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6984-6987: アートの国オランダからの便り 2021年5月29日(日)


No.2306 内的稲妻_Inner Lightning


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.657, A Tranquil Moment

A fresh tree is standing blissfuly.

I’m the seer.

I’m totally identified with the tree and absorbed in it.

A tranquil moment has come.

Groningen; 06:41, 5/29/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた4曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

6984. 今朝方の夢

6985. 今朝方の夢の続き/おもちゃ屋のベンジャミン

6986. 具体的な理想主義に基づく不在の不在化を通じた社会変革

6987. 未知性への開かれ/心と意識の特性と文明の病理


6984. 今朝方の夢


時刻は午前6時を迎えた。数羽の小鳥たちが高らかに鳴き声を上げている。


今この瞬間はうっすらとした雲が空を覆っているが、今日は晴れとのことである。ここから数日間は天気が良く、そして気温がようやく上がって来るので嬉しく思う。やっとのことで暖かさが感じられるようになったフローニンゲンであり、そろそろ暖房や湯たんぽを使わなくていいようになるだろう。


朝のこの時間帯はいつものように夢の振り返りに充てるとしよう。小鳥たちの鳴き声に耳を傾けながら瞑想の意識状態となり、夢の世界に再び入っていく。


夢の中で私は、日本の見知らぬ街にいた。そこでホテルに宿泊しようとしていた。既に誰かがチェックインをしてくれていたらしく、私は気づけば部屋にいた。しかしながらこのホテルの説明を聞いていなかったので、受付に行って説明を聞こうと思った。


受付に到着すると、女性の従業員が応対してくれた。やはり誰かがチェックインを私の代わりに行ってくれていたらしかった。また、ホテルの情報は携帯に送られて来るとのことだったが、海外の番号の場合にはうまく機能しないこともあるとのことだった。電話番号の国番号を尋ねられ、私はオランダの国番号を伝えた。


そこからはどういうわけか、その女性の従業員の方が、最近日本で流行っているNHKドラマについて話をしてくれた。私はそのようなドラマが流行っていることを知らず、興味深く聞いていた。どうやら今やっているドラマは物語が面白く、歴史を学ぶ上でも参考になるとのことだったので、私も見てみようかと思った。


受付から自室に戻り、トイレを改めて見てみると、そこに水やアクエリアスのペットボトルが備え付けられていることに気づいた。既に水に関しては近くのコンビニで購入していたようであり、それを買う必要がなかったと思った。アクエリアスは飲みかけのように見えたが、最初から少し上部に隙間を作る形で販売されているようだった。


ふと足元を見ると、足元のゴミ箱の横に袋があり、その袋の中にキットカットが入っていた。それも食べかけのように思えたが、まだ未開封のようだった。


喉が乾いていたので、飲みかけの水ではなくアクエリアスでも久しぶりに飲もうかと手を伸ばしたら、突然私は別の場所にいた。そのホテルは隣のデパートと繋がっていて、その連絡道にいた。そこで小中学校時代の2人の友人と高校時代の友人と出会った。


ひょんなことから、私たちはそこでフットサルをすることにした。2対2のゲームを行うにあたって、自分たちで工夫してゴールを作った。


相手のチームは、地面にチョークで線を描き、それを数本の橋と見立てた。ゴール前に向かう際に、その橋をドリブルで通らないとダメとのことだった。それは面白いアイデアだと思ったが、ゴールも橋のように狭く、ゴールに関しては幅のある形にしてもらうようにお願いをした。


2人はゴールの幅の大きさがどれくらいのものがいいのかわからないとのことだったので、私は両手を広げ、大体の感覚でゴールの幅を決めた。ゴールを設定したところで試合を再開し、私は比較的簡単にゴールを決めた。


最初は1点決めたら勝ちというルールだったが、あまりにも簡単にゴールを決めてしまったので、2点先取で勝ちというルールに変更した。私は得点を決めたことを、遠くのゴール前で守っている友人に伝えに行った。


今朝方はそのような夢を見ていた。その他にも、父が現れる場面があり、私が海外でもサッカーを続けているのか心配しているようであり、サッカーはしておらず、フットサルをしていると伝えると、父は安堵の表情を浮かべていた。


サッカーはフットサル以上に身体能力の差が出やすく、海外でサッカーをするのはなかなか難しいことを父に伝えると、納得しているようだった。そのような場面もあった。フローニンゲン:2021/5/29(土)06:36


6985. 今朝方の夢の続き/おもちゃ屋のベンジャミン


先ほど朝風呂に入っているときに、夢の世界の続きを思い出した。それは先ほど書き出した夢の続きかどうか定かではなく、ひょっとしたらその夢よりも先に見ていたかもしれない。


