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6414-6416: アートの国オランダからの便り 2020年11月19日(木)


No.1564 秋朝の恵み_Grace of the Autumn Morning

本日の言葉

A saint is different from an ordinary person in managing space and time with perseverance and controlling his/her own conduct with persistence. Cheng-Yen


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本日生まれた6曲

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タイトル一覧

6414. 今朝方の夢

6415. 今朝方の夢の示唆とその他の夢

6416. 澄明な夜の世界の中で


6414. 今朝方の夢


時刻は午前8時を迎えた。先ほどまで小雨が降っていたが、今は小雨が止んでいる。先ほどまで降っていた雨の雨滴が窓ガラスに付着していて、窓から外を眺めると、少しばかり強い風が吹いている。


街路樹はもう立派に紅葉していて、紅葉した葉が風に揺れている。天気予報を確認すると、今夜は4度まで気温が下がり、明日の最高気温は8度とのことである。明日はかなり冷えそうだが、晴れ間が見えるとのことなのでそれは嬉しい。


秋が深まった朝空を眺めながら、今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、ゴールデンゲートブリッジの橋の下にいた。そこには小中学校時代の友人(KF)がいて、彼と話をしていた。


彼としばらく話をしていると、突然携帯電話が鳴った。電話を取ると、コーチングクライアントからの電話であり、今から電話を通じてコーチングセッションをして欲しいと言う。ちょうどそのクライアントとは後ほどセッションがあり、結局前倒してセッションをスタートさせることにした。


私は風の音が電話に入らないように、ゴールデンゲートブリッジの橋の下で風よけになりそうな場所を見つけて、そこで電話を続けた。そのクライアントは、ある製造会社に務めていて、生産工場の重要なポジションに就いている定年間近の男性である。


どういうわけか、セッションにはその方の息子さんも参加していて、最初3人で話をすることになった。息子さんもどうやら同じ工場で働いているらしく、年は私よりも少し若いぐらいだった。


しばらく3人で話を進めていると、気がつけば私はゴールデンゲートブリッジの橋の下ではなく、橋の上にいた。それは橋の上の道路という意味ではなく、文字通り、橋をかけるアーチの上にいたのである。


私は恐る恐るハイハイをするようにそのアーチの部分を進んでいき、友人も一緒に動くとアーチから落ちてしまうように思えたので、友人にはその場にとどまってもらうようにお願いをした。私は一度、アーチの向こう側の近くまでハイハイで移動し、しかしながら最後の最後で向こう側に行くことが怖くなったので引き返し、結局気づくとまた橋の下にいた。


すると、私の体は瞬間移動し、クライアントが務める生産工場の中にいた。クライアントの工場長が、工場内を歩きながらセッションがしたいとのことであり、色々と歩き回りながら話を聞いた。


その途中に、工場で働いている人たちと会うたびごとに彼らを交えた雑談がそこで展開された。工場長曰く、会社の上層部から、サンフランシスコ工場の生産量を増やすように指令が来ているらしく、それは工場の生産能力を考えると、到底不可能とのことだった。


上からの生産命令がどれだけ現実的ではないかを工場長は他のメンバーと議論したいようだった。他のメンバーも軒並みその生産計画は不可能だと述べていた。


私はそこで、その生産計画を立案した上層部の人間の前提や考えを一度確かめてみるのはどうかと提案した。ひょっとすると、工場の生産能力を高めるような施策が背後で進められている可能性があり、その他にも諸々の可能性があると思ったのである。


工場のある会議室の壁に取り付けられた時計をふと見ると、1時間のセッションが2時間40分ほどになっていた。午後1時から始まったセッションが、もう午後3:40だったのである。


私は午後2時からある講義に参加することになっていて、初回のクラスを逃してしまったようだった。いつの間にかクライアントの男性はどこかに行ってしまい、もうそこで今日のセッションはやめにしようと思った。


会議室を出ると、私が参加する予定だった講義に参加している1人の女性と偶然出会った。彼女がそこにいるということはもう講義は終わったのだと思い、講義の様子を尋ねた。次回はなんとか講義に出ようと思ったところで夢から覚めた。フローニンゲン2020/11/19(木)08:40


6415. 今朝方の夢の示唆とその他の夢


時刻は午前8時半を迎えた。空には先ほどまで雨を降らせていた雨雲がまだ残っているが、先ほど朝日が地上に降り注いだ。その時に、朝日によって紅葉の葉が照らされる光景に遭遇し、その美しさにしばし見入っていた。秋の輝きはこうしたところにあり、その他にもたくさん輝きがあることを再度思い出そう。


つい先ほどまで今朝方の夢について振り返っていた。先ほど振り返った夢の中で、ゴールデンゲートブリッジの橋の下にいたこと、そして橋の上のアーチ部分にいたことの意味について考えていた。とりわけ橋の上のアーチをハイハイをしながらゆっくり進むという行為と、それを行っている時の高揚感と恐怖心について考えていた。


橋の上のアーチからの眺めは素晴らしかったが、ちょっとでも誤ると、橋から落ちてしまうという恐怖があった。またそもそも誰もそのようなことをしておらず、前例のないことを自分が行っているという自覚もあった。このあたりは何か現在の生活を映し出している部分があるように思える。


橋の上のアーチを進みながら、結局最後の最後で反対側の部分に行かずに、アーチを引き返したこともまた興味深い。正直なところ、向こう側に渡り切ってしまう方がよほど安全だったはずなのだ。


