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3601. ゴッホの手紙と必然性


昨日に引き続き、今朝も六時前に起床し、六時半を迎える前に一日の活動を始めた。フローニンゲンは普段からどこか休日であるかのようなゆったりとした時間が流れているが、年末を迎えた今の時期はなおいっそうのこと時間の流れが緩やかに感じる。

実際に昨夜も、時間の流れの緩やかさを感じていた。昨日は土曜日であることを早朝に確認していたはずなのだが、その夜にはすっかりそれを忘れ、その日が何曜日であるのかが一瞬わからなくなっていた。

2018年最後の日曜日を迎えた。辺りは闇と静寂さに包まれている。

ここ最近、気温そのものは例年に比べてまだ低くないのだが、芯から冷えるような寒さを感じるようになった。オランダの家庭にはどこも十分な暖房器具が備わっており、それは今住んでいる自宅も例外ではないのだが、最近は足元から冷えることがある。

寒さはこれからより厳しさを増し、そのピークは年明けから数ヶ月ほど続くだろう。

昨日から、ゴッホの手紙の続きを読み始めた。昨年のクリスマスに、イギリスの書店から購入した全六巻の“Vincent van Gogh - The Letters: The Complete Illustrated and Annotated Edition (2009)”の第一巻の続きを今日も読み進めていく。

昨夜ゴッホの手紙のいくつかを読み進めていると、芸術家、そして思想家として生きたゴッホの生き様から、何か霊感を与えられたような感覚があった。今読み進めている手紙は、ちょうどゴッホが画家を志す前に、聖職者になろうとして勉強に明け暮れている日々の様子が綴られたものである。

ゴッホが画家になろうと志したのは28歳ぐらいの時であり、それまでの期間においても、ゴッホの中で絵画の関心が高かったことは手紙を通しても明らかである。実際に、ゴッホは様々な画商や美術家との交流があったようであり、様々な絵について手紙の中で詳述している。

おそらくゴッホの中には、まだ自覚がなかっただけであり、その時から絵画に向かわせた内在的な何かがあったのだろう。言い換えれば、ゴッホの魂が絵画を選ばざるをえなかった必然性のようなものがもうその時からあったのだ。そのようなことを思っていた。

ある対象に向かわせる内在的な必然性。私もそうした必然性との出会いをこの欧州の土地で得たように思う。

それは日記の執筆であり、作曲だった。確かに私がオランダの地にやってきた意識的な目的は、フローニンゲン大学に留学するためだったが、私が自覚しない無意識的な目的は、日記の執筆と作曲を絶え間なく行う自己を見出すことにあったように思えてくる。

今はこの見出された自己を元に日々を生き、まだ見出されぬ自己の側面を見出すために日記と作曲に従事する毎日が続く。

来年の夏以降、私はどこで何をしているか定かではない。ただし確信を持って言えるのは、この世界のどこで生活をしていたとしても、絶えず日記の執筆と作曲に従事しているだろうということだ。

新たな年も、絶えず探究活動と創造活動の中で過ごす日々を送りたいと思う。フローニンゲン:2018/12/30(日)06:42

No.1526: A Fireball on A Winter Night

The last Sunday in 2018 is now approaching the end.

I can hear sounds of firecrackers from my neighborhood, which is a typical way to celebrate the New Year in the Netherlands. Groningen, 21:11, Sunday, 12/30/2018

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