夢の中で私は、不思議な塔の中の階段を上へ上へと登っていた。私の目の前には、協働先の会社の女性メンバーの方がいて、その方と話をしながら最上階に向かって階段を登っていた。


塔の内部は吹き抜けになっていて、最上階の方をふと眺めたところ、その姿は全く見えなかった。到着地点が全く見えなくても、その女性の方と話をしながらであればいつか気づかない間にそこに到着しているだろうと楽観的に思った。


しばらく階段を登っていくと、あるところでその方が突然泣き始めた。そして私に怒りをぶつけてきたのである。突然のことだったので、私は事情が掴めなかった。何やら、私がその方の名前を呼び間違えていて、それが問題のようだった。


厳密には、名前は正しく呼んでいたのだが、イントネーションが違ったらしく、イントネーションが違うと、その方の名前は思わぬ意味に解釈されやすいので、それを嫌っているとのことだった。私はすぐに誤り、イントネーションを修正することにした。


そのような夢の場面があった。正直なところ、夢の中の私は、イントネーションが違うことは些細なことだと受け止めていて、それで泣いたり怒ったりするその方に対して思わず笑ってしまいそうになっていた。


そう言えば、そのようなやり取りをしているときに、いつの間にか塔の最上部に到着していたことを思い出す。他者と一緒に泣いたり怒ったり、そして笑ったりしながら歩みを続けていけば、いつか思わぬ高みに到達していることを暗示した夢だったのだろうか。


ここのところ書籍を連日注文しているが、おそらくそれも少し落ち着き、今日は何も注文しなくて済みそうだ。書籍の注文の際には、その概要と中身検索までも比較的綿密に行っているので時間がかかる。


だがこの作業を通じて、その書籍の概要やエッセンスを既に押さえることができているというのは肯定的な意味を持つ。届けられた書籍を集中的に読み進めていき、そこからまた派生的に必要な書物を次々と読んでいこうと思う。


この間、書籍の受け取り先が近所のおもちゃ屋に指定されていた。買い物の途中に必ずその店の前を通っていて、ガラス窓から店内を眺めてみると、昔流行っていたカードゲームなど、懐かしくの品が売られていることに気づいた。


先日書籍の受け取りにその店に入ったとき、対応してくれた20代後半の比較的若い男性がとても気さくであり、彼が日本のアニメマニアであることがわかり、アニメの話で随分と盛り上がった。


私が見たアニメに関しては大抵ほぼ全て彼も見ていて、彼のベストアニメはHunter × Hunterとのことであり、先月か先々月に私も全てのエピソードを見返しており、このアニメでまた話が盛り上がった。あまりにも話が盛り上がったので、私は彼の名前を聞いた。彼の名はベンジャミンという。


友人のメルヴィンも日本のアニメをよく見ているが、ベンジャミンともまた話をしてみたいと思うほどの人柄を彼は持っていた。趣味というのは思わぬ形で人と人を繋ぎ、世界を広げてくれるものなのだということを改めて感じる。フローニンゲン:2021/5/29(土)07:47


6986. 具体的な理想主義に基づく不在の不在化を通じた社会変革


時刻はゆっくりと昼時に近づいている。今日の午前中も読書が捗り、その過程で得られた気づきのいくつかを音声ファイルの形式で学習コミュニティに共有していた。


これまで人間発達に伴うディスコースに対して行っていたことと同様に、経済·金融を取り巻くディスコースについてもその歪みや病理を特定し、ディスコースを変容させていくことを行っていく。新たなディスコースを提示しながら、学習コミュニティにそれを共有し、ディスコースの変容に向けた意識をお互いに高め合い、身近なところから実践を始めていくことをこれからも行っていく。


少し前に、鎮痛剤に含まれるオピオイドに依存して、社会生活を営むことが困難な人たちと、そうした人たちに溢れるアメリカのとある街が取り上げられたドキュメンタリーを見ていたことを思い出した。


ひとたびドラックに対して中毒症状となってしまうと、そこから脱却することは難しい。それと同じことが既存の経済·金融思想に対しても起こっているように思う。


人は変化を希求しながらも、変化を拒む生き物でもある。既存の経済·金融思想に飼い慣らされてしまっている現代人は、新たな経済·金融思想に置き換わる際の心理的な抵抗と心理的なスイッチングコストが大きいのかもしれない。


まさに彼らは既存の経済·金融思想へ中毒症状を患っていて、彼らの思想上の治癒をいかに図っていくかを考えていく。代替思想の具体的な提示。それに向けての探究を進めていく。


