top of page

【エディンバラ大学からの便り】19211-19215:2026年9月7日(月)

2 日前
読了時間: 11分


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

19211

アパートメントのジムでの2回目のトレーニングを終えて

19212

今朝方のSprint 8トレーニングの振り返り

19213

今朝方の夢

19214

今朝方の夢の振り返り

19215

エディンバラ大学仏教学プログラムのコース「仏教哲学」

19211. アパートメントのジムでの2回目のトレーニングを終えて

                          

時刻は午前6時半を迎えた。今、アパートメントのジムでの運動を終え、冷水・温水交替シャワーを浴びて、ヘンプパウダーとカカオパウダーに蜂蜜を混ぜ、そこに牛乳を注いだプロテイン補給の飲み物を飲んでいる。ジムからの帰り道、赤紫色に輝く朝焼けを見た。それはフローニンゲンでも見られていたものと似た輝きを持っていて、自然の美しさは万国共通なのかもしれないと思った。もちろん、エディンバラという新天地で見たそれは、フローニゲンという慣れ親しんだ町で見たものと心象としては異なる。いずれにせよ、早朝から美しい光景を見れたことは大変有り難い。


今日は午前5時半に起床し、水を2杯飲んで歯磨きをしてすぐにジムに向かった。ジムに到着して驚いたのは、先客が2人もいたことである。1人は男性でもう1人はタトゥーを入れた女性だった。そこから前回と同様に、Vision Fitnessのトレッドミルを使い始めた。前回はAdvanceの最高レベル(=15/20レベル)でも少し物足りな方ので、Eliteの最低レベル(=16/20レベル)にしてみたところ、前回の傾斜角度5%から6%に上がっており、速度も最初から15.1kmだったので、最初のインターバルから程よい負荷を感じた。そこから傾斜角度は上がらず、速度だけが15.6km/h、16.1km/hとなっていき、最後から3つ目のインターバルからは結構なきつさを感じて、このレベルが今の自分にちょうどいいと思った。8つ目のインターバルを終え、2分30秒のクールダウンを迎えた時に、まだ余力があったので、最後の1分30秒は、傾斜角度を5%に落とし、14km/hで走り始め、最後の30秒を傾斜角度を4%にして、13.5km/hで走った。そこからクールダウンをまた行った。今後しばらくこのレベルで運動を続けていき、どのタイミングでレベルアップできるのかを楽しみにしたい。ちょうど真ん中のインターバルを迎えた時に、また1人若い女性がジムにやって来て、違う種類のトレッドミルを使っていた。このアパートメントには運動意識の高い人が多いようである。エディンバラ:2026/9/7(月)06:47


19212. 今朝方のSprint 8トレーニングの振り返り

                                     

Vision Fitnessのトレッドミルを用いた今朝のSprint 8は、前回よりも一段はっきりと適正強度に近づいた感触がある。Eliteの最低レベルである16/20に上げたことで、傾斜6%、速度15.1km/hから始まり、後半は15.6、16.1km/hまで上がった。数字だけ見ても、これは40歳男性の一般的な有酸素運動の範囲を大きく超えており、かなり高い心肺能力と脚筋力を要求する負荷である。特に6%の傾斜で15~16km/hを繰り返すのは、平地の速いランニングよりも心肺負荷が高く、ふくらはぎ、アキレス腱、臀筋にも強い刺激が入る。ACSMの推定式で定常運動に換算すると、酸素需要はおよそ67~72ml/kg/分に相当するほど高い。ただし30秒程度の短いインターバルでは実際の酸素摂取量がそこまで到達するわけではないので、これをそのままVO2maxとみなすことはできない。それでも、8本を完遂し、最後から3本目あたりでようやくかなりきついと感じ、さらに終了後にも追加で走れる余力が残っていた点は、自分の現在の心肺能力が同年代平均より明らかに高いことを示しているように思う。40歳男性として見れば、少なくとも一般的な健康目的の運動者よりかなり上で、持久系トレーニングを継続している上級レクリエーショナル層に近い水準と考えるのが妥当ではないかと思う。今後しばらく16/20を続ける判断はとても合理的だろう。今の段階では、さらに速度を上げるより、このレベルを同じフォームで安定してこなせるかを見る方が価値が高い。目安としては、8本すべてでフォームが崩れず、最後の2本でも接地が重くならず、終了後1~2分で呼吸がかなり落ち着き、翌日にアキレス腱や膝へ違和感が残らない状態が数回続けば、次のレベルを試す準備が整ったと考えてよい。一方、今日の最後の追加ランは、余力があるという良いサインではあるものの、毎回行う必要はないと思う。Sprint 8の価値は、8本の高品質なスプリントに刺激を集中させることにある。余力をすべて使い切るより、もう少しできるところで終える方が、次回の質と故障予防には有利である。特に6%傾斜での高速走は、心肺より先に腱や足底へ疲労が蓄積することがあるため、週2回程度を軸にし、間の日はゾーン2や歩行でつなぐのがよさそうである。今朝もう一つ印象的だったのは、早朝にもかかわらずすでに何人も運動していたことである。周囲に運動習慣のある人がいる環境は、意外に大きな追い風になる。自分も自然に身体を動かすことが日常の一部になっていくことに有益だろう。その意味でも、新しい住環境と今のトレーニング習慣は相性がよいように感じる。今朝の感覚で最も重要なのは、きつさそのものではなく、この強度なら成長できると身体で分かったことである。レベルアップを急がず、同じ16/20で後半の苦しさが少しずつ薄れていく過程を観察したい。数週間後、同じ16.1km/hが今日より静かに感じられたとき、それが次の段階へ進む最も確かな合図になるはずである。エディンバラ:2026/9/7(月)06:55


