【エディンバラ大学からの便り】19194-19198:2026年9月3日(木)

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タイトル一覧
19194 | エディンバラのアパートでローイングマシーンを使って |
19195 | 今朝方の夢 |
19196 | 今朝方の夢の振り返り |
19197 | エディンバラでいくつか驚いたこと |
19198 | エディンバラ大学仏教学プログラムのコース「仏教倫理」 |
19194. エディンバラのアパートでローイングマシーンを使って
時刻は午前7時を迎えた。昨日、ゼミナールの受講生用の動画と音声ファイルを作成し、それはエディンバラでの新生活における最初のコンテンツとなった。動画と音声の双方が1時間を超えたこともあり、昨日はいつもより少し遅く就寝したが、起床は5時半過ぎに起床した。その時にすでに薄明るくなっていて、今日は起床してすぎにローイングマシーンのある部屋に行って、そこで20分ほどローイングを楽しんだ。これはゾーン2に入ることを意識し、ミトコンドリアの量を増やすことを目的にしたエクササイズである。普段は毎朝HIITを行い、そこでVO2 maxを高めて、ミトコンドリアの質を高めることを意識している。今日はローイングを早朝の起床してすぐに行なったが、夕方に行った方がいいのかはまた調べてみようと思う。
エディンバラに到着したのは一昨日で、一昨日と昨日は小雨が降る瞬間がたびたびあった。一方、今朝は青空が広がっていて、エディンバラで初めて晴天を拝むことになり、大変清々しい気分である。朝の運動と相まって、こうして青空を観れるのは格別である。今日はここ2日と違い、遠くまで買い物に行くことはなく、夕方に近所のスーパーに散歩がてら出かけることに留める。中休みとしてちょうどよく、午後にはHSBCの銀行口座を開設しておきたい。もし英国での電話番号を要求されたら、まだ自分は番号を取得していないので、携帯電話の契約を先に行なっておく。エディンバラ:2026/9/3(木)07:21
19195. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、現在ゼミに在籍しているある知人の方と仏教研究の在り方と望ましい方法について語り合っていた。そこでの議論は大変盛り上がり、これから仏教研究に本格的に従事する自分としても実りある時間だった。そこで語られたことを元にした研究は、きっと多くの人にとって意味あるものになるだろうという確信があった。
もう一つ覚えているのは、見慣れない大学生協を舞台にした場面である。そこで私は、見知らぬ漫画家が作った作品を元にしたプレートサイズのクッキーが提供されているのを見かけた。そして驚いたことに、私の父がかつて描いた絵画作品を元にしたこれまたプレートサイズのクッキーがあったのである。どちらも試しに食べてみたいと思っていたところ、注文する予定のなかった絞りたてのフルーツジュースをレジの女性に勧められ、それを注文することになった。しかし、絞りたてのフレッシュなジュースであっても実はそれは消化と血糖値の観点からあまり体に良くないことを知っていたので、注文をキャンセルしてきちんとした食事を摂りたいと思った。その女性がジュースと一緒に提供してくれたメニューは貧相で、もっと影響豊富で種類の多い食材を食べたいと思ったので、自分で選んだメニューをちゃんと注文し直すことにした。エディンバラ:2026/9/3(木)07:52
19196. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分がこれから本格的に足を踏み入れていく仏教研究の世界を、単なる知識の獲得ではなく、自らの生を養う営みとして再定義しようとしていることを象徴しているように思われる。冒頭で、現在ゼミに在籍する知人と仏教研究の在り方や方法について熱心に語り合っていた場面は、自分の研究が孤独な机上作業ではなく、対話を通じて生成される知的実践へと変わりつつあることを示しているのかもしれない。そこで生まれた研究が多くの人に意味を持つという確信は、自分の研究関心が個人的探究の殻を破り、他者へ届く公共的な価値を帯び始めていることの予感であるように見える。