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6148-6151: アートの国オランダからの便り 2020年8月24日(月)


No.1270 奥深き緑の魅力_Attractiveness of Deep Green

本日の言葉

From possessiveness, lack is born; from non-attachment, satisfaction. Jack Kornfield

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6148. 自己統合と遊びと余暇

6149. 音楽理論・作曲理論の探究/インド音楽のリズムの適用に向けて

6150. フィンランド湖畔での生活を夢想して:今朝方の夢

6151. 3つの価値/固有で多様な時間感覚/TINA

6148. 自己統合と遊びと余暇

時刻は午前6時を迎えた。今、ようやく空が明るくなってきた。

秋を迎えたフローニンゲンは、日が昇り始めるのが随分と遅くなった印象だ。日没に関しても、最近は午後9時頃には随分と暗くなっている。

今、少し小雨が降っていて、午前中にいったん止むらしいが、午後から夜にかけて再度小雨が降るようだ。今日の最高気温は18度、最低気温は10度とめっきり秋らしい気温だ。今週は全て20度を下回る日になるようだ。

昨日調べたところ、今のこのくらいの気温が日本の11月初旬の気温である。この体感を忘れないようにして、秋の日本の一時帰国の際の衣服を選ぼうと思う。

昨日もまた雑多なことを考えていた。教育哲学者のマキシン·グリーンの「社会的想像力」について色々と思うことがあった。

想像力を働かせてより良き社会について考えることは、その実現の打ち手を見つける道を開いていく。そして、課題解決の打ち手もまた社会的想像力から生み出される。

この社会的想像力の喚起と涵養に貢献を果たすのが芸術作品であり、芸術活動であるとグリーンは述べている。もちろん、この点についてもどのような種類と質の芸術作品なのかという問題があるだろうが、芸術全般に不在の不在化をもたらす力があることは確かであり、不在の不在化の中に社会的想像力が含まれていることを考えると、グリーンの指摘にはうなづけることがある。

昨日注文した50冊の書籍の中には、社会変革に資する芸術とはいかなるものなのかについて考えるヒントになるような書籍が何冊かある。それらの書籍の到着が今から楽しみだ。

詩人のフリードリヒ·シラーはかつて、「自己統合は、仕事を離れた遊びや余暇の中で実現される」ということを述べていた。その言葉の意味について昨日は少し考えていた。

おそらく、自己統合に資する要素は仕事を通じても獲得されるのだろうが、それらを統合するためには一度仕事から離れ、遊びや余暇に没頭する必要があるのかもしれない。

一度対象から離れ、再び対象に戻ってきた時に、対象の本質に至るという考え方がある。それは対象から離れている熟成の期間の大切さを示唆してもいる。

遊びや余暇が統合の力を後押しするというのも興味深い。これはひょっとしたら、遊びや余暇の持つ純粋性によるものだろうか。

作為や意図を離れて、小さな自我から私たちを解放させてくれる力を持つ遊びや余暇。最近では残念ながら、遊びや余暇さえもが物質消費対象になってしまい、さらには小さな自我の囚われを強化させる形で営まれているように思える。本来遊びや余暇は私たちを解放し、さらなる変容に向けての後押しをしてくれるものなのではないかと思う。

ここ最近は、日々の読書のおかげか、色々と考える観点やテーマが増え、ゆっくりとだが着実に自分の思想が育まれつつあるのを感じる。今日もまた、朝日がゆっくりと昇るかのように、ゆっくりと歩みを進めていこう。フローニンゲン:2020/8/24(月)06:24

6149. 音楽理論・作曲理論の探究/インド音楽のリズムの適用に向けて

時刻は午前6時半を迎えようとしている。今、空がだいぶ明るくなってきた。引き続き小雨が降っており、雨滴が書斎の窓に付着している。

昨日、書籍を一括注文した後に、書斎の机に置いている本を少しばかり取り替えた。これまでは机の右側の2箇所に書物を積読しており、そこから日々読む本を選び、読み終えたら本棚やソファの上に置くようにしていた。

また、これまでは机の左側に楽譜を積み上げていたのだが、それを音楽理論や作曲理論の書籍に取り替えるということをした。今後参考にする予定の楽譜とすでに参考済みの楽譜は、テレビ台に大量に積み上げられており、直近で参考にしている楽譜に関しては、机の横の椅子の上に積み重ねるようにした。

