top of page

2885. 普遍語としての音楽


早朝にGRE対策の単語学習を進めた。その学習が随分と進み、一旦そこから離れて他の実践に従事しようと思う。

これから過去に作った曲を編集し、一曲ほど作曲をする。今ふと、自分が音楽言語を学び、それを通じて作曲していることの意味について新たなものが見えてきた。端的にはそれは、音楽という普遍言語を通じてこの世界に関与するということである。

私は、合計で七年ほど日本語以外の言語空間で生活を営んできた。米国での四年間のみならず、オランダでも英語偏重型の生活を送っていることは確かだが、英語という言語をもってしてもそれは強力な言語でありながらも万民に通じる言語ではない。

仮に英語が今後も普遍語としての地位を着実に高めていったとしても、万民が英語を母国語のような形で操ることはできないだろう。そうした状況において、英語で何かを表現していくのではなく、万民に通じるような言語を用いて表現していこうとする芽生えが自分の中で起こったようだ。

まさにそれは音楽言語という普遍語を通じた自己表現である。確かに音楽言語も各文化の影響を受けており、ある音楽言語に基づいて創られた音楽が他の文化の人々に理解されるかどうかはわからない。

しかし、それは自然言語以上に理解が可能だと思う。なぜなら、音楽は自然言語以上に直接的に人間の根源的な感情に訴えかけてくるからである。音楽が普遍的だと言われることがあるのはそうした特性によるからなのではないかと思う。

先ほどふと感じたのは、まさに音楽言語という普遍語を通じた創造活動及びこの世界への関与の重要性である。学術論文を英語で執筆している時に感じたある種の虚しさのようなものは、上記の事柄と多分に関係しているだろう。

学術の世界で普遍語になりつつある英語を用いて論文を執筆したとしても、それを読む人、そしてそれを理解できる人は本当にごく少数だ。私が音楽言語を通じた作曲に惹かれた理由は、まさに音楽が万民に通じるものだからかもしれないと今更ながらに思う。

今日はこれからバッハの二声のコラールに範を求めて一曲作る。昼食後には四声のコラールに範を求めて二曲目を作りたい。

四声のコラールに範を求めることはこれまで控えていたが、昨日その封印を解いた。四声のコラールを参考にして曲と作りたいという抑えがたい思いが生まれたからである。

今日もまだその思いが引き続き自分の内側にある。それに純粋に従い、内側から外側に形になって出てこようとするものを、それが望む形で外側に表していこうと思う。

時刻は午前九時に近づき、もうこの時間帯の朝日は夏の力強い光に変わった。一日が本格的に始動し始めたのを感じる。

今日も一歩を前に進めていく。それは着実な一歩であり、同時に力強い一歩になるだろう。フローニンゲン:2018/7/24(火)08:54  

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page