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717. 収まらぬ余震


昨日からの余震がいまだに続いている。昨日は猛省に次ぐ猛省を強いられるような一日であり、それを契機に内側で生じた連続的な揺れの波がまだ収まりを見せていない。

未だ拭い切れない自己欺瞞の数々を乗り越えることができずにいることを猛省していた。特に、自分の頭を用いて自分で考えること、自分の心を用いて自分で感じること等、自律的な主体であれば意図せずとも行われるべき行為を、今の私は未だにそれを意識しなければ、自分の考えではない考えに囚われ、自分の感覚ではない感覚に囚われる。

それらに囚われてはいけないのだ。それらを超えることができなければ、自分の人生を生きていることにはならないのだと痛感させられる。

自分ではないものに自己を無意識に委ねてしまう時、突如として、生きているというあの確かな情感が色あせていくのである。そのような経験をしたことはないだろうか。

私にとって、自分ではないものとの癒着は、日々の探究生活の中で頻繁に見受けられる。それらは特に、文献を読む際や文章を書く際に顔をのぞかせる。

それらをなんとか振り払い、自分の頭と経験を通じて文献を読み、自分の頭と経験を通じて言葉を紡ぎ出すことを忘れたくはない。自己を通して言葉を読み解き、言葉を紡ぎ出すという一見単純に思えることが、いかに難しいことか。

そこからさらに私は、言葉の用い方についてより修練を重ねていかなければならないと痛感している。言葉の用い方は、思考の用い方と密接に結びついており、それは直ちに経験に作用する形で、自分のあり方にもつながってくるのだ。

自分の言葉・思考・経験・あり方の総体が、自分の内側で構築される体系に他ならないことを考えると、私が最初に着手すべきことは言葉の用い方にあるように思われたのだ。また、言葉の用い方のみならず、自分の言葉の貧困さについても目を当てなければならない。

言葉の貧困さは、直ちに体験の貧困さを招いてしまうように思う。いや、体験そのものは一つの素材であるがゆえに、言葉の貧困さは体験を掴み、それを咀嚼することを貧困にしてしまうように思うのだ。

非常に悩ましいことは、言葉を豊かにするためには、体験を言葉で純化していく作業が不可欠でありながらも、それを行うためにはそもそも言葉が豊かでなければならないということである。この逆説的な事態に気付いた時、言葉が貧困な状態から豊かな状態に移行していくために必要なのは、やはり言葉を生み出す根源的な存在の変容が不可欠なのかもしれないと考えるに至った。

根源的な存在はもしかすると、言葉のみならず、感覚や感情、果ては経験そのものを発露させるようなものである。それが変容を遂げる時、私の言葉はより成熟したものになっていくのだろう。

そうした変容を促していくのは、貧困な言葉を用いながらでも自分の言葉をなんとか紡ぎだそうと日々格闘することなのだと思う。2017/2/5

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