19213. 今朝方の夢

                               

今朝方は夢の中で、見慣れない原っぱにいた。そこは街中に突如として広がる市民の憩いのスペースのようで、結構多くの人たちがそこで寛いでいた。私は数人の見知らぬ人たちと一緒に、回転シーソーに乗って遊んでいた。大の大人たちがそれを使って遊んでいる姿はユーモアに富み、全員子供に戻ったかのような気持ちで純粋にそれを楽しんでいた。すると、日本人のある有名な社会学者の先生がやって来て、一緒にシーソーを遊んだ。遊びがひと段落すると、全員で輪になって、学問的な真面目な話を楽しく語り合った。気がつくと自分はもう原っぱにはおらず、駅の近くにやって来ていた。そこで東京の名門私立一貫校の麻布高校の生徒たちと遭遇した。そこは本来男子校のはずだが、いつの間にか共学になっていたようで、女子生徒もいた。彼らのうち数人が自分の母校である一橋大学に進学したようで、大学での勉強や卒業後についてあれこれ尋ねられた。後輩のためなら労を惜しまない性分のため、彼らには色々なことを教えた。話を終えると、彼らが嬉しそうな表情を浮かべて帰って行く姿を見れて大変嬉しく思い、自分は駅の構内に入って行くことにした。すると突然、空腹感がやって来て、持って来ていた弁当を全て食べていることに気づいた。横にあったゴミ箱には、自分が食べた弁当同じ刺身弁当が捨ててあり、まだそこには随分と具材が残っていて大変もったいなく思えた。それを食べるかは別として、一応拾っておくことにした。


もう一つ覚えているのは、見慣れない大学図書館風の場所にいた場面である。そこで私は、見知らぬ人に幾つかのお勧めの書籍を探して手渡していた。芸術関係の解説書として非常に優れたものがあり、それを芸術に関心のある女性に勧めて手渡していたのを覚えている。エディンバラ:2026/9/7(月)07:12


19214. 今朝方の夢の振り返り

                                    

今朝方のの夢は、自分の中で「遊ぶこと」「学ぶこと」「教えること」「受け取ること」が、ひとつの循環として結び直されつつあることを象徴しているのではないだろうか。全体を貫いているのは、知性を蓄積する段階から、知性を他者との間で循環させる段階への移行であるように思われる。最初の原っぱは、その象徴として非常に興味深い。街中に突然開けた緑地は、制度や予定によって区切られた日常の中に現れた「余白」のような場所であると考えられる。エディンバラで新しい生活を始めた現在、自分の人生にはこれまでとは異なる空間が生まれつつあり、そこでは肩書きや成果から一度離れ、人間として遊び、交流することが求められているのかもしれない。そこで大人たちが回転シーソーに乗っている点も象徴的である。シーソーは一人では成立せず、他者との重量、動き、タイミングによって初めて運動が生じる。しかも今回は上下運動だけではなく回転している。これは自分の知的発達が、一直線に上へ登っていく梯子ではなく、他者との関係の中を巡りながら深まっていくメリーゴーラウンドのようなものへ変化している可能性を示しているのではないだろうか。有名な社会学者までそこに加わることは、権威ある知性と子供のような遊戯性とを対立させなくてもよいという無意識からの示唆にも見える。その後、全員が輪になって学問を語る展開は、遊びが学問の反対側にあるのではなく、むしろ創造的な知性を生み出す土壌になり得ることを示しているようである。次に現れる駅は、人生の移行点を象徴している可能性が高い。原っぱが滞在と交流の場所であるのに対し、駅は出発と到着が交差する場所である。その駅の近くで若い学生たちと出会い、大学や卒業後について助言している場面は、自分が「教えを受ける者」であると同時に、すでに「道を示す者」でもあるという二重の立場を表しているように思われる。彼らが男子校から共学校へ変わっていることも、固定されていた制度やカテゴリーが柔らかく組み替えられていく象徴かもしれない。自分自身もまた、研究者、教育者、学生といった役割を固定的に分けるのではなく、それらを横断する存在になりつつあるのであろう。刺身弁当の場面には、さらに深い含意がありそうである。弁当は、自分が人生から摂取する知識や経験の比喩と考えられる。自分の弁当はすでに食べ終えている。しかし、捨てられた同じ弁当には、まだ多くの具材が残っている。それを「もったいない」と感じて拾う行為は、他者や過去によって捨てられた価値を、自分が再発見しようとしている姿にも見える。これは忘れられた思想、古い文献、十分に顧みられていない学問的伝統を拾い上げ、もう一度意味を与えようとする現在の自分の姿と重なるのではないだろうか。ゴミ箱は単なる廃棄場所ではなく、文化が見捨てた宝石が眠る鉱山のような場所なのである。最後の大学図書館も同じ主題を補強している。そこでは自分が本を探しているのではなく、他者のために本を選び、手渡している。これは知識の所有者ではなく「媒介者」になることの象徴であるように思われる。とりわけ芸術に関心のある女性へ優れた解説書を渡す場面は、自分の役割が専門知識を深めるだけでなく、相手の関心や可能性を見極め、それにふさわしい知的資源を届けることへ広がっていることを示しているのかもしれない。今回の夢全体は、一冊の本を読む人物から、巨大な図書館の中で本と人を結びつける司書へと、自分の役割が変わり始めていることを告げているようである。遊び、研究し、教え、古い価値を拾い直し、それを次の誰かへ渡していく。その循環そのものが、これからの自分の人生における学問の新しい形として立ち現れつつあるのではないだろうか。エディンバラ:2026/9/7(月)08:21


