃんと回転しないため、アパートメントのメンテナンスチームに連絡したところ、すぐにポーランド人の修理工がやって来た。最初は自分の使い方に間違いがあるのかと思って何日か試してみたが、一昨日どうも自分の使い方には問題がないことがわかって連絡したのである。その男性は速やかに点検をしてくれ、彼がこのアパートメントを担当し始めてから最初のケースだと述べた。どうやらエンジンに問題があるようで、今週中に新しいものを持って来てくれるとのことだった。回転しないと脱水もままならず、乾燥はいわんやであるため、ここ数日間は外に干していた。上記の通り、小雨がぱらつくことが多いエディンバラなので、外に干すことは現実的ではなく、新しいものをすぐに持って来てくれることは大変助かる。今回の一件を通じて、自分には問題の特定ができなかったことを思うと、それぞれの人がそれぞれの仕事をしながら社会に貢献し、それで社会が回っているのだと改めて思った次第である。エディンバラ:2026/9/8(火)06:22
19217. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない砂利のサッカーコートの上にいた。そこで私は、黄金世代と言われたサッカー選手たちと一緒にサッカーを楽しんでいた。どういうわけか、ゴールはミニゴールで、大の大人たちがプレーするにはゴールは小さいように感じられたが、ゴールの大きさには関係なく、そこにいる全員が子供のように純粋にサッカーを笑顔で楽しんでいた。ミニゲームを終えると、私は数人の選手たちに話しかけ、現在の人生について色々と尋ねた。逆に向こうからも人生について尋ねられることがあり、お互いの人生についての理解を深め、人それぞれの歩みを歩んでいるという当たり前のことが、どこか奇跡的なことのように思われた。
もう一つ覚えているのは、歌手デビューを目指す若い女性たちの最後の歌唱力審査を眺めている場面である。会場は、高層ビルの上層階の一室で、とても立派な部屋だった。しかし、部屋が立派であることがむしろ、参加者の彼女たちを緊張させているようにも思えた。彼女たちの何人かは、曲選びが難航しているようだったので、自分にできることとして、彼女たち一人一人の良さを引き出す形で曲選びを手伝った。もちろん、自分にはポップスの知識はほとんどないので、具体的な曲の助言をしたのではなく、彼女たちの個性が何かを発見する手伝いを対話を通して行ったのである。それがひと段落すると、同じ階のバーに行き、バーのカウンターで徐に運動を始めた。しばらく運動していると良い汗をかき始め、後ろにやって来た小中高時代のある女性友達(KE)も自分の汗に驚いていた。高層ビルの窓の外に広がる街の景色を眺めながらの運動は格別であった。エディンバラ:2026/9/8(火)06:51
19218. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の人生における「成熟」と「遊び」、「他者の才能を引き出すこと」と「自分自身の生命力を養うこと」が、一つの風景の中で結び直されつつあることを象徴しているのかもしれない。最初の砂利のサッカーコートは興味深い。芝生の整った競技場ではなく、見慣れない砂利のグラウンドであることから、ここには肩書きや社会的評価によって整備された舞台ではなく、より原初的な遊びの空間が表れているように思われる。そこにいるのが黄金世代の選手たちである点も象徴的である。かつて競争の世界で頂点を目指した大人たちが、小さなゴールを囲んで子供のように笑っているのである。これは、自分の中で「大きな成果を上げること」と「純粋に何かを楽しむこと」の関係が変化し始めていることを示しているのではないだろうか。ミニゴールは、人生の目標そのものが縮小したというより、目標の大きさが幸福の大きさを決めるわけではないという洞察を表しているようにも思われる。大きなスタジアムも、大きなゴールも、観客も必要ない。ただボールがあり、一緒に遊ぶ仲間がいる。それだけで十分なのである。自分にとって近年の人生は、研究、教育、執筆、海外移住など、比較的大きな目標を追い続ける時間であったはずである。しかし夢はその傍らで、人生には「何者かになるために行うこと」とは別に、「ただ好きだから行うこと」が存在すると告げているのかもしれない。成熟とは、遊びを卒業することではなく、一周して再び遊びに戻ってくることなのだろう。ゲーム後に選手たちと人生について語り合った場面には、さらに深い意味がありそうである。夢の中で彼らはもはやスター選手という記号ではなく、それぞれ固有の時間を生きる一人の人間になっている。自分もまた相手から人生について尋ねられている。ここでは上下関係や憧憬ではなく、人生と人生が水平に出会っているのである。「人それぞれが自分の道を歩んでいる」という当たり前の事実が奇跡のように感じられたのは、個人という存在を固定された肩書きではなく、時間の中を移動し続ける物語として眺め始めているからかもしれない。それぞれの人生は一本の川であり、たまたま同じ地点で交差した瞬間だけ互いの水面を見ることができる。その偶然性そのものへの感動が夢に現れたように思われる。