研究とは地下深くで鉱石を掘る作業であると同時に、掘り出したものを地上へ運び、人々が使える形へ磨き上げる仕事でもある。その双方を担いたいという意志が、夢の中では対話の熱量として現れたのではないだろうか。続く大学生協の場面は、研究そのものよりも、それを何によって養うかという問いを象徴しているように思われる。大学生協は学問の制度的空間であり、そこに並ぶ食べ物は、自分がこれから摂取する知識、方法論、思想的遺産の比喩なのかもしれない。見知らぬ漫画家の作品を元にした巨大なクッキーと、父がかつて描いた絵を元にしたクッキーが並んでいたことは興味深い。前者は未知の創造性、後者は家族から受け継いだ創造的資源を示している可能性がある。しかも両者が「見る作品」ではなく「食べるもの」へ変換されている。これは、自分が他者や父から受け取った表現や感性を、鑑賞の対象として外側に置くのではなく、自らの血肉へと取り込み直そうとしていることを表しているのではないか。しかし夢の核心は、勧められたフレッシュジュースをいったん注文しながら、途中でキャンセルする場面にあるように思われる。新鮮で魅力的に見えるものが、必ずしも自分を深く養うものではないと自分は知っていたのである。これは研究生活においても、目新しい理論、流行の方法、周囲から勧められるテーマをそのまま摂取することへの警戒を象徴しているのかもしれない。ジュースは即効性のある刺激であり、完成された形で流れ込んでくる知識の比喩にも見える。それに対して自分が望んだのは、栄養豊富で多様な素材からなる「きちんとした食事」であった。つまり、原典読解、歴史的文脈、哲学的分析、対話、実践的含意などを組み合わせた、時間をかけて咀嚼する研究を求めている可能性がある。さらに重要なのは、最終的に自分がメニューを選び直したことである。ここには、これからの研究人生において「何を与えられるか」よりも「何を自分で選ぶか」が決定的になるという内的宣言が潜んでいるのではないだろうか。エディンバラで新しい学術生活を始めた直後にこの夢を見たことを踏まえると、自分の前には多くの理論、方法、教師、伝統が並ぶことになる。しかし夢は、それらを無差別に摂取せず、自分の身体と知性が本当に必要とするものを選び取れと告げているように見える。今回の夢全体は、仏教研究という新しい食卓の前で、自分が受け身の消費者から能動的な選択者へ変わろうとしている過程を映したものなのかもしれない。エディンバラ:2026/9/3(木)09:15
19197. エディンバラでいくつか驚いたこと
時刻は午後6時を迎えた。今日も昨日と同様に、フローニンゲンで生活していた頃よりも少し早めに夕食を摂った。おそらく今日は、早朝にローイングマシンを使って有酸素運動をしていたこともあり、お腹の減りが早かったように思う。サイクリングマシンも使ってみたが、どうもこれは使い勝手が悪いと思ったので、次回からはアパートメントのジムの方に行き、そこのトレッドミルを使ってノルウェー式4×4 HIITを行っていく。これを洗濯する日の朝、週に3回ぐらい行いたい。
エディンバラに到着していくつか驚いたことがある、まずは、近所の公園に野生のリスがいたことである。かつて米国の西海岸で生活している時にはよく見かけ、東海岸のハーバード大学の敷地内でもリスを見かけていた。昨日リスを見かけた時には思わず癒され、しばらくそれを眺めていた。アパートの自室のプライベートガーデンには、今朝方一羽の美しい鳥がやって来た。このように、エディンバラでも可愛い小動物を近くで眺められる機会があることが嬉しい。自室に関して言えば、部屋のスペースが広くなかったためか、ギターの響き方が違うことに気づいた。壁に対する反響の仕方が違っており、響き方の違いを楽しんでいる最中だ。それともう一つ、今日の午後に買い物に出かけた時を含め、エディンバラの街を歩いていて、何度か大麻の匂いが漂ってくる場面に出会った。オランダで暮らしてきた感覚からすると、一瞬「スコットランドでも解禁されたのだろうか」と思ったが、実際には娯楽目的の大麻は今も違法である。医療用として一定の条件で使われることはあるものの、街中で自由に吸えるわけではない。それでも匂いを感じるということは、法律と現実のあいだにはやはり距離があるということなのだろう。オランダでは制度として可視化されていたものが、英国では違法のまま、しかし日常の風景の中には確かに存在している。この違いは、移住したばかりの自分にとって、社会の規範と実態のずれを感じさせる小さな文化的発見であった。エディンバラ:2026/9/3(木)18:14
