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3177. 「考える権利」の剥奪


早朝は雲が多かったが、午前九時を回った今は晴れ間が広がっている。今日は平日の火曜日だが、休日のように辺りが穏やかだ。

今から一時間ほど前に、空に浮かぶ雲に朝日が照りつけており、雲がとても美しい色を発していたのを思い出す。朝日の輝きを見ていると、一日の活動に向けて心身のエネルギーが高まっているのがわかった。

今日もまた自然に寄り添いながら一日を過ごしていくことになるだろう。窓の外に広がる景色に支えられながら、今日も自分のライフワークを少しずつ進めていく。自分のライフワークに打ち込めるほどに至福なことはない。

先ほどから“Derrida & Education (2001)”の再読を始めた。本書を読みながらふと、もしかすると現代の教育においては、「考える権利」というものが剥奪されてしまっているのではないだろうか?ということを考えていた。

知識を単に詰め込むことや、一方向的なティーチングの氾濫によって、子供たちが自ら考える権利を奪ってはしないだろうかという問題意識が浮上した。自分自身を振り返ってみると、何か物事を考えるためには心のゆとり、そして時間的なゆとりが必要なのだが、学校の中では一つのことをゆっくりと考えるようなゆとりが希薄なように思えてくる。

それと相まって知識が教師から一方的に流れ込んでくるような状態では、考える力を育むことはおぼつかないだろう。発達心理学者のロバート・キーガンの理論モデルで言えば、自己主導段階というのは、まさに自ら自律的に思考を推し進めていくことができるという特徴を持つが、成人人口のうち、この段階に到達している者はそれほど多くない。

こうした背景には、幼少期の教育において、自ら考える訓練をどれほどしてきたかがカギを握っているように思えてくる。成人の発達が停滞している背景には、そして自律的な知性を獲得している成人が少ない背景には、子供時代に考える権利が剥奪されてしまっていたことと関係しているのではないかと思えてくる。

こうした問題に付随して、教育哲学者のイヴァン・イリッチが指摘しているように、学校だけでしか通用しない「学校知」を獲得することに躍起にさせる現代の教育の問題も依然として強く残る。学校社会でしか通用しない知識を大量に獲得し、それでいて自ら考える知性が育まれていない状況は非常に危機的であるように思える。

さらには、教育と企業社会の癒着に際して、企業社会が学校知にばかり焦点を当てて人を評価・判断していることも大きな問題だろう。

思考のあり方というのもその人に固有なものであることを考えると、考える権利の剥奪は、その人の固有性を剥奪することにつながり、どこか人権の問題にまで拡張されていくようなテーマのように思えてくる。

これからまた上記の書籍の続きを読み進めていく中で、自分の考えを少しずつ深めていこう。その過程の中で考えたことを、一切のまとまりがなくても気にすることなく、日記として書き残しておこうと思う。フローニンゲン:2018/9/25(火)09:25

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