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2464. 予感


中欧旅行から帰ってきてふと気づいたが、近所の道路の工事がいくつか完成し、随分と綺麗になった道がある。私が見ていないところで働き続ける人たちの仕事がここに結実されているのだとはっきりと見て取ることができる。

誰の目にも止まらなないところで仕事を進め、それが誰かに資するものになるということ。それが人間の仕事の本質の一つのように思えてくる。

中欧旅行で書き留めた日記の整理がまだ追いついていない。実際には、まだ書き留められていないことがいくつもあり、あの旅を振り返る時間はこれからもまだまだ必要だと言える。

中欧旅行の過程の中で感じていた流麗な流れが、自分の人生の中に流れ込んできているのを感じる。ワルシャワで流れていたなんとも言えない雰囲気やブダペストのドナウ川の流れなど、諸々の事柄が一つになった流れが自分の人生に流れ込んできている。

私たちの一生は本当に流れだったのだ、ということを改めて強く実感させられる。

今日はこれから論文を執筆していく。早朝からこの時間帯にかけて日記を執筆したり、過去の日記を編集していたため、論文を書いていくための準備は整っていると言える。

自分の意識が構成的なものに変わりつつあることがそのサインである。この構成的な意識は、自分の内側にあるものを外側に形として表現していく際に不可欠なものである。時計職人が精密な時計を作っていくのと同じように、論文の文章を精密に積み上げていこうと思う。

先ほど、解放とは何か、自由とは何かについて思いを馳せていた。それらは未だ難しいテーマだが、欧州での日々が一日一日と過ぎていく中で、それらのテーマの重要性が増していく。

不必要な制約があるとすればそれは何であり、必要な制約があるとすればそれは何であるかを考える。不必要な制約からの解放の手段とその意義について考えが及ぶ。

自由の要件と特徴について考えが及び、真の自由と人間本質との関係性について考える。そうしたことに思いを馳せずにはいられない日々がここにある。

そうした探究的な問いを最初から人間全般に拡張させて考えることは適切ではない。兎にも角にも探究の出発地点は自己に立脚したものでなければならない。そうでなければ、発見された気づきというものが根無し草になってしまう。

今の自分にとっての制約や自由とは何かを考えることは、随分と忍耐を要求することなのだと感じる。自らに引き寄せてそれらの問いを考えることから逃げようとするとき、無用にも人間全般に思考を拡張させようとするのかもしれない。

ここからも、自分の内面と向き合うことがどれほど困難かが痛いほど分かる。いつも私は自分の内面と向き合うことから避けているかのようにすら思えてくる。

欧州での三年目の生活は、これまでの二年以上に自分と向き合うことが必然的に要求されてくると思う。それはもはや明確だ。

窓の外の街路樹を眺めると、昨日まで裸だったつぼみから緑色の芽が出ていることに気づいた。また何かが始まろうとしている。フローニンゲン:2018/4/24(火)09:19 

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