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7104-7107: アートの国オランダからの便り 2021年7月4日(月)



No.2438 魂の行方_The Direction of a Soul


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.730, Great Evil

Today’s dream represented the existence transcending good and evil.

A symbolic creature in human shape stood for good, yet it also looked evil.

The other creature was in human shape, too, and it symbolized evil.

For me, it seemed that both were evil and fought each other with tremendous power in order to transcend themselves to something bigger.

Groningen; 06:14, 7/4/2021


No.731, The Unmovable Divine Place

It comes from somewhere.

Then it goes somewhere.

Somewhere is the unmovable divine place.

Groningen; 21:51, 7/4/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7104. 今朝方の印象的な夢

7105. 身体の外部化/テクノロジーによる「総駆り立て体制」

7106. 嘆きの代弁者

7107. 経験できない時間と死/マネーとテクノロジーに関する道徳心・倫理観


7104. 今朝方の印象的な夢


時刻は午前5時半を迎えた。昨日は早朝に晴れ間が広がっていたが、今朝は少し霧がかかってる。昼過ぎからは雷雨に見舞われるとのことであり、今の静けさとはまた違った世界がやって来るようだ。


今朝方は幾分印象的な夢を見ていた。夢の中で私は、実際に通っていた高校に自転車で向かっていた。その高校は山の上にあり、高校の近くにやって来ると、自転車で坂道を登るのがいつも大変であった。


自転車を何気なく漕いでいると、小中高と同じ学校に通っていた小柄な友人が(MY)現れ、そこから一緒に学校に向かうことになった。彼曰く、近道を知っているとのことであり、彼に言われるままについていくことにした。


すると、彼が導くその道はいつもと違う駐輪場に到着することが分かってきた。私は念のため、自転車をそちらの駐輪場に止めても問題ないかを確認した。彼は問題ないと答え、いざ駐輪場に到着してみると、どうやらそちらの駐留場は有料のようだった。


坂を登り切る手前のところに券売機のようなものがあり、そこでチケットを購入する必要があった。値段を見ると、1日8ドルとのことであり、意外と値段がするのだなと思った。仮に定期券を購入すると、月に4万円ほどになるらしい。


1回あたりが米ドル表示になっていて、月の利用が日本円表示になっていることが不思議に思えたが、とりあえず8ドルを券売機に入れてチケットを受け取った。


友人が近道を教えてくれたおかげで、まだ時間が早く、生徒はほとんどやって来ていなかった。そうしたこともあり、駐輪場は空いていて、どこにでも止められた。


すると、小中高時代の別の友人(UM)が現れ、彼がお勧めのスポットを教えてくれた。そこは自転車を所定の器具の上に立てかける場所だった。後々混んでくると、多くの生徒は乱雑に自転車を止め、帰りに自転車を取り出すのが難しくなってしまうとのことであり、器具の上に立てかけておけば帰りの際に自転車を取り出しやすいとのことだった。


私は、友人の助言に従って、自分の自転車を器具の上に立てかけ、分厚いチェーンをして鍵をした。駐輪場を離れ、校舎の靴箱の方に向かっていくと、そこまで随分距離があることを改めて思った。途中にまた小さな山を登る必要があるのだが、山の天辺から見える景色は最高であり、いつもそこから光り輝く海を見ることが楽しみだった。


整備された山道を歩いていると、周りには生徒の数が増えて来て、彼らの話し声を聞きながら、私は1人校舎の靴箱に向かっていった。すると突然、私は巨大な宇宙空間のような場所に瞬間移動していた。私はその空間を見守る者としてそこにいた。


どうやら今から、正義と悪の二大勢力を代表する人間の姿をした2人が、地球の、いや宇宙の存続をかけて戦うようだった。最初私は、両者の外見と雰囲気から正義と悪を識別したが、いざ戦闘が始まってみると、両者の区別が付かなくなってしまった。端的にはどちらも悪に思えてしまったのである。


なぜどちらも正義だと思わなかったのかは定かではない。いずれにせよ、人間の姿をした彼らが持つ途轍もなく大きな力と、彼らの表情からそのように察したのである。


結局私はどちらが正義でどちらが悪だったか全く分からなくなってしまい、最後には、一方の人間の姿をした生命体が巨大化し、宇宙全体を破壊できるかのような巨大なエネルギー弾を放った。それは赤黒い色をしており、エネルギー弾をよくよく観察すると、そこには人間の怨念が蠢きながら宿っているように見えた。


そのエネルギー弾を受け止めようとしてる相手は、その技によっても自分は死にはしないと思っているらしく、幾分余裕の表情すら浮かべているように思えた。実際にエネルギー弾がその人間にぶつかると、地球全体に亀裂が走った。どうしてそれが分かったかというと、私の意識はなんと2つの場所に留まることができ、片方の意識は2人が戦っている宇宙空間に、もう一方は地球にあったからである。


