No.2184 光の幻覚_A Hallucination of Light
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.575, I Am
The morning world is like the vast ocean.
The morning sky is like the vast universe.
I’m in the ocean and universe.
I am them, too.
Groningen; 05:36, 5/1/2021
No.576, Transverbal Experience
Recently, a flood of transverbal experience has often occurred to me.
The series of experience is not preverbal but postverbal.
I’m feeling that I’m transforming into a transpersonal being.
Groningen; 06:18, 5/1/2021
No.577, A Surfer
I’m a surfer.
I’m a surfer who can ride on any waves of boundless contexts.
Many pity postmodernists often drown in water of contexts.
I’m a surfer who is never drowned.
Groningen; 11:20, 5/1/2021
No.578, Nothing & Anything
I’m identified with emptiness and all manifest forms.
I’m nothing, and at the same time, I’m anything.
Groningen; 11:36, 5/1/2021
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本日生まれた5曲
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タイトル一覧
6870. 今朝方の夢
6871. 未知や不確かさを愛でる自己
6872. 戯れとしての自己/一者へ向かう道と多者を抱擁する道/構造的カップリング
6870. 今朝方の夢
時刻は午前5時を迎えた。今、小鳥たちが鳴き声を上げ始めた。
辺りはまだ暗く、空はダークブルーの表情を見せている。これからゆっくりと夜が明けていく。
1日を始めるにあたって、今朝方の夢を振り返っている。今日の夢はそれほど覚えていることがないかもしれないが、振り返りながら色々と思い出すことがあるかもしれない。
夢の中で私は、友人の家のある部屋にいた。友人の家は個人塾を営んでいて、そこは塾が開かれる部屋のようだった。私は小さなホワイトボードの前に立ち、これから何かについて説明をするようだった。
ホワイトボードには箇条書きで説明のポイントが書かれていた。それを書いたのは自分ではないが、それらの項目は自分の頭の中にあったものであり、説明するのは自分だった。
その場には数人の友人と、その塾の先生でもあった友人の父親がいた。先生は後ろの方で黙って立っていて、今から行う発表を静かに聞こうとしているようだった。
いぜ自分が発表を始めると、その家に住む友人が発表に割り込んできた。私はそれによって自分の説明が中断されてしまい、本当は最後まで話したかったのだが、そこからは友人に好きなように話をさせてみることにした。そこで夢の場面が変わった。
次の夢の場面では、私は見られない本屋にいた。そこは日本の本屋のようだった。
本屋の一角でとある学術書を立ち読みしていた。私はすでにその書籍と、詩集を1冊購入することを決めていた。
すると、小中高時代の友人(HO)が近くにやってきて、私に話しかけてきた。私は自分が購入しようと思っている2冊を彼に紹介すると、彼は中身を見ずに本棚に置いてあったそれらの書籍を手に取り、レジに持っていった。
彼はどうやら、自分が読んでいる本はとりあえず読んでみようと思っているようだった。2冊の書籍はどれも一般受けするものではないのだが、彼がそれらの書籍を購入してくれることを私は著者のように嬉しくなり、著者もきっと喜ぶだろうと思った。
気がつくと私は本屋の外にいて、広場のような場所にいた。脳裏には新幹線の線路が立ち現れ、近日中に日本で大事なイベントが行われるらしく、そのために線路の本数が増やされている情景が見えた。
そこでふと、新幹線の切符を購入する必要があると気づいた。どうやら定期券の更新をする必要があるらしかった。
広場の奥の方に切符の販売所があり、4つのカウンターが設置されていた。並ぶことなくそのうちの1つに近づいていき、そのカウンターには中年の女性が座っていた。
その方に定期券の更新のお願いをすると、どうやら色々と記載事項があるらしく、手続き書を渡された。それに記入を済ませたら、隣にあるチケット発行センターで定期券を受け取るという流れになっていると説明を受けた。
記入事項が多く、意外と面倒だなと思い、一緒に帰ると約束した友人たちはどこで待っているのだろうかと考えたところで夢から覚めた。フローニンゲン:2021/5/1(土)05:32
6871. 未知や不確かさを愛でる自己
