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2233. 気温の恩恵


気温が少しずつ暖かくなってきていることを肌で実感している。ここ最近は、気温に関することをほぼ毎日何かしら文章にしているように思う。

たかが気温と思うかもしれないが、文章にしようと思わせる何かがこの現象の中に潜んでいるようなのだ。書かずにはいられない、言葉を紡ぎださなければいられない何かが気温の中にある。

もしかすると、気温の変化は私の変化を支えている存在、もしくは見守っている存在であり、私にとって非常に大切な存在なのかもしれない。だからこうも毎日気温について何かしらの文章を書き留めているように思う。

やはり自分にとって重要なことの中には、文章を書こうとする強い意志が根付いているようだ。それともう一つ、こうした気温の小さな変化に対しても敏感に感じられるようになった自分の感性の変化と心のゆとりというのも忘れてはならないだろう。

欧州での生活が始まってから、徐々に私の感性も変化していったように思う。どのような点においてどのように変化したのはかはあえてここで書かないが、そうした変化の過程については過去の日記を遡ってみると自分でもすぐにわかる。

自らの感性が変化し、外により開かれ、内により深く入っていくような感性が醸成されるにつれて、気温の変化を含め、身の回りに遍満する変化する現象に対してとても敏感になっているように思う。

こうした感性の変化が、気温の微細な変化を捉えるようになったのだと思う。そして、欧州での日々を、この土地に堆積された長大な時間の中に自己を安住させることにより、心に深いゆとりがもたらされていることも大きいだろう。

そうしたゆとりを持って初めて、小さな変化をつぶさに観察できるようになるのではないかと思う。余裕なく、こちらが動き回っているような状態では、おそらく変化する現象を掴むことはできないだろう。

動くものと並行して動いていては、その動きは止まって見えるため、変化の本質を逃すことになる。確かに、私たち自身も絶えず変化をしている存在だが、だからこそあえて立ち止まって自己及び外界の変化を捉えることが必要なのではないだろうか。

立ち止まり、自己を観察し、世界を観察するゆとりを忘れてはならない。そうでなければ、内外の微細な変化など捉えようがないのだから。

気温について思いを巡らせてみると、やはり色々な考えが出てきた。今日のフローニンゲンの最高気温は10度と暖かく、明日はまた最高気温が5度まで落ちるが、明日以降はまた最高気温が10度ほどになる。

徐々に春が近づいてきた。米国の詩人エミリー・ディキンソンが生涯にわたって詩を書き続けたように、私も日記を書き続けたいと思う。

日々の日記が変化に富んだものになるのは、内外の変化のおかげなのだ。内外の変化の恩寵の下に、今日もまた変化に富んだ一日を十分に過ごしたいと思う。フローニンゲン:2018/3/7(水)07:52    

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