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6467-6469: アートの国オランダからの便り 2020年12月10日(木)


No.1624 神聖な花_A Divine Flower

本日の言葉

If one loses oneself in illusory activities, without importance, this human body, so rare and gained at the cost of many merits, without doubt will prove useless. Gyalwa Gendun Gyatso


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本日生まれた4曲

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タイトル一覧

6467. 今朝方の夢

6468. キム·ギドク監督の『絶対の愛(2006)』を見て

6469.本日の映画鑑賞より


6467. 今朝方の夢


時刻は午前6時半を迎えた。静けさに包まれているフローニンゲンの朝。今の気温は1度であり、今日は日中の最高気温が2度までしか上がらない。空は曇がちのようだが、時に太陽の姿を拝めるかもしれないと予報から思う。


昨日ある件に関して、非常に狭い範囲でしか現象を見ることができない人に対して、どのように説明をすれば全体像を見てもらえるのかについて考えていた。人は何かを思い込むと、それにしか目が行かなくなってしまうので、認識の枠組みを広げるような説明の仕方が必要かと思う。


そのようなつもりで昨日メールを書いたのだが、それでもまだ向こうが理解を示さなければ、より丁寧に説明をしてみようと思う。提供するデータの範囲を広げ、1つ1つ丁寧に小学生でもわかるような形での説明を心がけてみよう。


今朝方は印象的な夢を見ていた。何が印象的だったかというと、先日に見た夢と全く同じ夢を見たからである。夢の中の私は、最後にそのことについて気づいていた。「あれっ、これは先日見た夢と全く同じだぞ···」そのように思った時、夢から覚めた。


その次に見ていた夢は、大きな絵画を回収して回るものだった。それは映画『ミケランジェロの暗号(2010)』や『ミケランジェロ·プロジェクト(2014)』を彷彿させるような形で名画を回収していた。


夢の中では映画と違い、戦争の戦禍から名画を守るというものではなかったが、私は何かから守ろうとする意味で作品の回収に奔走していた。この夢が示唆していることはなんなのだろうか?


芸術作品は何か自分が大切にしているもの、あるいは社会が大切にしているものを指すとすれば、それを現代という時代の歪みから守ろうとしている自分の意思を表しているのだろうか?


そこからさらに別の夢を見ていた。起床直後に夢の内容を殴り書きしたメモを見ると、少し文字の判別が難しいが、私は外国人ばかりの観客で埋められた立派なサッカースタジアムにいた。そこはドイツの名門チームバイエルン·ミュンヘンのホームスタジアムだった。


そこでどうやら欧州チャンピオンズリーグの試合があるらしく、バイエルンの対戦相手はロンドンの名門チームアーセナルだった。強豪同士のゲームが非常に楽しみであり、試合開始をスタジアムのスタンドで待っていると、そこで夢が変わった。


最後に見ていた夢は、日本の高速道路のサービスエリアが舞台だった。そういえばその前に、一瞬ほど学校にいる夢の場面があったことを思い出す。


小中学校時代のある女性友達(RS)と教室で話をしていたところ、彼女に面白いものを見せて上げようと思って、誰もいない最上階の美術室かどこかに彼女を連れていこうとした。彼女は何が見れるのかを楽しみにしているという気持ち半分、最上階に連れて行かれることに対して不安に思っている気持ちが半分混じっているように思えた。


彼女の不安を解消するために、教室から最上階に向かっている最中には色々と話をした。すると途中で、1学年下の後輩たちの教室がある階に到着した。


そこで後輩の男女がゾロゾロと教室から出てきて、私たちが最上階に2人で向かっている姿を目撃した。彼らは何かひそひそ話をしているようだったが、それを気にせず私たちは最上階に向かった。