後半の歌手候補の女性たちは、まだ形になりきっていない可能性の象徴であろう。立派な高層ビルの部屋は、社会的成功や評価の舞台を表す一方、その格式そのものが彼女たちを緊張させている。ここで自分がしているのは、正解を教えることではない。ポップスの知識を提供するのでもなく、対話を通して本人の個性を発見する手助けをしている。この場面には、自分が現在担いつつある教育者や伴走者としての役割が映されているのではないだろうか。才能とは外から植え付けるものではなく、土の中にすでに存在する種に光を当てることで姿を現すものだという感覚である。そして最後に、自分はバーのカウンターで突然運動を始める。ここが夢全体の締めとして非常に重要である。前半では他者の人生を聴き、後半では他者の才能を引き出しているが、最後には自分自身の身体へ戻ってくるからである。汗は生命が身体を通して外へ溢れ出している徴であり、思考や対話だけでは完結しない生の実感を象徴しているのかもしれない。高層階から街を眺めながら身体を動かす姿は、俯瞰する知性と地上的な肉体が一つになった像にも見える。この夢全体を貫いているのは、「高く昇りながら、原点へ戻る」という逆説なのではないだろうか。高層ビルへ昇っても、自分がすることは人の個性を見つけ、汗を流すことである。黄金世代と出会っても、することは小さなゴールで無邪気にボールを蹴ることである。人生が複雑になり、役割や可能性が広がるほど、自分の深い部分ではむしろ、遊ぶこと、語り合うこと、誰かの良さを見つけること、身体を動かすことという、ごく単純な営みへ帰ろうとしているのかもしれない。それは退行ではなく、螺旋階段を一周して同じ場所へ戻ったように見えながら、以前より一段高い地点から原点を生き直す成熟の姿なのであろう。エディンバラ:2026/9/8(火)07:33
19219. 成長する即興音楽
ブランダン・エイカー氏の文章を読みながら、クラシックギターを学ぶことの意味が、自分の中で少しずつ変わってきていることに気づいた。音程を間違えず、リズムを守り、運指を整え、フレーズを美しく仕上げる。それだけでも十分に奥深い。しかし、どれほど正確に弾けても、どこか「これは作曲家の音楽であって、自分の音楽ではない」という距離感が残ることがある。今回のエイカー氏の言葉は、その距離を少しずつ縮めていこうという誘いなのだと思う。特に印象に残ったのは、即興演奏が単なる「その場で音を作る行為」ではなく、次第に形と個性を持った一つの音楽へ成長していくという指摘である。最初の即興は、言葉を覚え始めた子どもの発話に近いのかもしれない。短い音型を試し、和音の上でいくつかの音を鳴らし、偶然生まれた響きを面白いと思う。そこにはまだ明確な構造も物語もない。しかし、それを何度も繰り返しているうちに、音と音の間に文法が生まれてくる。あるフレーズに対して別のフレーズが応答し、緊張が生まれ、それが解決される。すると即興は、ばらばらの音の集合ではなく、一つの小さな生命体のようになっていく。そして、その生命体にいつか名前を付ける日が来るかもしれない、というエイカー氏の言葉がとても美しい。即興している最中に偶然現れた旋律を翌日も覚えている。もう一度弾きたいと思う。少し形を整え、続きを加える。そして、「これは残しておきたい」と思った瞬間、それは即興から作品へと境界線を越える。ここには、演奏者から創作者への静かな変化がある。これまではバッハやソル、タレガなど、誰かが生み出した音楽を自分の身体に通してきた。それは偉大な作曲家たちとの対話でもある。しかし即興を始めると、流れの向きが少し変わる。音楽を外側から受け取るだけではなく、自分の内側から音楽が外へ流れ始めるのである。井戸から水を汲むだけだった人が、ある日、自分自身の地下にも水脈が流れていることに気づくような変化である。エイカー氏が最後に述べる「世界になかった小さな音楽的痕跡を残す」という表現にも惹かれる。必ずしも大曲を書く必要はない。わずか30秒の小さな旋律でもよい。それまで世界のどこにも存在しなかった音の配列が、自分を通して一度だけ現れる。その事実だけでも創作には特別な意味がある。だから即興を学ぶことは、自由に弾けるようになるためだけの訓練ではないのだと思う。それは、自分の中にまだ聞いたことのない音楽が存在する可能性を信じ、その音楽が姿を現すための場所を毎日少しずつ空けていく営みなのである。これからギターを手に取るとき、正しい音を探すだけではなく、「今日はどんな音楽が自分を通って生まれてくるだろう」と耳を澄ませてみたい。エディンバラ:2026/9/8(火)09:37
Today’s Letter
I’m settling into my new living environment. It may take a little more time, but the process is going quite well. Once I’m fully grounded, I feel that this new place will continue to nurture me. Edinburgh, 9/8/2026


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