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3162. 答える教師ではなく問える教師


時刻は午後の七時半を迎えた。今日も一日があっという間に過ぎ去って行った感覚がある。

先ほど入浴をしながら、現代の教育において芸術教育や霊性教育がないがしろにされてしまう理由について考えていた。思想的な問題の一つは、企業社会と教育社会の癒着、あるいは教育が企業社会の発想の枠組みに隷属してしまっていることではないかと思う。

端的には、企業社会に根強く存在する、定量的に測定できるものが良いものであり、それ以外は蔑ろにされてしまうという慣行が、そのまま教育の世界に流れ込んできてしまっているのではないかと思う。

確かに教育は、将来仕事を通じてこの世界に関与していくための役割を果たすべきだが、現代の教育は、企業社会の中でいかに金銭を獲得できるかの極めて限定的な技術や知性を育む場と化してしまっているように思えて仕方ない。

企業社会の中で多くの金銭を獲得するためには、定量化できない芸術性や霊性はほぼ無価値のものとして扱われてしまい、それが芸術教育や霊性教育の抑圧につながっているのではないかと思う。これはより突き詰めて考えていく必要があるが、芸術教育や霊性教育の抑圧の背景には、企業社会に蔓延する思想の歪みが存在していることは疑いようのないものに思えてくる。

今後、芸術教育や霊性教育の意義について考察を深めていく際には、この問題についてより掘り下げていきたいと思う。

秋のある土曜日がゆっくりと終わりに向かっている。今日は一日中曇り空であり、今も鬱蒼とした雲が空を覆っている。

そうした最中にあって、一日が一つのかけがえのない粒子として存在し、それが数珠のようにつながっているのがわかる。今日という一日も間違いなく何気ない一日だったのだが、それが極めて大切な一日であり、自分の人生における全ての日と密接なつながりを持っていることがありありとわかる。明日もきっとその日のかけがえのなさを感じることができるだろう。

教師の役割として、単純に知識を与えるよりも、適切な問いを生徒に投げかけるかがいかに大切かについて考えていた。これは企業社会における上司部下との関係を含め、広く当てはまる事柄だと思う。

そもそも教師というのは、生徒からの質問に全て答えることはできないだろうし、答える必要もない。仮に提供した答えが、生徒の発達段階にそぐわないものであれば、そこには教育効果はないに等しい。

重要なことは、生徒たちを一歩前に成長させていく問いを与えることなのだと思う。現在の生徒の立ち位置を見極め、その生徒に最適な問いをいかに投げかけられるかが、生徒を真の成長に導く教師なのだと思う。

私は社会人になってから、二回ほど海外留学を経験しているが、その際にいつも有り難く思っていたのは、自分に投げかけられる問いであった。正直なところ、教師から答えをもらうことは御免であった。

往々にして教師の口から発せられる答えは、教師にとっての答えであったとしても、私にとっての答えではないことばかりである。私を発達に導いてくれた良き師は全て、その時の私にとって最適な問いを投げかけてくれる存在であった。

教師は生徒からの質問に答えるために必死に知識を積み込むのではなく、一人一人の生徒にとって最適な問いを投げかけられるような知性を自ら育んでいく必要があるのではないかと思う。

立場上、協働プロジェクトを行う際には、人間発達に関して私も諸々の質問を受けることが多くなったが、自分の答えを述べることよりも、まずは相手にとって最適な問いを投げかけることを意識する必要があると反省させられる。フローニンゲン:2018/9/22(土)19:49

No.1322: The End of a Brilliant Day

Today will end soon, and I have a sense of fulfillment now.

I wish tomorrow will be as fulfilling as today. Groningen, 21:02, Monday, 10/15/2018

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