19198. エディンバラ大学仏教学プログラムのコース「仏教倫理」
エディンバラ大学仏教学プログラムのディレクターを務めるポール・フュラー博士の「仏教倫理」というコースを今学期に履修する予定だ。この科目の概要を読んでいると、日本法相唯識の研究を今後深めていくうえで、倫理という領域をもっと正面から捉える必要があるのだと感じる。これまで唯識を学ぶときには、阿頼耶識、末那識、三性、種子、転依といった認識論や心の構造に強く惹かれてきた。しかし、唯識は単なる精緻な心のモデルではない。そもそも心の働きを分析する目的は、迷いがどのように生じ、それをどのように変容させ、より善い行為へと結びつけるかを明らかにするところにあったはずである。そう考えると、唯識の中心には最初から倫理が流れていたのだと思う。この授業では、業、輪廻、戒、慈悲、慈愛といった仏教倫理の基礎から出発し、環境倫理、ジェンダーとセクシュアリティ、動物倫理、中絶、安楽死、経済倫理、戦争と平和、人種をめぐる倫理へと議論が広がっていく。まるで古典仏教の小さな泉から流れ出した水が、現代社会の複雑な河川網へと注ぎ込んでいくようである。ここで問われるのは、二千年以上前に形成された仏教思想を現代問題へ単純に当てはめることではなく、その思想が何を照らし、どこで限界を露呈するのかを批判的に検討することなのだろう。日本法相唯識の研究とも、この授業は意外なほど深く接続しそうである。唯識における業と種子の理論は、行為が単発で終わらず、心の傾向を形成し、その傾向がさらに次の行為を生み出す循環を説明する。倫理とは、外から与えられた規則を守ることだけではなく、自分がどのような行為を繰り返し、それによってどのような心そのものを形成しているかという問題でもある。善行を重ねれば善なる種子が薫習され、不善行を重ねれば不善なる傾向が強化される。この発想は、人格形成や習慣形成という現代的な言葉にも接続できそうである。さらに法相唯識では、煩悩によって歪められた認識そのものが行為の源泉になる。相手を固定的な存在として捉え、自他を強く分離し、自己利益に執着すれば、その認識構造から特定の倫理的行動が生まれてくる。逆に転依によって認識が変容すれば、他者への接し方も変わるはずである。ここには、倫理を「何をするべきか」という行為規則だけでなく、「世界をどのように見ているのか」という認識の問題として捉える独自の可能性があるように思う。唯識倫理とは、行為の表面を剪定するだけではなく、その行為を生み出す心の根へ降りていく営みなのかもしれない。良遍など日本法相の思想を研究する際にも、教理の整理だけでなく、その教理が修行や徳、慈悲、戒とどのようにつながっていたのかを見直してみたい。阿頼耶識や三性を哲学的概念として読むだけでは、法相唯識の半分しか見えていない可能性がある。認識論と倫理、理論と実践を再び結び合わせることによって、日本法相唯識の思想が現代社会の倫理的課題に何を提供できるのかも、より慎重に考えられるだろう。この授業は、自分の研究に一本の新しい軸を加えてくれそうである。心はいかに世界を認識するのかという問いから、どのような心を育て、どのような行為を生きるべきかという問いへ。その二つをつなぐ場所に、日本法相唯識の新しい研究可能性が開けているように感じる。エディンバラ:2026/9/3(木)18:44
Today’s Letter
This is my third day living in Edinburgh. I’ve already got almost everything I need for daily life, and I’m gradually settling into and adapting to my new environment. Edinburgh, 9/3/2026


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