ここからは作曲をするという実践を大切にしていきながらも、やはり理論も日々学んでいこうと思った次第である。そもそも、理論学習を通じて新しい観点や発想に出会えることが面白いのだ。そこにも喜びを見出しているがゆえに、理論学習は多くの実りをもたらしてくれるに違いない。

昨日もふと思ったが、今手元にある音楽理論書や作曲理論書を見ると、音楽学校の博士課程に在籍している人たちやひょっとすると教授陣並みの文献を保有しているように思えた。昨日もまた何冊か理論書を購入し、今後は音楽理論に関する特定のジャーナルの定期購読を考えている。

良さそうなジャーナルが見つかれば、過去のバックナンバーを全て購入してもいいかもしれないと考えている。そこまですれば、音楽理論に関しては本当に専門家の仲間入りを果たすように思える。

シラーの言葉で言えば、音楽理論の探究は趣味のようなものであり、1つの立派な遊びであると言えるかもしれない。音楽理論を学習することによって音楽関係の大学院で職を得るとか、そのようなことは一切考えていない。純粋に音楽理論の探究に楽しさと喜びがあるからそれを行なっているのであり、それは仕事とは言えないものである。

昨夜、ソファに積み重ねられた音楽関係の文献を眺めている時に、インド音楽のリズムに関する書籍を購入していたことを知り、今日からそれを活用して作曲する時間を設けたいと思う。その書籍は、“Applying Karnatic Rhythmical Techniques to Western Music”というタイトルであり、まさにインド音楽のリズムを西洋音楽に適応することを意図して書かれたものだ。

ここ最近は、ショーンバーグがハーモニーについて解説した分厚い“Theory of Harmony”という書籍をもとに、ハーモニーの学習を進めている。この書籍に掲載されている譜例をもとに作曲をする際にリズムを工夫することをここ数日間自然と行なっていたところ、偶然ながら昨夜上記のインド音楽のリズムに関する書籍をソファで見つけた。

今日からは、ションバーグの上記の書籍をもとに作曲をする際に、インド音楽のリズムを適用してみようと思う。インド音楽のリズムを具現化させてみることを通じて、東洋的な何かを感じられるかもしれない。

そのようなことを考えていると、今後は種々の哲学領域の哲学思想や哲学的概念を音に実装させ、概念の喚起力を音に体現させる形で、音の流れを通じてそれをリアリティに溶け込ませていくことを意識してみようと思う。フローニンゲン:2020/8/24(月)06:40

6150. フィンランド湖畔での生活を夢想して:今朝方の夢

新たな週を迎えたフローニンゲン。季節はめっきり秋であり、今週はとても涼しい日々が続く。

正直なところ、朝はかなり肌寒く、もう長ズボンを履いたほうがいいかもしれないと迷ってしまうほどだ。ほんの10日前までは猛暑日が続いていたのに、そこから一転して秋に入ったことに驚いてしまう。

フィンランドの移住を数年後に実現させようと考えていることが影響してか、フローニンゲンの天気について毎日確認することに合わせて、時折ヘルシンキの気温も確認している。どうやら今の時期はフローニンゲンとヘルシンキはそれほど気温が変わらないぐらいに両者涼しい。ヘルシンキの方がより寒くなり始めるのは9月の半ば頃からかと思う。

昨年日本に一時帰国する時にヘルシンキを経由したのだが、9月末にはもう気温がマイナスの世界になっていたことを思い出す。おそらくその日が特別寒いのかもしれないと思ったが、飛行場から空港に向かうシャトルバスの中で見た週間天気予報の感じからすると、9月末のヘルシンキはそれぐらいに寒いようだった。

白の美しさ。白銀世界の美しさについてぼんやりと思いを馳せる。

今よりもより静かで自然を感じられる場所で、慎ましい生活を日々営んでいこう。ソローやシベリウスのように湖畔でそうした生活をすること。それはいつか必ず実現するだろう。

もうそこに向けてゆっくりと動き始めている自分がいるのだ。想像力を働かせた不在の不在化がこれから継続していけば、それがフィンランドに自分を導いてくれるだろう。

実はオランダの郊外もまたとても落ち着いているのだが、これまでそれほど郊外に足を運んだことがないことを思った。何しろ車や自転車といった移動手段を持っていないのだから、郊外に出かけていくことはほとんどないのだ。