19215. エディンバラ大学仏教学プログラムのコース「仏教哲学」

          

来学期は、「仏教哲学」というコースを履修する予定だ。このコースの概要を読んでいると、自分がこれから日本法相唯識を研究するうえで、非常に重要な思考訓練の場になりそうだと感じる。仏教思想を学ぶとき、ともすると教説の内容を知識として整理することに集中しがちである。しかし、この授業が重視しているのは、それぞれの仏教思想家が「どのような問題を設定し、それにどう答えようとしたのか」を歴史的文脈の中で捉えることである。これは、自分の研究姿勢そのものを一段深めてくれそうである。たとえば唯識における阿頼耶識も、単に八識の一つとして覚えるだけでは不十分なのであろう。なぜそのような意識を仮定する必要があったのか。刹那滅する心の流れの中で、業の連続性や記憶、人格の持続をどう説明するのか。そこに阿頼耶識という概念が登場したのだとすれば、それは一つの哲学的問題に対する解答として理解できる。同じように、三性説も単なる分類表ではなく、虚妄な認識がどのように成立し、そこからどのように真実認識へ移行できるのかという問題への応答として読めるはずである。日本法相唯識の研究にも、この視点はそのまま生きてくる。良遍の『法相二巻鈔』を読む際にも、そこに書かれている教理を整理するだけではなく、「良遍は何を問題としていたのか」「なぜその説明を採用したのか」「中国法相やインド唯識から何を受け継ぎ、どこで再構成したのか」と問う必要があるだろう。そう考えると、思想史の研究と哲学的分析は別々の作業ではなく、一枚の布の縦糸と横糸のように交差している。この授業でもう一つ惹かれるのは、過去の仏教哲学を理解するだけでなく、自分自身でもその問題について考えることが求められている点である。仏教思想を博物館の展示物として眺めるのではなく、今なお思考を刺激する対話相手として扱うのである。自分にとってこれは重要である。唯識研究を、ただ古典の意味を復元する営みに限定したくはない。主体と客体の関係、認識の構成性、自己意識、習慣と人格、知覚と概念、解脱における認識変容といった問題は、現代哲学にも十分接続し得るからである。もちろん、現代的な問いを古典へ投影しすぎる危険には注意しなければならない。そのためにも、この授業で求められる「歴史的文脈を踏まえた理解」と「哲学的議論への批判的参加」の両立が重要になるのだと思う。過去の思想家を現代人に仕立て直すのではなく、まず彼ら自身の問いを理解したうえで、その問いを現代へ持ち帰るのである。この科目は、自分にとって、唯識を「知る」ことから「哲学する」ことへの橋になりそうである。日本法相唯識という伝統の中に眠っている問いを掘り起こし、それを現代の哲学的対話へつなぎ直す。そのための読解力、論証力、批判力を鍛える場として、大きな意味を持つ授業になりそうである。エディンバラ:2026/9/7(月)09:46


Today’s Letter 

The more I train my body, the sharper my mind becomes. The body provides the foundation for the psyche, and when I keep it fit and healthy, my mind is able to perform at its best. Edinburgh, 9/7/2026

 
 
 

コメント


bottom of page