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6227-6229: アートの国オランダからの便り 2020年9月16日(水)


No.1390 朝の小波_A Morning Ripple

本日の言葉

If you walk, just walk. If you sit, just sit; but whatever you do, don’t wobble. Yunmen Wenyan

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6227. 今日の予定/今朝方の夢

6228. この4年間の日記の分量と美への飢え/DeFiの利便性と危険性

6229. ハーグの友人はどこに行ったのか?/アーネスト・ベッカーの書籍を再読して


6227. 今日の予定/今朝方の夢

時刻は午前5時半を迎えようとしている。この時間帯はまだ真っ暗だ。


昨日は随分と気温が上がり、予報の最高気温を超えて、30度に達したようだった。そこから一夜明けた本日は、再び涼しい1日となる。


今日の最高気温は21度、最低気温は10度である。ここからはしばらく今日と同じような気温になる。


昨日は結局買い物に行けなかったので、今日の夕方に街の中心部のオーガニックスーパーに足を運ぼうと思う。これから1週間は天気が良く、それでいて涼しいので外出日和だ。


昨日のオンラインミーティングは、予定していた1時間半を超えて、4時間ほど話に盛り上がった。昨日のミーティングを受けて、仕事の面、私生活の面において、ここからまた新たな動きがありそうな予感がする。


今日もまた、自分のペースで創作活動に励み、読書を進めていこう。昨日からの読みかけとして、エーリヒ·フロムの“Escape from Freedom”を読み進め、本書の再読が終われば、同じくフロムの“The Anatomy of Human Destructiveness”を読み始める。こちらの書籍は、今から数年前に購入したものなのだが、まだ一度も最初から最後まで読んでいないことに改めて気づいた。


下線もなく、書き込みも全くないので、本当に今回が初読であり、これまで本書が何年も本棚に眠っていたことに驚く。今回本書を読むことになったのもまた何かの導きだろう。本書は全体で550ページほどある大著なので、初読が終わるのは明日になるかもしれない。


今朝方は少しばかり印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、日本の東京ではないどこかの街にいた。


その街の複合施設のビルの中にいた。そこはビジネスオフィスがあり、レストランがあり、書店がありと、いろいろな施設が入っていた。


私は比較的高層階にいて、どうやらそこはビジネスオフィスが入っているフロアのようだった。フロアの雰囲気はとても開放的であり、お洒落でもあった。


私は窓からぼんやりと外を眺めていた。しばらく窓の外を眺めていると、フロアの共有スペースから自分を呼ぶ声が聞こえた。どうやら私は、今からそこでゲストと対談をすることになっているらしかった。


共有スペースのホワイトボードに英語で私の今後数日間のスケジュールが書かれていた。見ると、対談や講演会などのイベントが結構入っていた。


その日の対談相手は、ストックホルムにいるスウェーデン人の学者のようだった。その学者は60歳ぐらいの教授であり、テーマはよくわからなかったが、これから対談をすることが楽しみであった。特に肩肘貼らずに気楽に話そうと思ったところで夢の場面が変わった。


最後の夢の場面では、私は見慣れない野球グラウンドにいた。厳密には、バッターボックスの後ろから野球の試合を観戦していたのである。


目の前では、小中学校時代の友人たちが見知らぬ人たちと野球の試合をしていた。ちょうどバッターボックスに、学年でも指折りの運動神経の良かった友人(RS)が立っていて、バットにボールを当てる方法を私に見せてくれると彼は述べた。


ピッチャーの球はとても早く、自分であれば到底バットに当てることなどできないと思われたのだが、彼はそれをいとも簡単に成し遂げた。そして、ライト方向にヒットを放った。そのような夢を見ていた。


その他にも、小学校時代から付き合いのある2人の親友(HS & NK)が夢の中に現れ、彼らと何かについて話をしていたのを覚えている。フローニンゲン2020/9/16(水)05:48


6228. この4年間の日記の分量と美への飢え/DeFiの利便性と危険性


時刻は午前7時半を迎えた。先ほどまで深い霧が辺りに立ち込めていた。今はそれが晴れたが、空にはうっすらとした雲が覆っている。


今日はこれから快晴に向かっていくのだが、先ほどの霧は昨日の気温の高さの反動か何かなのだろうか。深い霧に覆われたフローニンゲンの朝の景色もまた風情があった。


このようにして毎日執筆している日記は、まだ継続して毎日書き始めて4年しか経っていない。しかし、丸4年毎日日記を書き続けることによって、随分と自己に変化がもたらされたと思う。それは治癒的かつ変容的な変化である。


この4年間に執筆して来た分量をざっと計算してみたところ、自著『能力の成長』という書籍の60冊分を超える分量に該当することがわかった。正直なところ、まだあの書籍の60冊分ほどしか書いていないのかという気持ちだが、日記の執筆を焦る必要など全くなく、これからも一生涯にわたって水の如く淡々と日記を書いていくだけである。