最終的には、そのエネルギー弾によっても決着は付かなかった。気がつくと私は、学校の部室にいた。


今から日本人の有名な社会学者の先生を交えて、今見ていた二大勢力の戦いについて生徒たちと一緒にディスカッションすることになった。先生が真っ先に二大勢力は善とも悪とも言えないという論点を切り出し、私もそれに賛同する形で、自分が見たことを交えながら意見を述べていった。そのような夢を見ていた。


この夢はとても印象深い。山の上の高校に到着する間近になって一生懸命に自転車を漕いでいた姿と、駐輪場に自転車を止めて山の上から光り輝く海を眺めた瞬間が印象に残っている。そして最も印象に残っているのは、何もない巨大な宇宙空間で二大勢力が戦闘を始めたことである。


夢の中の自分が感じたように、善と悪に簡単に分けることのできない存在が印象的だ。彼らは善悪を超えていたとも言えるが、どちらも核心部分は悪であり、究極悪だという見方もできる。


一方が地球だけではなく、宇宙全体を破壊しかねない巨大なエネルギーを使って技を繰り出し、反対側がそれを何食わぬ顔で受け止めようとしていたことも印象に残っている。この夢の場面は、今の自分の探究事項と遠からず関係しているように思える。フローニンゲン:2021/7/4(日)06:04


7105. 身体の外部化/テクノロジーによる「総駆り立て体制」


うっすらとした雲が空を覆っていながらも、静かな朝の世界が佇んでいる。先ほどバーナード·スティグラーの書籍を読んでいると、テクノロジーの問題についてまたいくつか考察が進んだ。


スティグラーの言葉の中に、「身体の外部化」というものがあり、それは金融資本主義と強く結びついている。ヴァーチャル技術を通じた感覚の拡張、擬似身体の開発、遺伝子操作された食なども身体の外部化を象徴する現象であり、私たちはますます身体性が外部化される状況に置かれている。


ヴァーチャル技術による感覚の拡張や擬似身体の開発は、直ちに身体性の喪失とは言えないであろうが、それらのテクノロジーの用いられ方いかんによっては簡単に身体性が剥奪されてしまうのではないという危機感がある。


現代は、ハイデガーが指摘するように、テクノロジーによる「総駆り立て体制」が構築されてしまい、私たちはその中で生かされている。そこでは物と人が同質なものとみなされ、全てがモノ化された形で管理·取引される。全てがモノ化された形で運営される社会システムは、人々がそこに参画すればするだけ無限に膨張していく。


かつてニーチェは、人間には対象を我が物とし、それを支配し、より強く大きな存在になろうとする意欲——力への意志——があると指摘したが、現代人はテクノロジーを我が物にしているというよりもむしろ、テクノロジーによって人間がモノ化されているという逆転現象を見る。


人は何のためにより強く大きな存在になろうとするのだろうか。そこには実存的な不安を含めたシャドーの問題があり、またそもそも超越的な視座の欠落によって、本来超越的な存在が自分の中に宿っており、それを目指すことがどれほど愚かなことなのかという洞察が欠落しているのだ。


自らの欲望とテクノロジーによって駆り立てられる人間は、これからどこに向かっていくのだろうか。そのようなことを考えながら、デジタルフェロモンの餌食になっている多くの現代人について改めて考えていた。


上記の指摘と類似するが、日本に帰った時に電車に乗って驚くのは、大抵の人が周囲に対して無関心なままスマホに釘付けになっている姿だ。それはとても自閉的な姿であり、異様な光景である。


まさにそこには、人間がテクノロジーを使っているのではなく、テクノロジーが人間を使っているという転倒現象がある。そしてこの現象は、マルクスが述べた疎外や搾取とも関係している。


人間はテクノロジーを無自覚に使えば使うだけ、人間ではないものになっていく。人間からますます疎外されていくという危機的な状況がそこにある。一方で、時代は「人新世(anthropocene)」と呼ばれるようになって来ているが、それは疎外された人間が作り出した環境的な危機の時代を指すのだと思う。


スティグラーは、そうした時代の危機に対抗するための概念として“neganthropocene”という言葉を提唱している。今からその意味の理解をより深めていくことを含め、スティグラーの書籍をさらに読み進めていこうと思う。フローニンゲン:2021/7/4(日)09:16


7106. 嘆きの代弁者


気がつけば正午を過ぎていた。午前中の読書に没頭しているともうこんな時間だった。


以前より朝食を摂らず、昼はバナナとオートミールという軽めの食事を摂ることが続いていたが、ここ最近は昼食を摂る時間とそれを消化するエネルギーがもったいなく、読書に時間とエネルギーを充てている。今日もそのような形で午前中の読書を行なっていた。


