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3833. 晴れ渡る早朝の朝


時刻は午前八時を迎えた。辺りはすっかり明るくなり、雲ひとつない空に朝焼けが映し出されている。

遠くの空は薄赤色をしており、手前の空に近づけば近づくほど、青みがかかっている。カモメたちもどこか嬉しそうに空を飛んでいる。

赤レンガの家々の屋根に朝日が反射しており、その様子を今ぼんやりと眺めている。今日もまた平穏な一日となりそうだ。

早朝に一日分のお茶を入れた時、そのティーバッグに付されている言葉に目が止まった。そこには、「幸福とは真にくつろぐことである」というような意味の言葉が書かれていた。

私はそれに強く同意し、その言葉が付されたタグを外し、それをノートに貼り付けておいた。今日もまた、くつろぎの中で一日を進めていきたい。

往々にして、自我は私たちをくつろがせるのではなく、無性に不安に駆り立てたりする。私たちの自我はもしかすると、くつろぐことを恐れていると言えるかもしれない。

自我はもしかすると、私たちが真にくつろぐというのは自我が溶解し、その瞬間と一体化することであるということを知っているのだが、それを快く思っていないのかもしれない。仮に自分の自我に何かを伝えるとするのであれば、それを恐れる必要は全くないと述べたい。

確かに、私たちが真にくつろぐとき、くつろぐ者さえもが消滅してしまうかのような感覚になるが、それは自我が完全に消滅してしまうことを意味していない。端的には、自我もまたくつろげるのであり、自我はくつろぎそのものになれるのだ。

基本的に私たちの自我は、くつろぐことを知らず、私たちを不安に駆り立てるような振る舞いを頻繁に見せる。自我は、くつろぎと自分を分離することによって、その存在を保とうとする。

だが、私たちが真にくつろぐというのは、自我そのものもまたくつろぐ必要があり、自我のそうした分離衝動を極度に和らげることだと言える。ここからしばらくは、自我と自己そのもののくつろぎをテーマに据えてみようと思う。

これから一日の活動を本格的に始めていこうと思っていると、起床直後の半覚醒の意識の中で書物を読んでいたことを思い出した。その書物は英語で書かれており、私はすぐに体を起こすのではなく、しばらくベッドの上で仰向けになって目を閉じながら、心の中でその書物を読んでいた。その書物の内容はもう覚えていないが、その内容が自分の内側に染み込んでいくような感覚があった。

今日は、昨日に届いた“Music, Madness, and the Unworking of Language (2013)”の初読を始めようと思う。いつものように、初読の際は、最初から一字一句を読んでいくのではなく、まずは目次を眺め、最も関心を引く章を特定し、そこから読み進めていくようにする。

関心を引く章を読み終えたら、今度は最初から最後までざっと残りの章の内容を追っていく。そうしたことを本日行いたいと思う。

今日は天気が極めて良いようだから、久しぶりにノーダープラントソン公園へランニングに行き、その足で行きつけのインドネシア料理店に立ち寄り、昼食を購入したい。今日も旺盛な探究活動と創造活動に励みたい。フローニンゲン:2019/2/15(金)08:16

No.1682: A Joyful Dance of a Little Bird

Today looked as if a myriad of little birds were doing a joyful dance.

I wish tomorrow to be the same as today. Groningen, 21:39, Friday, 2/15/2019

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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