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3157. 実践的な哲学


再び小雨がパラパラと降り始めた。黒い雨雲が、闇夜の到来に合わせてさらに黒さを増している。

ここ最近は、自己がはち切れんばかりに哲学書を読みたいという思いに包まれている。絶望的なまでに哲学書を読みたいというのは、希望に向かう道を歩いているということだろうか。

今日は三つの論文に合わせて、テオドール・アドルノの“Against Epistemology (1956)”を読んだ。これはもう随分と前に買っていた書籍だったのだが、未だ一度も読んでいなかった。

本書では、フッサールの認識論が批判の対象になっているのだが、そもそもフッサールの認識論がどのようなものかについて私はほとんど知らないため、本書は極めて難しかった。おそらく理解できたのは全体のうちの1%ぐらいではないかと思う。

自分の関心領域の哲学書を読む際には、初読時の理解が10%ぐらいであればそれは随分と読みやすい書籍だと感じられ、今回の書籍のように関心はあるのだが、いかんせん書籍の中で記述されていることの土地勘がほとんどない場合には、初読時の理解度は1%から5%ぐらいまで下がる。

しかし興味深いのは、再読時にはその理解度がかなり向上しているということだ。どのような書物でもそうだと思うが、初読時に全てを理解しようと思うと、それは途中でその本を投げ出すことを招いてしまうように思う。

書物との付き合いは人との付き合いと同じであり、何度も書物と向き合っていくことが大切になる。最初は挨拶程度の読書で十分である。

初読時にはその書籍で言わんとしていることの概要を掴んだり、全体の流れを感覚的に把握していくことが大切になる。もし本文の中で本当に気になる箇所があればそこで立ち止まり、ゆっくりとその箇所を読んでいく。そうした箇所が一箇所でもあれば、その書籍は自分にとって非常に意味のあるものだと言えるのではないかと考えている。

今日読んだアドルノの書籍はまたいつか読み返すことになるだろう。再読の日は近くないかもしれないが、その時にはまた今日とは違った発見があり、今日以上に理解出来る箇所が増えているだろう。

明日からは、ミシェル・フーコーの処女作“Madness & Civilization: A History of Insanity in the Age of Reason (1965)”と、ヨルゲン・ハーバーマスの批判理論に関する書籍“The Critical Theory of Jurgen Habermas (1988)”を読み始める。

それら二冊と教育哲学は一見すると関係のないように見えるかもしれないが、人間発達を主軸において考えてみると、両者の間には共通事項が隠されていることに気づくだろう。これから読み進めていくいかなる哲学書も、絶えず人間発達と教育に引きつけて読み進めていく。

すべての探究の出発点と根幹に、人間発達と教育があり、自分の直接体験を総動員させながら、とにかく自分の関心に引きつける形で無数の哲学書を読んでいく。全ての哲学は、自己の関心に引きつけなければ結局無用の長物だが、ひとたび自分の関心に引きつけると、それは極めて実践的な力を発揮し始める。

そうした力を得、それをこの世界に還元していくことが哲学が果たす一つの大きな役割であるように思える。フローニンゲン:2018/9/21(金)20:19

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