午前中の読書の中で、バスカーが述べる「具体的な理想主義(concrete utopianism)」について考えていた。それは空想的な理想主義ではなく、「具体的」であるという点にポイントがある。端的には、今与えられている資源を用いて現在の状況をどのように変えていくことができるのか、今まで盲点になっていた方法はないかを探索し、それをもとに状況の改善に乗り出していくような発想のことを指す。


この発想と、バスカーが提唱する「不在の不在化(absenting absence)」の考え方は密接なつながりを持っている。「不在の不在化」という考え方は、かつての英国首相マーガレット·サッチャーが述べた「代替案はなし(TINA:There Is No Alternative)」とは真逆の発想である。


それは、この世界にまだ顕現していない状況打開案を探索し、不在となっているそれを不在化させる、すなわち顕在化させることを通じて変革を行っていくという姿勢を表している。そのようなことを考えながらバスカーの書籍を読み進めていると、バスカーが社会変革に向けた批判の種類を3つほど提示している箇所を発見し、そこを注意深く眺めた。


そこで記述されていた「内在的批判」「除外的批判」「説明的批判」の観点は、現代文明が患っている種々の病理的現象を生み出す構造を批判的に捉えることを可能にし、治癒の方策を提示することにつながっていくであろう。


取り止めのないことを考えながらも、重要なことは、現代文明を覆うディスコースの病理的側面を明らかにし、具体的な理想主義の発想の元、不在の不在化を通じて代替的なディスコースを提示し、それを多くの人に共有しながら小さな実践を積み重ねていくことを促していくことである。


それでは今から、マックス·ウェーバーの世界の諸宗教の経済倫理思想について考察した書籍を読み進めていく。フローニンゲン:2021/5/29(土)11:47


6987. 未知性への開かれ/心と意識の特性と文明の病理


時刻は午後7時半を迎えた。とても穏やかな夕方の世界が目の前に広がっている。


仕事場の窓の外には車庫があり、その屋根の上の陽だまりで、今1匹の猫が安らかに寝ている。優しい夕陽を浴びながら眠っているその猫は、とても幸せそうである。


その人の実存性が滲み出すような表現活動に惹かれる自分がいることについて先ほど考えていた。そこから、創作においては、やはり何が生まれるかわからないという未知性が自分を創作活動に駆り立てているのだと思う。


それは創作活動だけに限らず、今このように執筆している日記においてもそうであるし、日々の探究活動においてもそうなのだ。結局、何が形となって現れるかわからないところに面白さを感じているのだろう。


未知なものに対して絶えず開かれた姿勢を持っておくこと。それが発達上の肝なのかもしれない。


午後、自分が食について何もわかっていなかった時代があったのと同じく、カネの性質についても未だに謎が多いことにハタと気づかされた。大学時代に経済や金融を学んでいたとしても、アカデミックな世界で語られることの大半は表層的なものであり、カネの本質的な特性が覆い隠された形で理論形成がなされていたりすることに改めて気づかされる。


今はそうした意味でカネについて学び直しをしているのだ。とても身近なところにある食について全く無知な人が多いように、カネもそうした無知の対象になっている。


無知のベールをまずは自分の中で1つ1つ取り除いていくこと。それはバスカーで言うところの、カネに関する“under-laboring”に該当するはずだ。


文明批判に対する関心が突如目覚めたことに関して、言語依存型の文明の限界について考えていると、結局それは人間が心を持つことの限界を意味しているのかもしれないと思う。


本日読み進めていたいくつかの書籍の内容を総合的に振り返ってみると、言語依存的な、ないしは記号依存的な心の特性そのものが文明の歪みを生み出しているように思えてくる。もちろん文明を生み出すのはそうした言語的なもの、ないしは記号的なものの力なのだが、そこには絶えず歪みが入り込んでしまうことは不可避であり、それが文明の病理を生み出してしまっていることは皮肉である。


その他に考えていたこととしては、カネは未来の財やサービスへの交換のために存在するという機能的な価値は、人間が未来を見据えてしまう時間的意識と関係しているのかもしれないという点である。


カネの将来の交換的機能を盲信し、カネに囚われている人間は、おそらく今を生きることが難しいのだろう。大抵の人間が今を生きることが難しいということを考えれば、大抵の人間がカネに囚われているというのも納得がいく。


現在の金融経済は、カネの未来的特性と将来に関する投機と信用によって成り立っていて、それは今を生きられない人間、すなわち将来にばかり意識が向かう人間を惹きつけていく。


言語·記号·時間意識というのは、どうやら文明の負の側面を形成することに加担しているようである。フローニンゲン:2021/5/29(土)19:48

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