なぜ私はわざわざアーチの最も高い部分を再度ハイハイで逆戻りするようなことをしようと思ったのだろうか。そちらの方がよほど危険である。そうした危険すらも楽しむような自分がいるということだろうか。


少なくとも、夢の中の自分は、そうした危険を楽しむという心の余裕はなく、恐怖心の方が強かったように思う。早く橋の下に戻りたいと思っている自分がいたのである。


ケン·ウィルバーの過去の仕事を眺めてみた時に、アーチをモチーフにした発達モデルを提唱していた時期がある。特に『アートマン·プロジェクト』の中でアーチを使ったモデル図が示されている。


一度アーチの最後の箇所まで進んでいき、そこからアーチの最初に戻る。仮にそれが円環的な形で行われているのであれば、健全な発達かもしれないが、夢の中の私が行っていたのは、単にアーチを逆に進むというある種の退行運動のようであった。


それが果たして退行なのか。それも今少しばかり考えを巡らせている。


一度アーチの反対側をこの目で見たということ、そしてそこまで自分が自らの手と足で進んだということ。そうした直接体験が橋の下に戻った自分の中にありありと残っており、その直接体験はすでに自分の中に何かしらの影響を与えていたことは確かである。


今、また小雨が突然降ってきた。空は明るいのだが、風で雨が運ばれてきたのかもしれない。


雨雲が濃くないのに雨が降ることはオランダではよくあることである。小雨の輝きを眺めながら、そういえば、今朝方はもう少し別の夢を見ていたことを思い出す。


私はオランダのライデンかどこかの街の駅にいた。その街で何か用事を済ませ、今からフローニンゲンに戻ろうとしていた。


乗りたい列車の時刻が迫っていたのだが、列車が到着するプラットホームがどこかわからず少し焦っていた。いつもは5番プラットホームにその列車が来るはずだと思い、そこに向かったが、電光掲示板には何も表示がなされておらず、どこに行けばいいのか迷っていた。


するとアナウンスがあり、9番プラットホームに列車が到着するとのことだった。私は急いでそちらに向かった。だが、もう列車の出発まであと1分しかなかったので、もう無理かと思い、同じように走ってプラットホームに向かっている男性に声をかけた。


その男性は韓国人であり、年齢は私よりも少し若いぐらいだった。「もう間に合いそうにないですね」というようなことを私が述べると、彼は笑顔でうなづいた。


そこからは走ることをやめ、ゆっくりとプラットホームに向かって行き、次の列車に乗ることにした。プラットホーム向かっている最中に、彼とサッカーの話になった。


実はちょうど私は先日までイギリスにいて、プレミアリーグの試合を見ていたのである。韓国の英雄ソン·フンミンが所属するトットナムと、同じくロンドンに拠点を置くライバルチームのチェルシーとの試合を見てきたところだった。また、チャンピオンズリーグの試合も1試合ほど現地で見ていて、彼とはその2試合の話で盛り上がった。フローニンゲン2020/11/19(木)09:03


6416. 澄明な夜の世界の中で


時刻は午後8時を迎えた。静かな夜の世界が辺りに広がっている。


今日はいつもより遅く起床し、そして午前中に1件ほどオンラインミーティングがあったのだが、それでも映画を6本ほど見た。今日見た映画からも多くのことを考えさせられ、良い作品がもたらしてくれる自己の世界の揺れを体験していた。


映画に関する知識と理解を深めたいという思いから、映画関係の書籍を読むだけではなく。Spotify経由で映画批評のポッドキャストを聴き始めている。英語空間にはいくつか興味深い映画批評のポッドキャストがあり、今後は少しずつそれらを聴いていこうと思う。


私たちはいつも今日に生きていて、今に生きているということ。そう、いつも今日だというのは本当に不思議だ。そして、絶えず今だということもまた不思議である。


過去や未来に思いを巡らせることはあっても、一度たりとも過去や未来に生きたことがないということ。これはよくよく考えると本当に不思議なことである。


その点について考えてみると、自己即今日、自己即今ということが言えるのではないかと思ってしまう。自己は今日であり、自己は今なのだ。


ふと書斎の窓の外を眺めると、澄明な闇の世界が広がっている。それは澄明な心の世界と対応している。


明日は今日よりも早く起床し、映画の鑑賞と作曲実践を交互に行っていく時間をより多く過ごしたい。こうした生活を何かが突き破られるまで続けていく。いつかきっと何かが突き破れ、その時になって初めて実践と生活のあり方を変えていく。


今はとにかく1日の時間のほぼ全てを映画鑑賞と作曲実践に充てていけばいい。没頭没入によってしか到達できない世界があり、何かを突き破ってしか辿り着けない境地があるのだ。


「地上で楽園を生み出そうとすることは、不可避的に地獄を生み出す」というカール·ポパーの言葉を思い出す。この言葉は本当なのだろうか。今の現代社会を見ているとそうかも知れない。だが、果たしてこうした状態は今に始まったことなのだろうか。


この世界が最初から地獄であったと考えるとどうだろう?あるいは、そもそもこの世界は楽園や地獄を超えたものなのではないかという気もしてくる。


楽園でも地獄でもないこの世界をより多面的に深く理解したいという思い。そうした思いが映画鑑賞に駆り立てているのかも知れない。フローニンゲン2020/11/19(木)20:09

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