それは毎日の絵画の創作と曲の創作においても同じである。毎日水の如く絵を描き、曲を作っていくだけなのだ。


水の流れの如く継続するその実践が、いつか宇宙的大河になる。そしてそれは今もすでにそれとしてここにある。


自分の内側に、美に対する飢えのようなものが最近強くあることに気づく。美への飢えが、美を求める心を育んでいる。そしてそれが美への探求に向かわせている。


こうした飢餓感を大切にしよう。そうした飢えは空虚さとは異なっていて、上昇する愛(エロス)と下降する愛(アガペー)の双方に立脚したものであるように思える。


現在、同時並行的に5つぐらいの修士課程に在籍しているような形で多様な領域の探究を進めている。その中の1つとして金融や経済について学習を進めている中で、DeFi(Decentralized Finance:分散型金融)というものを最近よく目にする。


分散型金融で注目されているものの1つとして、スマートコントラクトの技術を活用してトラストレスな取引システムが構築されるというものがあり、取引相手の人や組織に対する信頼をいちいち確認·検証することなく取引が行えるというのは確かに便利だ。


だが、信頼を確認することや検証することをブロックチェーン技術に全て委ねてしまうことの危険性も見えてくる。端的には、それに過度に依存することによって、人間の中で信頼という概念が揺らいでしまうのではないかという危惧がある。


より具体的には、自分や他者を信頼するという人間として大切な感覚を失ってしまうリスクや、信頼に足るものと信頼できないものとを区別する感覚も失われてしまう可能性があるのではないかということである。信頼関係を構築していくというのは、社会的な生き物である人間にとってとても大切な資質のはずなのだが、それを技術に委ねてしてしまうことは、別種の「非人間化(dehumanization)」をもたらしてしまう可能性があるのではないかと危惧する。


昨今は、AI、5G(さらには6G)、ブロックチェーン技術など、非常に有力なテクノロジーの研究開発とその社会的実装が始まっているが、そこでの議論は往々にしてテクノロジーの利便性だけに焦点が当てられている傾向にあるため、そうしたテクノロジーが人間の本質に与える影響について考察する視点を絶えず持っておくことはとても重要なことのように思える。


こうした考察そのものをテクノロジーに委ねてしまったとき、人類は極限まで堕落し、そして間違いなく滅びるだろう。フローニンゲン2020/9/16(水)07:51


6229. ハーグの友人はどこに行ったのか?/アーネスト・ベッカーの書籍を再読して


時刻は午後7時半を迎えようとしている。今、小鳥たちが夕方のそよ風を浴びながら、楽しそうに鳴き声を上げている。


昨日は気温がかなり上がったが、今日は再び秋らしい気温になった。夕方は買い物に適した気候だったので、ジョギングがてら街の中心部のオーガニックスーパーに立ち寄った。


午前中、ハーグに住む友人の日記を読むと、先日フローニンゲンを訪れたときのことが書かれていた。友人はフローニンゲンに滞在した後、ハーグに帰る前にフローニンゲンの隣町のルーワーデンに立ち寄った。


日記を読みながら、「一体友人はどこに行ったのだろうか?」と思わず笑ってしまった。というのも、彼女がフローニンゲンからルーワーデンにバスと電車を乗り継いで2時間ほどかかったと書いていてからである。


この間のアテネ旅行の際に、ルーワーデンからフローニンゲンに戻って来たときに、そんなに時間がかかった記憶がなく、ほんの数十分ほどだったと思ったので再度調べてみたところ、やはりそうだった。フローニンゲン中央駅からルーワーデン中央駅までは電車で35分、わずか2駅ほどしかない(Sneltrainに乗ればそれくらいの時間であり、鈍行のStoptreinでも8駅で49分ほどだ)。


友人は例の架空の「アリゾナ美術館」にでも行ったのだろうか?と思わず笑みを浮かべながら彼女の日記を読んでいた。


今日は、アーネスト·ベッカーの書籍を2冊ほど再読した。その中で、人間の悪の根源に、生の有限性を否定する衝動があり、英雄的な自己イメージを実現する衝動があるという指摘がなされていた。また、現代人は、死の恐怖を文化的に標準化された英雄的システムや英雄的シンボルを構築することを通じて乗り越えようとするという指摘も印象に残っている。


現代人は生の有限性から目を背け、一方で無限のシンボルを絶えず拝んでいる。その最たるものはカネである。


現代社会においては、カネが不死のシンボルとして強く機能しており、人々はそのシンボル性をさらに増強しようと、カネをより一層求めようとする。それをすればするだけ、生の有限性から目が離れていってしまう。


カネの周りに権力を持った英雄的シンボルとしての人間が配置され、彼らが歯車のように回っていくシステムが構築されている。そのような姿が見えてくる。


今、フローニンゲン上空の空が少しばかり曇り始めた。雨が降る予定はないが、今は夕日が雲で覆われてしまうほどだ。


ギリシア語において、「individual」という言葉は、「indivisible」に起源があるということを本日知った。分割不可能な固有の存在。そうした固有の存在が持つ内に秘めた巨大な力に思いを馳せる。


私たち1人1人には、無尽蔵の力、無尽蔵の生命力が含まれている。そうした力を破壊的に活用するのではなく、自他の治癒と変容の方向に活用する流れがより一層生まれてくることを望む。今は残念ながら、そうした力が破壊の方向に使われてしまっているのだから。


力の悪用と乱用。それを善い方向に、そして調和をもたらす方向に活用する運動の目覚めを祈りながら、明日に向けて今から少し準備をしよう。フローニンゲン2020/9/16(水)19:35

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