ここ最近の探究活動に従事している自分を見ていて思うことがある。どうやら今の自分は、知ることの喜びよりもむしろ、知らないことの喜びを感じながら探究を進めているようなのだ。もっと言えば、未知の大海の中に絶えず浸っている喜びを感じているようなのだ。
この感覚について改めて考えていると、無限に広がる未知で不確かなものに安心して留まることができている感覚の中で探究を進めていると言えるように思えた。そこには、未知や不確かさに耐えるだとか、それを乗り越えていくといった過度に男性的なあり方ではなく、むしろ未知や不確実さを抱擁するような女性的なあり方が見える。
未知や不確かさにくつろいでいる感覚。未知や不確かさにくつろぎながらにして安住できている感覚がある。そうした感覚が根底にあるがゆえに、ここ最近の探究がこれまでにない勢いと深度で進んでいるのかもしれない。
先ほど、音楽と意識の構造的カップリングに考えを巡らし、いくつか関連書籍を文献リストに追加した。音楽を構成する種々の要素の中で、ハーモニーというのは垂直構造を司るものであり、そうした和音構造と意識の構造は構造的カップリングを起こしうるのではないかということを考えていた。
音楽が治癒や変容をもたらすことは広く知られているが、音楽理論的な観点かつインテグラル理論を含めた人間意識に関する様々な理論をもとに、音楽と人間の意識の探究については引き続き関心を持っていく。
今朝方、玄関フロアに依然として残っているダンボールの中から、3冊ほどこのテーマに関する書籍を引っ張り出してきた。当面は和音構造とリズムを司る拍子に焦点を当て、そこからは音楽に内包された特殊な時間、そして音楽が生み出す特殊な時間感覚と人間意識についても探究を広げていこうと思う。
ちょうどこのトピックに合致する良著を見つけたので、それも参考文献リストに加えた。明日か来週末に書籍を一括注文する際には音楽関係の書籍を購入する予定はなく、本日リストに加えた書籍はもう少し後になって購入することになるだろう。
5月の一括注文は引き続き、霊性に関する書籍(「霊性の社会学」、ないしは「トランスパーソナル社会学」のような領域でいくと、世界の宗教と戦争に関する書籍もいくつか購入しようかと考えている)と、高度な意識段階が体現された種々の詩集を購入することになるだろう。
毎回のことだが、実際には当初購入を予定していたもの以外にも色々と注文することになり、最終的に何を注文するのかはその時になって初めて決めることがよくある。5月の一括注文に際してどのような書籍を購入することになるのか、それもまた楽しみである。ここにも未知や不確かさを愛でる自分のあり方が伺える。
日々、緩やかに少しずつ変貌を遂げていく自己。自己は変容の旅をゆっくりと歩きながら、全てと一つになりつつある。フローニンゲン:2021/5/1(土)10:59
6872. 戯れとしての自己/一者へ向かう道と多者を抱擁する道/構造的カップリング
土曜日がゆっくりと終わりに向かっている。今日は天気予報に反して、ほとんど雨が降らなかった。というよりも日中に雨が降った様子を見かけなかったように思う。
明日は午前中から昼過ぎまで雨が降るようだが夕方は雨が収まっているようなので、夕方に近所のスーパーに買い物に出かけようと思う。
今日も探究活動に励む過程の中で、雑多なことを考えていた。戯れとしての自己。自己は世界の戯れとして顕現し、自己の1つ1つの活動もまた世界の戯れとして顕現されてくる。
自己も世界も遊戯なのだろうか。どちらも共に遊戯であって、双方は交感しながら交流し、1つとなる。
自己と世界の完全なる一致。今日はそうした感覚に包まれていた。
昨日見たアニメ映画について、今日も少しばかり振り返っていた。あの作品の中で描かれていたように、一者に向かう道だけを極度に歩んでいこうとすることは、多者を抱擁する道を一者へ向かう道に折りたたんでしまうという一種のフラットランド現象だと言えるだろう。
それはまた、低次の段階への恐れから生まれるフォボス的な運動と見ることもできる。一者へ向かう道と多者を抱擁する道の双方が重要であることを肝に銘じる。
そこからふと想像力を働かせた思考実験として、低次の段階と入れ替わってみることによって、フォボス的な衝動がどれほど自分の内側に存在しているのかを確かめることができるのではないかと思った。
逆に、多者を抱擁する道を過度に進もうとするあまり、一者へ向かう道を歩むことに足踏みしてしまうこともまた1つの病理であり、それは高次の段階を破棄しようとするタナトス的な衝動である。ここでは逆に、自らを高次の段階へと高めてみるという想像を働かせることによって、高次の段階を忌避するタナトス的な衝動がどれほど自分に内在しているのかを確認することができるのではないかと思う。
新居での生活が毎日本当に充実している。自分を邪魔するものは何もなく、穏やかな環境と時の流れの中で自らのライフワークに打ち込むことができている。
複雑系は自らの構造を環境の構造に適応させていくという特徴があり、それは「構造的カップリング」と呼ばれる。今、新しい環境の構造に自己の構造が新たに適応している姿を見る。
これは単に物理的な住環境のことを指しているのではなく、精神的な環境のことも指しており、これまでにはない精神物理環境の構造に自己が適応する過程の中で、自己はまた新たに生まれ変わろうとしている。
忘れてはならないのは、4象限それぞれに構造があり、それぞれの構造が影響を与え合いながら互いにカップリングしていることである。自己はカップリングの作用因として存在していて、同時にカップリングの産物でもある。
ここから自分はまたどのような精神物理環境の中に身を置くのだろうか。来るべき時にふと時間意識が向かう。フローニンゲン:2021/5/1(土)19:49