top of page

3814. 甘美な死と新生活を示唆する今朝方の夢の再想起


時刻は午後の八時を迎えた。今日もまた、人生のある一日が終わりに向かっている。

日々、絶えず新たな一日が始まり、その日が終わっていくことに対して、純粋に驚きの念を持つ。また、それに対して畏怖の念も抱く。

新たな一日がやってきて、それが終わる。そしてそれは、今後も永遠に続くように見えながらも、いつか突然新たな一日がやってこない日に遭遇することになる。

本当に、人間の人生とは何なのであろうか。生きるということは何なのであろうか。そうした根本的な問いが脳裏をよぎる。

一日がこのようにゆっくりと終わりに近づいている様子を眺めていると、それは私という一人の人間の人生がどこかへ向かっていることを示していることに気づく。

就寝まであと一時間半ほどとなったところで、今朝方の夢について思い返していた。今朝は、死に関する夢を見ていた。

東欧諸国の廃墟にいて、戦場と化した戦車の中にいた自分の気持ちについて改めて振り返っている。戦車の中で感じた死への恐怖、そして死への恍惚感。特に後者の感情は一体何だったのだろうか。

誰かが、「死は甘美なものである」と述べていたのを思い出す。死は、私たちの人生の最後に待っている褒美のようなものなのだろうか。

虚飾され、歪曲化され、そして忌避される対象に貶められた死ではなく、真の死を体験するためには、真の生を生きて行く必要があるだろう。自らの生を真に生きた者にだけ、真の死が甘美なものとしてやってくるのかもしれない。

死に関する探究を深めていくに際して、私はまた近々、これまで蓄積してきた自分の諸々の事柄を手放し、出直す必要がありそうだ。その予感はすでにしている。

今朝はその他にも、新生活を暗示する夢を見ていた。具体的には、大学時代に住んでいたアパートが夢の中に現れ、あれは大学時代の記憶と、これから始まるであろう新生活に対する自分のが気持ちが相まって生み出されたものだったのかもしれない。

今、私は再び人生の分岐点に差し掛かっており、この夏からは新しい国で生活を始めることになるだろう。それを目前に控え、東京で一人暮らしを始めた大学時代の感覚が蘇ってきているのかもしれない。

不思議なことに、アメリカで初めて生活を始めた時にも、オランダで生活を始めた時にも、今朝のような夢を見たことはなかった。アメリカで生活をすることや、オランダで生活をすることは、自分の人生における極めて重要な分岐点であったことは間違いないと思うのだが、今回のそれは、アメリカやオランダで生活をするようになったこと以上に大きな意味を持っているのかもしれない。自分の深層意識はそのようなことを伝えようとしているように思える。

数日前に私は、日本が外国のように感じられるようになったと書き留めていた。その背景には、この三年間において、感覚の根本的な変容があったと言えるだろう。

この三年間において何が変わったのかを自分で判断することは難しいが、内側の諸々の感覚が変わったことだけは確かだ。感覚を受け取る自己も、感覚を意味付ける自己も変わった。

そして何より、生み出される感覚自体も変わったのだ。今年の夏から、私は本当にどこで生活を始めるのだろうか。あと数ヶ月でその日がやってくると思うのだが、この瞬間の自分にはそれがどこかのかはまだわからない。

厳密には、それは確定していないと言った方が正しい。ただし、いずれの国に住むことになったとしても、一、二ヶ月ほど、札幌で生活をしようと思う。

札幌は、心理的にフローニンゲンに一番近く、東京はあまりにも心理的に遠い。東京に漂う死へ誘う香りと手招きに飲み込まれないほどに、今の私は内面的な成熟を遂げていない。フローニンゲン:2019/2/11(月)20:31

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page