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1289. 内外世界の内外観察:日記と霊性


早朝の空の遥か彼方に、数羽の鳥が舞っているのが見える。一見すると、それらの鳥の動きは不規則であるように思えるが、間違いなく、それはある規則に貫かれたものであることがわかる。

私はもはや外側から観察する者としてその規則を把握するのではなく、対象そのものの内側からその規則を把握したいと強く思った。大空を舞う鳥の一羽一羽と同一化し、彼らの視点を通して大空を舞う時、世界はどのような形で認識され、その認識と動作を貫く法則が何であるのかを知りたい。

外側からの観察と内側からの観察はまるっきり異なるものである。私は一人の探究者として、その片方ではなく、それらの両方を絶えず行い続けたいと思う。

内側と外側からの観察を、自己を取り巻く内側の世界と外側の世界の双方に対して行うのだ、という強い気持ち。内外世界の内外観察をこれほどまでに希求したことはかつてなかったかもしれない。

もはや片方の世界を片方の観察方法で捉えるようには生きられないのだ。それは呼吸をせざるをえないのと同じほどにそうせざるをえないのである。

内外世界の内外観察。それを今日から新たな覚悟で推し進めていこうと思う。 昨夜の就寝前に、一つ重要な気づきがもたらされた。それは就寝に向けて歯を磨いている時に降ってきたものであり、すぐさま書斎に戻り、その気づきをノートに書き留めておいた。

それは極めてシンプルなことなのだが、これまで意識されていなかったこととして、非常に重要な意味を持つ。私はこれまで、自分が日記を書くことの意味を様々な側面から書き留めておいたように思う。

昨夜の気づきは、日記を書く新たな意味を私にもたらした。端的には、日記は自らの霊性の涵養と発達のためにあるのだ、ということに気づいたのだ。これは私にとっては全く新しい気づきであった。

もしかすると、すでに私はそれに暗示的に気づいていたのかもしれないが、それが明示的な言葉の形になったのは昨夜が初めてであった。日記というのは、単に日々の出来事の記録ではなく、それに対する単なる感想を書き留めることでもない。

また、日記というのは、出来事を何らかの枠組みを通じて解釈し、そこから新たな気づきを得ることによって解釈の枠組みそのものを小さく変容させていくということも超えた意味を持っている。結局私が気づいたのは、日記は自らの霊性を養い、それを育むものだということだった。

日記というのは、自らの霊性を媒介するものであり、そうなると自らの言葉というのは霊性そのものに変わりないのではないか、という思いがやってくる。自らの言葉を紡ぎ出しながら、私は自らに与えられた固有の霊性を養い、それを育んでいきたいと思う。

日記と霊性は表裏一体の関係にあり、日記は霊性に涵養と発達をもたらし、霊性は日記という自己に涵養と発達をもたらす。この関係性にこれまでどうして気づけなかったのだろうか。

今日記と霊性の関係について考えを巡らせていた時に思いついた重要な語彙とセンテンスがあったのだが、それらはどこかに消えてしまった。そのように考えると、日記と霊性の間には、今の私には気づけない深遠なものが横たわっているような気がしてならない。2017/7/11

追記

日記、すなわち自らの言葉が自身の霊性の現われに他ならないのであれば、日記を書き留めることは霊性を涵養・発達させるのみならず、それは霊性の発揮に他ならないのだと思う。

結局のところ、自らの霊性を涵養・発達させていくためには、この世界の中で自らの霊性を発揮する営みに従事しなければならないだろう。私たちを取り巻く世界に関与する形で発揮されない霊性は、涵養も発達もありえない。

そのようなことを思う。2017/7/18

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