過去、片道10kmほど郊外の方に走って散策に出掛けたことや、バスに乗って郊外の様子をチラリと見たことがあるぐらいだ。今度何かの機会に、街の中心部の自転車屋でサイクリング自転車でも借りて、郊外の散策に出掛けてみてもいいかもしれない。

今日はまだ夢について振り返りをしていなかったので、夢について振り返り、創作活動と読書を行いたいと思う。今日は午前中に1件ほどオンラインミーティングがあり、午後には「一瞬一生の会」の音声教材を作ろうと思う。

夢の中で私は、日本の旅館の畳部屋にいた。これからそこで夕食を食べることになっていた。畳部屋を見ると、すでにいくつかの長机がセッティングされており、夕食を食べに来た人たちが随分着席していた。見ると、前職時代の会社の知り合いや大学時代の友人たちもいた。

私は彼らと一緒に夕食を食べることになり、席についた。すると、前職時代の女性の先輩が、食事の前の挨拶をしてくれと述べてきた。それはとても面倒であり、彼女は私をからかうためにそれを依頼してきたのだとすぐにわかった。

すると、私の内側から攻撃性のある自己がむくむくと姿を現し、食事の前の挨拶の言葉の代わりに、「お前らと一緒に飯を食べると不味くなる」と言いそうになったが、「お前らと飯を一緒に食べることはできない」とぶっきらぼうに述べた。そして、近くにあったお盆を持って、部屋の外で1人で飯を食べることにした。

そのような夢の場面があった。次の夢の場面では、大学時代にサークルで一緒だった友人と話をしていたのを覚えている。彼は名門の商社に入社し、今でもそこで働いている。

彼から仕事の話を聞いていたことを覚えている。その他にも夢の場面があったように思うが、今となってはそれらの記憶はもうない。

それらの記憶は、潮目のように再び無意識の世界の中に帰って行った。再び潮が満ちる時に、それらの記憶はまた別の夢の形をして現れてくるだろう。フローニンゲン:2020/8/24(月)07:15

6151. 3つの価値/固有で多様な時間感覚/TINA

時刻は午後7時を迎えた。今、穏やかな夕日がフローニンゲンの街に降り注いでいる。

今日はとても涼しい1日であり、午前中には長ズボンを履いて過ごそうかと思ってしまうぐらいだった。明日は午前中から夜にかけて雨が降るようなので、可能であれば雨が降る前に買い物に出かけよう。

夕日を眺めながら、全ての存在者に宿る神聖さについて考える。その輝きは基底価値(ground value)がもたらすものなのかもしれない。そして存在者には規定価値以外にも、内在価値(intrinsic value)と外在価値(extrinsic value)がある。

それら3つの価値を考えていくことは、価値論を様々な領域に適用していく際に重要になるだろう。それら3つの価値を少なくとも考慮した対話と実践の大切さを思う。

時間の流れ。とても緩やかな流れがここにある。それを客観的な基準で見れば、時間は万民に公平に流れていると感じる。

一方で、私たちには固有の内的時間と内的時間感覚があることを忘れてはならない。今という共通の現在の中に、様々な現在が存在していることを見逃してはならない。

今私が感じているこの瞬間と、他の人のそれは異なるはずなのだ。時間感覚の固有性と多様性についても無視できない点である。

現在存在している社会的な課題が次の世代に再生産される流れを食い止めること。それについて今日も考えていた。

昨日注文した書籍は、その方法を見出していくことに役に立つに違いないと思う。早くもオランダのアマゾンから明日に数冊ほど書籍が届くようだ。

ロイ·バスカーが提唱したTINA(There is no alternative)という言葉について考える。TINA は、不在の不在化を阻み、不在の不在化を諦める思考停止の状態を招く。

絶えず日記を書くという行為は、TINAに陥ることを防ぎ、新たな考えや感覚を見出していくという点において、不在の不在化を後押しする。

絵画の制作も作曲もTINAに陥ることを防ぐ営みであり、この世界に存在していなかったものをこの世界に在らしめるという行為である。明日もまたそうした実践に従事していこう。今日もまた充実感と納得感のある1日だった。フローニンゲン:2020/8/24(月)19:17

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