そのような場面を挟んでサービスエリアの夢が現れた。私はそこで昼食を食べようと思っていた。


私は、小中学校時代の男女の友人数名と一緒に旅行をしていて、彼らはすでに各自が食べたいものをサービスエリアで購入していて、駐車場近くの椅子に腰掛けて昼食を食べようとしていた。私の手には持参した弁当があったので、それを持って椅子の方に向かった。


私が座ろうとした所の横のスペースが弁当を広げるほどに広くないと判断したので、私はそこから少し横のスペースに腰掛けようとした。私を追ってやってきた親友(HS)の弁当の大きさであれば、私が最初に座った場所でも無理なく弁当を広げることができるだろうと思ったのだが、なんと彼は私が座り直そうと思った場所に座ったのである。


私は事情を説明したのだが、彼は笑いながら一向に席を譲ることをしなかった。私は冗談がてら、彼の味噌汁を椅子の上を滑らせる形で動かそうと思ったのだが、味噌汁の容器が椅子から落ちてしまい、味噌汁がこぼれた。


一瞬気まずい雰囲気になったが、彼は問題ないというような表情を浮かべていた。私は黙って飲みかけの自分の味噌汁を彼に差し出したところ、彼がポツリと、「オレンジジュース···」と述べた。


一瞬何のことかわからなかったが、私が今し方こぼしたのは味噌汁ではなく、オレンジジュースだったようだ。私は間違いなく味噌汁だと思っていたのだが、確かに地面にこぼれているのはオレンジジュースだった。


私は後から弁償としてオレンジジュースを購入すると述べると、それは愛媛産の貴重なオレンジを使った1杯1000円ほどするジュースとのことだった。私はそんなにするのかと思って驚いたが、こぼしてしまったものは仕方ないので、彼のために後から購入しようと思った。


私の脳裏の中では、自分も1杯買って飲んでみようかという気持ちや、一口彼からもらおうかという気持ち、そしてそもそもそんな高価なジュースを購入するのではなく、愛媛産のオレンジを購入し、それでジュースを作れと彼に言いたい気持ちがあった。フローニンゲン2020/12/10(木)07:07


6468. キム·ギドク監督の『絶対の愛(2006)』を見て


時刻は午前7時を迎えた。今日もまた旺盛に映画鑑賞と作曲実践を進めていこうと思う。今はとにかく様々なテーマやトピックに関して、映画を通じて理解を深めていくことを心掛けている。


昨日見た作品の中で、韓国の鬼才キム·ギドク監督の『絶対の愛(2006)』が印象に残っている。ギドク監督の作品はこれまで何作も見ていて、一昨日には『弓(2005)』という作品を見ていた。


昨日見た『絶対の愛(2006)』という作品は、整形大国韓国の社会状況を背景に描いた愛の物語である。この作品を見ている最中に、日本同様に、アメリカに範を求めてしまった韓国には根底的に種々の歪んだ社会問題が山積みであることを見た。


それは日本が患っている「アメリカ病」とでも形容できるような社会問題であり、そうした問題が不安定な社会情勢を生み出し、人々のアイデンティティにも揺らぎを生じさせているのではないかと思った。こうしたアイデンティティの揺らぎは、今の自分のアイデンティティに対しての不安や不満を生み出し、それが人々を整形に駆り立てているという側面があるのではないかと思ったのである。


また作品を見ていて興味深かったのが、インテグラル理論で言えば、私たちが右上象限に該当する服装や身振り手振りを含めたポーズを変えることによって、左上象限に該当する気持ちが変わるのと同じく、右上象限に該当する整形を施すことによって、自分の内面が大きく変わるということである。


ただしそれは服装を変えることやポーズを変えることよりも遥かに大きい影響を内面に及ぼす。時にはまるで自分が別人になったかのように思えてしまうのではないだろうか。端的には、整形はアイデンティティを変えてしまうぐらいの力があるようなのだ。


また、整形によって、その個人に刻まれた歴史は表面的にはそのまま残っていたとしても、個人の歴史というのは関係性の産物であるから、整形によって他者との関係性が変われば、とりわけ歴史を一緒に作ってきた友人や家族たちとの関係性が変われば、歴史そのものが変わってしまいかねない。


