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2931. 創造の泉に触れながら


街路樹が表情に動きをつけて微笑んでいる。夕方の爽やかな風に揺られる街路樹を見てそのように思った。

自宅の目の前の通りには青々とした街路樹が何本も植えられており、食卓からはそのうちの数本が見える。それらの街路樹が夕方の通り風に揺られる姿はどこか恍惚感を私にもたらした。印象派の絵画作品のような、どこかモネの絵のモチーフにありそうな光景が目の前に広がっていた。

ただただ毎日が充実し、幸福感を感じながら日々を生きている。何に対して充実感や幸福感を感じているかというと、もしかするとそれは生きることそのものなのかもしれない。

日々を生きるということがこれほどまでに充実感と幸福感をもたらすものなのだという気づき。私はフローニンゲンの地でとても大切なことを教えてもらったように思う。

この地で生活をして初めて、私は人間が人間として生きることの本質を知ったのだと思う。文章を書き、曲を作り、デッサンをしながら日々を生きること。その充実感と幸福感は何物にも代えがたい。

今朝方、過去に作った曲を聴いていると、この世界の一つ一つの存在が一つの数珠であり、それが一つの円を形成している姿が知覚された。この世界はどうやら一つの踊る数珠玉のようなのだ。

知覚された心象イメージをすぐさまデッサンとして形にしておいた。ここ最近作曲をするたびごとにデッサンをしており、随分と多くのことに気づかされる。

自分のデッサンは無意識の産物であり、そこからの学びがいかに豊かなことか。そこにはこれまでの自分の全経験が含まれているように思える。

全くもって無意識に色鉛筆を動かしているだけなのに、色取り取りかつ多様な形を持つ絵がそこに生み出される。デッサンをしている最中は作曲の最中以上に何かに帰依しているような感覚がある。

作曲の最中は、まだまだ私は思考を随分と働かせている。過去の作曲家が残した楽譜を分析し、そこから曲を作っているため、どうしても思考が働く余地が残ってしまう。それはもちろん悪いことではなく、卓越の道の初期は必ず意識的な実践動作が必要になるためそれは自然なことである。

ここから私は、作曲においてもデッサンと同様に無意識の層から作品を生み出せるようにしていきたい。それが実現されるのは遥か先であることを知っている。

だが、遥か先のそれを今日この瞬間に文章として書き留めた瞬間に、その日は必ずやってくるだろう。なぜなら、この文章を書いているのは現在過去未来の全ての自分だからだ。

そこには未来が含まれており、それが実現された自分がこの文章を書いていると考えても何らおかしなことではない。これが文章を書くことの不思議な力であり、そもそもそうした力を発動させることのできる人間の不思議な点である。

今日はこれから再びバッハの曲に範を求めて作曲をする。その際に、一度作ったメロディーラインを再活用する際に、骨格となる構造をそのまま活用しながらも、四分音符を八分音符二つに変えてみたり、逆に四分音符二つをを二分音符一つに変換させてみたりするという工夫をする。

それは初歩的な作曲技術だが、それをあえて意図的に行ってみる。この技術もまた作曲における一貫性と多様性という二つの根幹原理のうちの双方と関係している。

日々作曲をし、できた曲に対してデッサンをしていると、一つ一つの作品から新たに喚起させられることが非常に多いことに驚かされる。新たに得られた感覚をもとに過去の曲を編集したり、過去のデッサンに手を加えたりすることを毎日飽きもせず行っているが、それはどこかプルースト的な営みだと言えなくもない、ということに気づく。

私たちの内側にある創造の泉。その泉に触れる時、自分の内側から無限に何かが創造されていき、それは無限増殖を始めるかのようだ。

私たちの内側に眠る創造の泉については、よりその性質を探究したいと思う。そのためには、観察と実践が不可欠だ。

日々のあらゆる創造活動にこの創造の泉が関わっていることを忘れないようにしたい。夕方の風に揺れて微笑む街路樹もこうした創造の泉から生まれたものにちがいない。フローニンゲン:2018/8/3(金)19:35

No.1200: Purple Blood

It is chilly and quiet at this moment in the morning.

I feel as if my purple blood were pulsating quietly. Groningen, 08:22, Sunday, 9/9/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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