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6419-6421: アートの国オランダからの便り 2020年11月21日(土)


No.1571 朝の訪問者_A Morning Visitor

本日の言葉

Enlightenment is the ego's ultimate disappointment. Chögyam Trungpa


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本日生まれた8曲

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タイトル一覧

6419. 情報過剰な日本の街

6420. 日本の閉塞感/今朝方の夢

6421. 本日の映画鑑賞より


6419. 情報過剰な日本の街


時刻は午前6時半にゆっくりと近づいて来ている。辺りが静かなせいか、今、遠くの方から列車が走る音が聞こえた。厳密には、列車が走り抜けていく音ではなく、列車が通ることを知らせる警報音が鳴った。


言葉の過剰さ。情報の過剰さ。昨晩はそれについて考えていた。


この間日本に一時帰国した際に、様々な場所に足を運び、もちろん日本にも街並みが美しい場所もあることは確かだが、総じて街の景観があまり美しくないと感じられた。


これはよく言われることだが、日本においては街並みを美しくするような街づくりの発想が欠落している。「欠落」という言葉が言い過ぎであれば、「希薄」であり、「未熟」であると述べた方がいいだろうか。


おそらく建築的な意味での街づくりに失敗しているだけではなく——建物のデザイン、景観を害する無数に張り巡らされた電線など——、端的に情報が過剰な街づくりになってしまっているという今回改めて気づかされた。看板や標識などの言語的情報があまりにも過剰なことに気づき、大都市においては、音声による丁寧すぎるほどのアナウンスなどがあり、それもまた情報過剰だと思った。


エスカレーターに乗れば、「手すりにつかまってください」「足元に注意してください」などの情報が流され、新幹線乗り場のトイレに入った時には、「多目的トイレは···」というような音声アナウンスが流れていた。多目的トイレのアナウンスが流れていることに気づいた時、大いに笑った。


もちろんそれはある種の苦笑いだが、そこまで情報過剰な社会になってしまっているのかと少々呆れてしまった。同時に、こうした情報過剰な中で日々生きていると、情報による疲弊からの情報による窒息が起きてしまうのではないかと思った。


人々を観察していると、こうした過剰な情報に飼い慣らされ、感覚が随分と麻痺し、鈍麻している姿が見受けられた。情報過剰な環境にさらされることによって、種々の感覚が麻痺し、大切なものに感覚を向けていくことからどんとんど離れ、自分を見失っている姿が観察されたのである。


日本からオランダに戻って来た時の安心感がどこからもたらされるのか。その理由の1つが新たに分かった気がする。端的には情報過剰な環境からの解放である。


オランダの街、いやヨーロッパの街の多くは、総じて情報過剰になることを良しとしない、あるいは美しいとしない発想に根差して設計がなされているように思う。当然ながら、商業地域における景観は日本のそれとさほど変わりなく、派手な広告看板などが掲げられているが、そうした場所から離れた時の街の景観に美しさや安堵感を感じさせてくれるのはヨーロッパの街の特徴かと思う。今住んでいるフローニンゲンにおいてもまさにそうした特徴があり、とりわけ自宅の周辺においては情報過剰とは全く逆の環境が広がっている。


環境が私たちの心にどれだけ影響を与えるのかという環境心理学の観点からしてみると、日本の閉塞感の理由は、実は街の景観ともつながっているように思える。そしてその背後には、むやみやたらに情報や物質(電線など)を飾り立てていくような街づくりの発想があるのではないかと思えて来る。昨晩はそのようなことを考えながら就寝に向かっていた。フローニンゲン2020/11/21(土)06:41


6420. 日本の閉塞感/今朝方の夢


日本の大都市や地方都市を訪れたときに感じたなんとも言えない哀しみの感覚の理由の1つが、過剰な情報によって飾り立てられた街の景観であることに気づいたことは自分にとって新しい発見だった。なるほど、街が呼吸を苦しそうにしていて、そこで暮らす人々もまた苦しそうに呼吸をしていたのは、そうした情報過剰な街づくりによるものだったのだと納得する。


街に関しては、物質的にも精神的にも呼吸が苦しそうであった。人々に関しては精神的な呼吸の苦しさを強く感じた。


街づくりという観点から見ると、日本があれほどまでに景観を害するような街づくりをし始めたのは歴史上いつであり、またなぜそのような方向に街づくりをし始めてしまったのだろうかと考える。直感的には欧米化を押し進めようとした明治時代あたりなのだろうか。


欧州と米国の双方で暮らして来た経験からすると、欧州の方が米国よりも街並みはやはり美しく、日本は果たしてどの国に範を求めて街づくりをしようとして来たのだろうか。端的に言えば、どこの国を真似たとしても、明らかに模倣の失敗である。


秩序をもたらす混沌ではなく、混沌しか生み出さないような混沌とした街並みを見るたびに、とても心が痛む。そうした体験を先日の日本の滞在中何度もしていた。


人々の心は感動の涙が出にくくなっているほどに乾き切っているのに、街を泣かせるというのはどういうことだろう。政治経済的な混迷のみならず、生活空間における混迷の中に入ってしまっているのが我が国の現状だろうか。


