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2406. この世界の委託受託関係


「学びを委託し、学びを受託している」そんな気づきが生まれたのは夕食を摂り終えた直後だった。

緩やかな風がフローニンゲンを駆け抜けており、夕日が西の空に沈もうとしている。この街に風が吹き抜けていけばいくだけ、太陽が西の空に近づいているような気がする。

風は太陽の進行の後押しをしているのかもしれず、太陽は風に生命を与えているのかもしれない。そんな相互互恵関係がこの世界には存在しているのではないだろうか。

夕食を摂り終えた後、私は学びを他者に委託し、他者から学びを受託しているのだとふと思った。日々私が学びを深めている領域というのは一見すると広く見えるかもしれないが、それはこの世に存在する無限の探究領域からすると豆粒ほどでしかない。

私は日々、他者が自分の代わりに学びを深めていってくれたことからもたらされる恩恵を自分がどれだけ授かっているかを知る。もうしばらくしたら、私はかかりつけの歯科医のところに行く必要があるだろう。歯学の領域はまさに私が他者に委託した探究領域だ。

今日はこれからプログラミング言語のRを用いてデータ分析をする。そもそもRを構築したのはコンピューターサイエンスの専門家であろう。コンピューターサイエンスという領域もまさに私が他者に委託した探究領域だ。

このように、私が他者に委託した探究領域を挙げればきりがない。それこそ本当に無数の領域が存在する。

ちょうど昨日にランニングに出かけた帰りに気づいたことと、これは密接な関係がある。私たちは常に他者の仕事の恩恵を受けながら自らの仕事と生活を成り立たせているのである。私の代わりに学びを深めてくれる人たちがこの世界に無数に存在している。

彼らの学びに支えられる形で私の日々の仕事と生活がある。そうしたことを考えた時、まさに同じことが自らの学びについて当てはまると思った。

米国時代の私はもはやここにいない。あの時の私は、ただ自分の探究衝動に純粋に従う形で学びを深めていくことにしか関心がなかった。つまり、自らの学びがこの世界といかにつながっているのかの理解がなかったのである。

当時を振り返ると、あの時の学びは随分と自閉的なものだったように思う。現在のように日記を書くこともなく、本当に毎日ひたすらに書籍と論文だけを読むような生活を数年間送っていた。

そうした時代を経て、あの時とは全く異なる自分が今ここにいることに気づく。学びというのは閉じられた系ではなく、開かれた系だったのだ。

数ヶ月後に私は、欧米で取得する三つ目の修士号を得ることになる。なぜか自分の内側では、四つ目の修士号を取得し、そこから連続して三つの博士号を取得するような促しの声が聞こえる。

最近その声は強まるばかりである。「あぁ、自分は学びを受託されているのかもしれない」そんなことを思ったのは、自分をどこか継続的な学びに向かわせている力の存在に気づいたからなのかもしれない。

おそらく私はこの世界の誰かから、そして世界そのものから、継続的な学びを受託されているに違いない。でなければ、四つ目の修士号と三つの博士号をここから連続して取得することが当たり前すぎると思っている自分の声を説明することができない。

それはあまりに当然な成り行きであって、全くもって常軌を逸していない。ここからの学びを冷静に眺めてみれば、やはりそれは呼吸をゆっくり行うことと同じようにしか思えない。

継続的な学びをこの世界から受託されているのであるから、それは自然なことなのだ。私はこれからも他者に学びを委託し、他者から学びを受託し続けたいと思う。

委託と受託の関係によって、この人間世界も、そして自然界も成り立っているのではないだろうか。

西の空に沈もうとしている夕日とフローニンゲンの街を吹き抜ける風がそうした相互関係を見事に説明してくれている。フローニンゲン:2018/4/11(水)19:51

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