マネーとテクノロジーによる主観性の植民地化に激しく抵抗しようとしている自分の魂。探究活動と創作活動に駆り立てている中心にはそれがある。駆り立てられるようにしてマネーとテクノロジーの内在的特性とそれが生み出す社会の病理構造に関する書籍を読み漁っている自己がここにある。


新たなテクノロジーというのはそれを生み出すだけでは無責任であり、それを新生児のようにケアが必要な存在としてみなし、テクノロジーの創出と共にその利用に関する規範的な方向性をケアとして示す必要があるのではないか。そうしたケアが欠如した状態でテクノロジーが生み出され、それが利用されている状態を危険視する。


現代においては、私たちはテクノロジーを決して「活用(活かして用いる)」などしておらず、自らの人間性を放棄させ、それを死滅させる形で「死用」しているのだ。マネーに関しても同様である。人間はマネーに取り込まれ、人間性を喪失し、それを活かして用いることなく自らの人間性を殺す形でそれに従属している。


午前中にふと、世界の嘆きの代弁者として、全ての存在者の嘆きの代弁者としての役割を積極化果敢に引き受けていくことについて考えていた。世界と全ての存在者の嘆きから汲み取った実存的なメッセージを投げかけていくことが自分に与えられた重要な役割である。


そのメッセージをどのような形で伝えていくのか。自分の魂は、今その方法を模索している。


その方法もいつか目の前に現れるだろう。あるいは、魂がそれを自ら生み出すかもしれない。とにかく今はメッセージに必要な事柄を学習し、思索し続けていくことだ。


正午のフローニンゲンに吹く風は優しい。先ほど隣人のサハルの息子のフィンが、友達の女の子と一緒に敷地内を駆け回っていた。


昨日サハルと敷地内の門のところで出会し、少し立ち話をしていた。その時に話題に挙がっていたように、フィンのその友達はスリナム出身のオランダ人の娘のようである。


現代を覆う視座の低い発想と行動。人間中心主義的な発想を超え、地球中心主義的な発想さえも超えて、宇宙全体の観点から全てを捉え直していくことが必要に思えてくる。


視座そのものはどこまでも高く、行動はどこまでも具体的なものにしていくこと。浅薄さの蔓延る現代社会を眺めていると、高い視座と具体的な行動の双方が強く求められているように感じる。フローニンゲン:2021/7/4(日)12:31


7107. 経験できない時間と死/マネーとテクノロジーに関する道徳心・倫理観


時刻は午後4時を迎えた。今、外は明るいが、天気雨が降っている。天気雨を避けるかのようにして小鳥たちが木々に止まっており、そこで鳴き声を上げている。


先ほどは激しい雷雨に見舞われていた。天気予報を確認すると、もうしばらく雨が降るようだ。


先ほど、時間を経験するとはどういうことなのだろうか、そして死を経験するとはどういうことなのだろうかという問いと向き合っていた。どちらも共に私たちは経験できないのではないだろうか。


時間は直接経験できない形で存在しており、死もまたそのような形で存在している。私たちには決して経験できない形で存在しているそれらの現象の不思議さを思う。


現象としては存在していながら、経験できない形で存在している現象はその他にもあるのだろうか。それについても考えが巡る。


今日もまたマネーとテクノロジーに関する書籍を読み進めていた。とりわけテクノロジーに関して、神学や宗教がテクノロジーの使用に関してどのような役割を果たすことができるのか、そしてどのような役割を果たすべきなのかについて考えていくための文献をいくつか購入していきたいと思う。


マネーに関して神学や宗教が果たす役割に関する書籍はすでにいくつか揃えているが、文献リストを眺めると、次回の一括注文の際にもう少し必要な書籍があることがわかる。


知識や観点さえあれば、マネーやテクノロジーとの接し方、そして使い方に関して今からすぐにでも変えられる。この領域へ貢献していく意思を明確にする。民間の人々の次元から、政策立案者を含め、国の運営方針に関する次元において、マネーや経済、そしてテクノロジーに関する政策の方向性を検討する際に有益となる観点を共有していくことも自分に課せられている役割なのかもしれない。


マネーとテクノロジーはひとたび誕生してしまうと、それをなくすことはできないという不可逆的な性質を持っており、その性質を考えると、それらに関する道徳心や倫理観をいかに高めていくかが歩むべき道なのではないかと改めて思う。マネーやテクノロジーに関する知識や観点の共有というのはそこと結びつく。


なるほど、先ほど読み進めていたフィリップ·グッドチャイルドの書籍の中に倫理に関するテーマが1章設けられていたのはそういうことなのかもしれない。その観点でバーナード·スティグラーの書籍を読み返すと、スティグラーもテクノロジーに関する倫理について論じていることがわかる。このテーマは自分にとっても極めて重要である。フローニンゲン:2021/7/4(日)16:18

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