昨日に引き続き、今朝方もまた夢を見ていた。感覚として、少しばかり否定的な感じをもたらす夢だった。


何か不安や焦りのような感覚があったのを覚えている。また、夢の中の自分は日本語だけを話していたことも覚えている。いや、一箇所だけ、オランダ人の友人か誰かと英語で会話をしている場面もあった気がする。


いずれにせよ、今朝方の夢の中では、日本語優位な状態であった。夢の具体的な場面については、もう随分と忘れてしまっている。不安や焦りを生んでいたものは一体なんだったのだろうか。


どこか目的地に向かう際に時間がなくなって来ていることに対してであったか、それとも何か取り組まないといけないことが差し迫っていることだったか。そのあたりの記憶はもう曖昧になっている。


夢の中の舞台は、日本の街と欧州の街を混ぜたような感じであった。明確に日本だとは言えず、明確に欧州だとも言えないような街並みが広がっていた。


そうした夢を見る前、昨夜にふと、バタフライ効果やカルマ、そして生まれ変わりをテーマにした映画を探してみようと思い、枕元の裏紙にメモをしておいた。今日はまずそうしたテーマの映画がないかを調査し、該当する映画を見つけた都度映画リストに加えていく。


可能であれば、今日いずれかの映画を見たいと思う。ここ2日間は仕事をしながらも毎日6本ほど映画を見ていた。今日と明日は協働プロジェクト関係の仕事がないので、もう少し映画を見ることができるかもしれない。それがとても楽しみだ。フローニンゲン2020/11/21(土)06:57


6421. 本日の映画鑑賞より


時刻は午後7時半を迎えた。つい先ほど夕食を摂り終えた。


静かな世界。暗闇に包まれた静かな世界がただありのままに佇んでいる。


自己はそうした世界を見つめていて、世界と一体化している。また逆に、世界が自分と一体化しようとこちらに歩み寄っている。そして実際に合一を果たした。そのような感覚が今この瞬間にある。


今日は結局、合計で7本ほどの映画を見ていた。今日のテーマとしては、時空間のループとパラレルワールド、さらには二重スパイの映画をいくつか見て、その他には性愛関係の映画も見た。


今日は映画だけを見ていたわけではもちろんなく、作曲実践もいつものように並行して行なっていて、創作と映画の鑑賞を交互に行き来する場合、無理のない範囲で1日に見れる映画の数は7本ぐらいだということがなんとなくわかった。おそらくあと1本見ても無理はないと思うが、今のところ毎日5-6本がちょうどよく、休日には7本見ることができれば上出来かと思う。その程度あれば全く無理なく映画を見ていくことができる。


今日の映画鑑賞において考えさせられたこと、感じたことは数限りない。やはり映画を見ながらメモを取っていくと、そこから汲み取れることが多くなり、映画が自己認識と世界認識を拡張してくれることにつながる。


今の自分が再度自己認識と世界認識を拡張させる方向に向かって突き進んでいる様は不思議に思えるが、そうした隠れた衝動があるらしく、それに純粋に従うのも悪くないだろう。きっとそれが自然なプロセスなのだ。


ここ最近見る映画の中で、やたらと「クモ」が登場しており、少し前の夢の中で蜘蛛の糸が登場していた。本日見た『プリデスティネーション(2014)』の中でもクモが出ていた。


当然ながらどのようなクモが現れ、そのクモが何をするのかによって、それが象徴する意味は異なるのだと思われるが、この作品を見ながら、クモは糸を通じて何かに導いてくれる存在なのかもしれないと思った。


本作のタイトルは、「運命」ないしは「宿命」とでも翻訳できるだろう。クモが象徴していたのは、運命への導き、あるいは宿命によって導かれる人生を暗示していたのではないかと思われる。


また、クモは糸を無数に張るという性質があり、それは何か決定論的な運命論とは全く逆に、無数の選択肢が私たちの人生に存在するという可能世界の示唆でもあるように思えたのである。そのように考えてみると、クモというシンボルは本当に示唆に富む。


その他の作品においては、『月に囚われた男(2009)』を見ながら、クローンとオリジナルの区別の難しさと、両者が出会った時の存在の混乱について考えさせられた。それは今日15年ぶりに見た『オーロラの彼方へ(2000)』という作品のテーマである2つの異なる宇宙が出会う際の混乱と似た問題である。


さらには、本日見た香港ノワールの最高峰と言われる『インファナル·アフェア 無間道(2002)』における二重スパイのアイデンティティの維持の問題とも関係しているように思える。本来出会ってはならない2つの存在が出会うこと、あるいはそれを内側に抱えることの困難さについて考えさせられる。


異質性と同質性について考えさせることを促す闇の世界が外に広がっている。フローニンゲン2020/11/21(土)20:03

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