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1585. ドイツの大学にて


今朝は一昨日と同様に五時に起床した。非常に爽快な目覚めと共に、新たな週を始めることになった。

今日は午前中から大学に行き、午前と午後に講義を一つほど受講する。今はまだ辺りは闇に包まれているが、天気予報を見ると、どうやら今朝も霧に包まれるらしい。

幻想的な白色を伴った霧の世界を通って、今日はキャンパスに向かうことになりそうだ。 昨夜は少しばかり興味深い夢を見た。夢の中で私はドイツにいた。

どうやらドイツの大学に入学するための説明会と面接に参加しているようだった。すぐに気づいたのは、それが博士課程のためのものではなく、何やら学士過程のためのものであったということだ。

大学のキャンパスに到着すると、ここに初めて訪れたにもかかわらず、とても馴染みのある感覚がしていた。その大学は随分と前から自分が所属している大学である、という感覚と言ったらいいだろうか。

故郷に戻ってきたような感覚を抱きながら、私は説明会と面接を兼ねた会場に向かった。会場の外にはデスクが設置されており、そこで説明会用の資料が配られていた。

そのデスクの真後ろで立っていた一人の若いドイツ人男性から、私は説明会用の資料を受け取った。すると何やら、その男性はこの大学の学生でありながらも面接官を兼ねていることがわかった。

彼の歳は私よりも若く、ただし、学士過程にいる学生ほど若い年齢ではない。おそらく、博士課程に所属している学生か何かだろうと推測した。

面接はドイツ語ではなく、英語で行われ、志望動機を書く文章に関しては、なぜだか日本語が強制されていた。会場に入ることなく、その場で行われた面接の後、私の左隣りには他のヨーロッパ諸国から来た若い女性が立っていた。

どうやら彼女も面接を受けたらしい。面接を受けた後、ほんの数分ほどで面接結果がわかるような仕組みになっているようだった。

正直なところ、面接を受けることや志望動機をあえて書く必要もないほどに、私は自分がこの大学に受け入れられると思っていたため、今回の面接は単なる形式上の手続きに過ぎないと捉えていた。

こうした心境に自分がいたのも、この大学に足を踏み入れた際に感じていた、ここは過去の自分が所属していた大学だという安堵感、あるいは、この大学に来ることになっている運命の導きがもたらす安堵感があったからだと思う。

そのようなことを考えていると、別の面接官が左隣りの女性に合否を伝えていた。どうやらその女性は、この大学に入るための英語力が足りず、不合格となったようだ。

また、経歴や志望動機に関しても、この大学にそぐわないものだったようだ。そうした諸々の点を、ドイツ人の面接官は、言葉を和らげながらその女性に伝えていた。

当然ながらその女性は残念そうな表情を最初のうちは浮かべていたが、面接官の説明を受けるに従って納得した表情になっていった。その女性がその場から立ち去ると、私に対して面接をしたドイツ人の男性が笑顔でこちらにやってきた。

面接結果を待っている時から、あるいは面接を受けることになった瞬間から、私はこの大学に受け入れられることを予期していたので、その面接官がこちらに向かってきた時に何を伝えられるかはすでにわかっていた。

その予期が裏切られることはなく、その面接官は私に合格を伝えた。私が先ほど執筆した志望動機書の随所に赤ペンでコメントが入っており、それは奇妙なほどに私を絶賛する内容だった。

志望動機書の冒頭のページに、「ぜひこの大学に来て欲しい」という意味の英文が書き込まれていた。そのコメントの右下に、二重丸が描かれており、それに加えて「2」という数字が書き込まれていた。

その記号と数字を見たときに、なぜだか私は、花丸の記号があり、数字の最高値は「3」だとわかった。つまり、合格した者の中でもさらに順序付けがされていることに気づいたのである。

正直なところ、自分が得た評価に対して、笑いと少々の不満が混じった気持ちになったが、あえて自分が最高の評価を得られなかった理由について尋ねることをしなかった。自分にとってそのようなことは、大した問題ではなかったからである。

面接官のドイツ人は熱心に私をこの大学に誘い始めたが、私はすでにこの大学に最初から所属しているという感覚があったため、その熱心な勧誘の中に入ることなく、その勧誘の上に自己を置き、全ての言葉を流すように捉えていた。

興味深かったのは、志望動機書を読んだ人物もドイツ人だったのだが、私が日本語で執筆した志望動機をきちんと読み、内容を理解しているように思えたことだった。その証拠として、私の文章の随所に赤ペンで下線が引かれていた。

しかし、彼らは単に下線を引くだけで、それについては横に何もコメントを書き加えていなかった。思わず笑ってしまったのは、その面接官をマネジメントする立場の人間が背後にいるらしく、その自分が面接官の彼に日本語で何て私に話しかけるかを、事前に全て日本語で準備しており、その説明文言の全てが私の志望動機書の最初のページに日本語で記されていた。

先ほどの面接は英語で行われていたはずなのに、合否の結果の説明の際は、その面接官が流暢な日本語で話しかけてきたことを不思議に思っていたが、そのような背景があったようだ。

より厳密には、その面接官が日本語で何と私に話しかけるかについてのスクリプトを事前に準備し、そのスクリプトへの添削結果が私の志望動機書の冒頭のページに全て赤字で書き込まれていたのである。

その面接官をマネジメントするドイツ人の日本語能力は、生粋の日本人以上に高度なのかもしれないと思われるぐらい、添削のコメントが的を得ており、私は一つ一つのコメントの的確さに笑っていた。

一方で、それぐらいに高度な日本語を扱える人間が、なぜ私が日本語で書いた志望動機書の中身に下線だけを引き、なぜ何のコメントも書き込まなかったのかが不思議に思った。

その時私は、その人物は私が書いた文章の真意を深く理解していないがゆえに、何のコメントも残せなかったのではないかと思った。そして、それは確信に近かった。2017/9/25(月)06:37

No.231: Encounter with a Naked Body of Knowledge A couple of days ago, I encountered a naked body of knowledge.

It was my first experience. To put it plainly, the experience implies that our thinking center is our knowledge itself.

Adhesion and indivisibility exist between our existence and knowledge.

Here, knowledge that can be obtained through reading a book is not the knowledge that I pointed out. What I encountered was a nucleus of knowledge, which is my existence per se.

Considering this experience, my learning should adhere to the deep dimension of my being. 07:27, Tuesday, 9/26/2017

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