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3258. 診断型アセスメントと成長志向型アセスメント


ちょうど先日にふと、このリアリティには対極性が遍く存在しており、それが共進化の道を歩んだり、共退化の道を歩んだりしている様子が知覚された。二つの極が足並みを揃えて進化の方向に進んでいくことや、同時に退廃の方向に向かっていく現象は、このリアリティの中で多く見出せるだろう。

先ほど考えていた、芸術教育を取り巻く世界観の変遷過程においても、何らかの二つの鍵となる極が存在していて、それらが共進化の方向に向かう形で芸術教育の価値を高めることもあれば、逆にそれらが共退化の方向に向かう形で芸術教育の価値を貶めることもあるのではないか、という新たな考えが浮かんだ。

この考えをより具体的な歴史事象に当てはめるためには、芸術教育を取り巻く二つの極を見つけていくことが重要になるだろう。芸術教育の世界には、どのような対極性があるのだろうか。

今はこの問いへの回答は一切わからないが、もうこの問いが立ったということは、いずれそれに対する自分なりの回答が得られるだろう。この問いも自己の内側に寝かせておき、問いの熟成と自発的な発展を見守りたい。

早朝に執筆した日記の中で、アセスメントについて言及していたように思う。端的には、現在のアセスメントの多くは非民主主義的であり、アセスメントは対話を促すものである必要がある、ということを述べていた。昼食を摂りながら、この話題について再び考えていた。

早朝の日記では、アセスメントを一括りにして考えており、日記を執筆している時の自分の思考の枠組みは発達理論に依存するものであったため、アセスメントの種類に関しても自ずと知性の発達を測定するものと想定していた。

しかし現実には、そうしたアセスメント以外にも、純粋に何らかの診断に活用するものも存在することに改めて気づいた。今はあえて身体のアセスメントや文化や制度のアセスメントにまで話を拡張させるのではなく、私たちの内面領域の話に絞ろうと思う。

そうした場合に、精神病理や性格類型などを特定していく診断型のアセスメントと、測定した知性や能力をさらに高めていこうとする成長志向型のアセスメントが少なくとも存在することがわかる。分類基準についてより厳密なものにすれば、さらに細かく分けられるだろうし、そもそも別の分け方もできるかもしれないが、とりあえず診断型のアセスメントと成長志向型のアセスメントの二つを想定する。

早朝の話は、それら二つのタイプのアセスメントにおいても当てはまるだろうが、とりわけ問題が大きいのはやはり後者のタイプのアセスメントだと思う。前者に関しても、診断で終わりにするのではなく、それこそ精神病理を特定することを目的にしていれば、それに対する適切な処方を提供することが必要だろう。

精神療法家の方たちの話を聞いていると、比較的それは行われており、病理が見つかったのにもかかわらず、放置するという非人道的なことはさほど横行していないように思われる。一方で、成長志向型のアセスメントに関しては、そうした非人道的な放置が行われているような状態だと言えるかもしれない。

いやそもそも、本来さらなる成長を支援するためのアセスメントが、人を単に枠組みに当てはめるだけの道具に成り果てている点で、よりタチが悪いと言えるかもしれない。結局のところ、既存の成長志向型のアセスメントは、人を固定的な枠組みに当てはめるためだけに使われているという点において、診断型アセスメントの劣化版のようなものになってしまっており、本来目的とする事柄を一切遂行していないように思える。

おそらくそこには、アセスメントの開発者、提供者、利用者の発達リテラシーが極度に低く、成長志向型アセスメントの本来の目的と役割が見えなくなってしまっているという問題があるのではないかと思う。それが成長志向型アセスメントの誤った使い方を招き、対話の一切ない、非民主主義的な道具を用いて人の成長可能性を蝕むことにつながっているのではないだろうか。

そのようなことを昼食を摂りながら考えていた。フローニンゲン:2018/10/12(金)13:11

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