アイデンティティをテーマにした映画、あるいはトピックとして出てくる映画をここ最近いくつか見ていたので、アイデンティティが過度に変わってしまいかねない整形の危険性を思う。フローニンゲン2020/12/10(木)07:28


6469.本日の映画鑑賞より


時刻は午後8時半を迎えた。外の世界はゆっくりと気温が下がっている。


夕方に買い物に出かけた時、外はもう随分と気温が低く、買い物がてらスーパーまで走っていく際にもそろそろ手袋が必要かと思う。近所のスーパーであればなんとか耐えられるが、街の中心部の市場やオーガニックスーパーに行く際には手袋はもう必須であろう。


さて、今日は一体どれくらい映画を見たのだろうか。今日は起床が比較的ゆったりとしたものだったが、朝から先ほどまで作曲実践と行ったり来たりする形で集中して映画を見ていた。結局合計で、10本ほど映画を見ていたようだ。


本日見た映画で印象に残っているのは、『チャイナ·シンドローム(1979)』という作品であり、原発の内部告発をテーマにしたサスペンス映画である。この映画は、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故の7年前に作られ、2011年の3/11の事故の30年前に作られている。


そうしたことを考えると、この作品が訴えかけるような原発の危険性については、関係国と関係者にはほとんど伝わらなかったのだろうか。仮に彼らがこの映画を見ていたとしても、原発安全神話によって、この映画のメッセージが曇らされてしまっていたのだろう。


この映画を見ながら、人が不正を働く心理メカニズムについて考えていた。その解明が進めば、不正の防止につながるのではないかと思うが、このあたりの研究はどれほど進んでいるのだろうか。


この作品の中でも、やはり権力とカネに屈してしまう人間心理の脆弱性が描かれていた。それではなぜ人は権力やカネに屈してしまうのかを解明していく必要があり、それはエゴ、トラウマ、シャドーなどと密接に繋がる話かと思う。


その他に見た『ブレードランナー 2049(2017)』と『劇場版YAWARA! それゆけ腰抜けキッズ!!(1992)』には、思わぬ形で共通のテーマがあるように思えた。端的には、同志を愛して行為を為す精神である。


前者の作品において、ブレードランナーという人造人間の主人公は最後、仲間の自由と解放のために命を賭ける決意をする。主人公を動かしたのは、「大義のために死ぬのは何よりも人間らしい」という言葉だった。


彼はそもそも、遺伝子工学技術の進歩によって誕生した半分が機械、半分が有機体の人造人間であり、彼が「自分は何者か」という人間が直面するアイデンティティの問題に苦しんでいた姿も印象に残っている。


ラストシーンを見ながら、果たして私たち現代人の中に、愛する人の自由と解放に向けて命を賭けるような人間らしい人間がどれくらいいるのかと問いかけたくなった。人間とAI、人間と人造人間、その境界線は今後ますます希薄なものになっていき、最終的には溶解してしまうのではないかと思われる。


また今日は、アニメ『鬼滅の刃』の第6話から第8話までを見ていた。最近私の周りの大人の知り合いたちもこのアニメを見ている人が多い。


第7話において、主人公の炭治郎は、「失っても失っても、生きていくしかないんです」という言葉を、恋人を食われた和巳(かずみ)という男性に優しく投げかける。


この言葉の真意は、過去を引き受けよという意味と共に、未来を引き受けよという意味にも受け取れ、それが意味することは、昨日見た映画で言えば、『ザ·ドア ‐交差する世界‐(2009)』と『メッセージ(2016)』の核になるメッセージかと思う。


映画を日々数多く見ていると、思わぬところで共通項が見えてきて、複数の作品がシンクロすることが面白い。明日もまた旺盛に映画鑑賞をしようと思う。フローニンゲン2020/12/10(木)20:47

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