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369. 想い


就寝することと起床することが極めて難しい日々を送っている。今日という一日の中に込められた意味の粒子を振り返った時、その粒子が持つ密度に圧倒されてしまう自分がいるのだ。

そして、自分を圧倒するような密度を持った粒子が今日という日に存在したということ、その事実に感激する気持ちと今日という一日を心から惜しむ気持ちを抑えながら就寝することは難しい。また、明日という日がどれほど単調なものであったとしても、明日という日がやってくることを待ち遠しく思う気持ちを抑えながら一日を終えることは難しいのだ。

起床の際、今日という新たな一日がまた始まったという事実を受け止めることが難しい。そして、新たに始まった今日という一日の中で自分に届けられる意味の粒子を掴み切ろうとする、破裂してしまいそうな感情を抑えながら起床するのは実に難しいのだ。

今、私はフローニンゲンという新天地で生活を送っている毎日に形容しがたい感謝の念を抱いている。一人の人間の毎日が、これほどまでに充実したものとなり、生の充実の中で生きる時、一人の人間の思考・感情・感覚というものがこのような色彩と質感を持つのか、ということに対して驚きを隠せない。

今の私は日々ギリギリのところで生きているのだと思う。特に、学術探究の領域において、通用するか通用しないかのギリギリの瀬戸際に立たされながら毎日精進している自分がいる。それぐらい、教授陣のみならず周りの同僚たちが優秀なのだ。

このように、瀬戸際に立たされながら毎日淡々と誰も見ていないところで、自分が磨き続けるべきものをただひたすら磨き続けることの中に現れる玉虫色の感情が自分を襲うのだ。なぜ自分はいつも列の最後尾に置かれた時に、絵も言えない高揚感を覚えるのだろうか。こうした何とも表現しがたい高揚感は幼少期の頃に頻繁に味わってきた。それと似た感情が今の自分の中にある気がしている。

「瀬戸際に立たされる」という比喩表現の中にはどうも、これまでの自分と次なる自分の境界線という意味が内包されており、そこには不可避に現在の自己の死を暗示させる感覚が込められている気がするのだ。

フローニンゲンで生活を始めて以降、自分の感覚が鋭敏なものとなり、人間本来の根源的な生命力を爆発させるとする影には、やはり現在の自己の死というものが目の前に差し迫ったものとして絶えず突きつけられているからではないか、と思う。

今の自分には、現在の自己の死を悲愴がる気持ちも、新たな自己の誕生を祝福するような気持ちもない。そこにあるのは、一日の生の充実さの中で生じる玉虫色の感情に包まれながらも、その感情に埋没することなく、ただひたすらと自分の仕事を続けていくこと、この一点に尽きるのだ。

フローニゲン大学での学術生活の中で、今の私は自分の知識を拡張させることには関心が一切ない。確かに、自分の専門分野に関する知識を蓄積していくことは重要でありながらも、強い関心を持っているのは、フローニゲン大学がまさに体現しているように、学術生活の中で自分の存在をかけて獲得した知識を他者・組織・社会へ還元していくということである。

これまで講義を受けた中で、各教授陣が知性や能力の発達に関する学術的成果を国家レベルの政策にまで落とし込んでいる姿を目の当たりにし、また、多様な領域の組織に対して研究成果をもとにした仕組みづくりを積極的に提言している姿を目の当たりにし、より一層、一個人の中に知識を単に蓄えることの無益さを痛感させられているのだ。

そうした意味で、「関与」という言葉が私の中で鍵を握る。やはり、私は日本に関与し続ける形でしか生き続けることはできないし、それを止めてしまいたくないと心の底から思う。そうした関与を実現させるためには、私はこれから長大な時間をかけて自分の仕事を一つ一つ進めていく必要があるのだ。

そして、自分の仕事を一歩一歩進めていくためには、既存の充実感という感情を一周させた後に生まれてくる、今この瞬間に感じている超越的な充実感の中で生きる必要があるのだ。そのような生き方を私がしていくためには、母国を離れた場所で生き続けながら仕事を進めていかなければならないのである。

母国に関与しようという気持ちが強まれば強まるほど、自分は母国へ戻れなくなってしまうのだ。もう二度と母国で生活をすることはないかもしれない、という背中をひた走ったあの直感は、自分の一生を捧げてでも母国へ関与しようという想いの表れだったのかもしれない。2016/9/10

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